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妖奇譚~社畜やめて怪異と過ごす日々~ ※年内毎日更新  作者: Tomato.nit
第四章 巡り往くもの

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桜の行方3

夜明け前。雨の匂いがまだ街に残っていた。綾戸探偵事務所のドアが軋みを上げて開く。鈴が顔を上げ、次の瞬間、息を呑んだ。


「……朔夜様!」


白い着物の裾が裂け、肩には焼け焦げた跡。血の気を失った顔のまま、朔夜は黙って中に入る。手には包んだ桜の花びらが一枚、微かに光を放っていた。


「おい、その格好……」綾戸が立ち上がる。「何があった?」


「桜喰と死合うたがこの様よ」


その声は、どこか遠くから聞こえるようだった。鈴が慌てて救急箱を取りに走る。綾戸は黙ってタオルを差し出した。朔夜はそれを受け取り、無言で肩を拭う。焦げた匂いが、雨に濡れた空気に溶けていく。


朔夜の手の花弁を眺めながら、こんがぽつりと漏らした。「この花、いや、欠片じゃな。たったこれだけでどれほどのものか嫌でも伝わってくるのじゃ」


「……次は俺が出る。ちっとは弱ってんだろ」綾戸の拳が音を立てる。


「ならん」


「なんでだよ」


朔夜は顔を上げる。その瞳の奥で、青が一瞬だけ揺れた。


「綾戸。あれは“夜に誘うモノ”。お主の魂は既に一度、幽世に触れておる。だが今はまだ“人”として戻ってきた身。再び夜に足を踏み入れれば、今度こそ戻れぬ」


「……どういう意味だ」


「桜喰は、人の悔いを喰う妖。我が夜叉となった夜、あやつは傍におった」


空気が沈む。鈴が息を止め、こんが目を丸くした。


「……それって」


朔夜は静かに目を閉じた。薄い唇から、過去が零れ出すように言葉が続いた。


「我はかつて、人の身でありながらこの刀を振るった。戦乱の世、守るために血を流した。妖を斬るために鍛えられた刀で、人を斬り続けた。守りたい者のための刃が、いつの間にか奪うための刃となっておった。やがて、守るべき者の数よりも、斬った者の数のほうが多くなり、我はもう、人であることの意味を見失っておった」


彼女の声が、遠い記憶の奥へ沈むように掠れていく。


「ある夜、燃える村の中で――我は、ついに守るべき者を斬った。本来切るべき妖ではなく、切ってはならぬ人を。焔の中で、彼の目が“我を止めよう”とした。その瞬間、体が勝手に動いたのだ。煌々と輝く光の中で、血が舞った。あの時の赤は今でも覚えておる。この瞳がな」


朔夜の朱い瞳に、燃え残る焔が揺らめいた。


「その時、奴が生まれた。“その痛みを喰わせろ”と。あやつの声は妙に優しかった。赦しを乞う者に手を差し伸べるようにしてな」


雨の音が遠のき、事務所の空気が次第に夜へと沈む。朔夜の声が、まるで別の世界から響いてくるように低く沈んだ。


「焼け落ちた村には、血を吸った桜が咲き誇っておった。花弁は血を吸い、紅を深め、散った花が再び村を赤く染め上げた。死が咲き誇る――あの光景はそう言い表すしかなかろう。泣こうとしたが、涙は出なんだ。かわりに胸の奥が冷え、静かに凍っていった。……そして、我は望んだのだ。“この痛みを消してくれ”と」


「その瞬間、桜が光を放った。赤と白が絡み合い、花はひとつの“眼”となって我を見つめた。生と死が混じり合い、花は彼の魂と我が悔いを抱き合わせて咲いた。あの夜、桜はただの木ではなくなった。血と悔いを喰らう器、命の残滓を咲かせる“花”となった」


綾戸が黙って聞き入る中、朔夜の声はさらに低く沈む。


「……あの桜の根元で、我は崩れ落ちた。だが、彼の亡骸はもうそこになく、かわりに立っておったのは“あやつ”じゃった。主君――我が守るはずだった男。桜喰は、彼の者の骸と、我が名を喰ろうて生まれた」


沈黙が落ちる。鈴が息をのむ音が微かに響く。


「我が人の頃の名は“桜<さくら>”。彼は最期にそれを呼んだ。しかし、あやつはそれを名にした。“桜喰<おうか>”と。人の名を食い、花の名を得た」


朔夜は苦く笑った。


「皮肉よな。我が人であった証こそが最も忌むべき妖なのだから」


綾戸は唇を噛み、拳を握る。「……だから手を出すな。自分で片を付けるって。そういうことかよ」


「うむ。お主が夜に踏み込めば、その心を花にされる。あやつは人の悔いを糧とする。お主のように、まだ“願い”を抱いた魂は、殊のほか甘い香りを放つ」


「……好かれても困るな」綾戸が苦く笑う。


朔夜の唇がわずかに緩んだ。だがその笑みはすぐに消え、静かに言葉を重ねた。


「……これ以上、同じ夜を繰り返したくはない」


その言葉は、炎に焼かれた夜の底から零れた祈りのようだった。綾戸は言葉を探そうとしたが、何ひとつ見つからなかった。鈴は息を呑み、こんは小さく尻尾を震わせる。雨音が遠のき、事務所の時間が止まったように静まる。


外では雷鳴が低く唸り、黒い雲の裂け目から朝の光がひとすじ差し込んだ。その光が朔夜の頬を掠め、朱の瞳に淡い金を宿す。燃え尽きた焔の残り香が、一刻の温もりとなって部屋を照らした。


「――次は、終わらせる」


その声は決意というよりも、永く閉ざされた夜への別れのように響いた。誰も何も返せなかった。ただ、朝の光が静かに彼女の背を撫で、影を長く伸ばしていった。



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