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妖奇譚~社畜やめて怪異と過ごす日々~ ※年内毎日更新  作者: Tomato.nit
第四章 巡り往くもの

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桜の行方2

翌朝。綾戸探偵事務所には、昨夜の雨が残した湿り気がまだ漂っていた。窓際に差し込む光は白く霞み、どこかぼんやりとしている。こんが湯呑を抱えて欠伸をし、鈴が新聞を畳む音だけが響いた。


「綾戸様、今日の依頼どうします? 例の“桜の女”の件、また書き込みが増えてます」鈴が画面を見せる。匿名掲示板には、“夜道で桜の花びらを纏う女を見た”“花弁が血に変わった”といった話がいくつも投稿されていた。


「悪質なデマか、それか……」綾戸は視線を朔夜に向けた。彼女は机に手を添えたまま、静かに目を閉じている。


「……桜喰い、か」


鈴が息を呑んだ。「知ってるんですか?」


「遠い昔の話よ。あれは人の悔いを喰う妖。桜の根を這い、人の夢に巣を作る。季節外れの花、そやつがまだ眠っておらぬ証よ」


綾戸が黙り込み、視線で続きを促す。朔夜はゆっくりと立ち上がった。


「放ってはおけぬ。……我が行こう」


その声には、いつもの余裕がなかった。


「待て、単独行動は危険だろ」


「あれは我が“同族”じゃ。お主らの手には余る」


鈴とこんが言葉を失う。朔夜の背は細いが、立ち上がる姿には夜の気配が宿っていた。綾戸は腕を組み、しばらく考えた末に短く言った。


「分かった。だが、報告だけは入れろ。死なれたら後味が悪い」


「ふふ、夜叉が死ぬか。面白い」


そう言って微笑むと、朔夜は雨の残る街へ出て行った。


通りは昨夜の雨を吸い込み、空気が湿っていた。遠くで子どもの笑い声が響く。春が終わる匂いがする。朔夜は歩きながら、指先に宿る微かな力の揺らぎを感じていた。呼び声はまだ続いている。まるで誰かが夢の底から手を伸ばしているように。


足を止めると、風が吹き抜け、桜の花弁が一枚、肩に落ちた。その瞬間、世界がわずかに歪む。音が遠のき、色が沈む。街並みの影が伸び、夜の気配がにじみ出した。


「……やはり、起きたか」


視界の端に、細長い影が立っていた。女とも男ともつかぬ姿。髪の間から覗く瞳は、花弁と同じ薄紅色だった。


「久しいな、朔夜。夜叉の身で“人の世”に混じるとは、随分と殊勝じゃないか」


「お主が口を開くのは、二百年ぶりか。まだ性懲りもなく花を喰らうか」


「喰う? 違うな。咲かせておるのだよ。人の悔いも恨みも、花の糧となる。美しかろう?」


朔夜は静かに息を吐いた。その表情に、怒りとも悲しみともつかぬ影が差した。


「……それが美しさと言うなら、我は醜くともよい」


風が止み、桜の花弁が宙に浮いた。世界が再び夜に沈む。かつては共にあった二つの影が、静かに向かい合う。花弁がハラリと朔夜の頬を撫でた。


「くく……その目だ」桜喰いの声が低く響く。「共に歩いた夜を、あの者の血を、貴様はまだ憶えておるな。否、まだ欲しておる」


朔夜は答えず、ただ目を閉じた。瞼の裏に、散る花と炎が交錯する。静寂の中で、桜喰いが囁く。「あの夜、我らは同じものを喰ろうた。人の哀れと、己の罪をな」


「黙れ」


朔夜は目を開いた。その瞳から赤がすっと抜け、炎のような青が宿る。腰の柄に指を掛け、鞘を払う。そこにあったのは、薄く光を帯びた白刃――“月光”。夜を斬るために鍛えられた刀である。


抜き放たれた月光が、闇を裂いた。風が巻き上がり、無数の花弁が渦を描く。桜喰いの掌から赤い光が漏れ、空気が震えた。二つの気配がぶつかり、夜が悲鳴を上げる。


「人の世に染まりおって、その力も鈍ったか」桜喰いの笑みが夜に滲む。


「吐かせ!」


青い閃光が奔り、花弁が弾ける。影と影が交差し、空気が裂けた。閃光とともに、二つの姿が闇に沈む。風が止み、夜が凪ぐ。


桜喰いは片膝をつき、口元から血が滴り、腹には真一文字の傷が開いていた。流れ出る血はその身を離れると真紅の花弁へと姿を変える。


朔夜の肩には大きく焼け焦げた跡が残り、月光の刃先が鈍く光を揺らしている。


「……浅いか」


「やはり緩いな。その程度か」桜喰いは口角を上げた。その瞳には、懐かしさと痛みが混ざっている。


互いに距離を取り、夜風が間を吹き抜けた。沈黙ののち、朔夜が低く呟く。


「今宵こそは」


力なく落ちた左腕で、月光の柄を握り直す朔夜。


「望むところだ。と言いたいが、ここまでのようだな」


桜喰いの姿が崩れ、霧に溶けていく。朔夜はひとつ息を吐き、血に濡れた桜の花を拾い上げた。月光の刃を鞘に納め、空を仰ぐ。


「……まだ夜は終わらぬか」


苦々しく呟く朔夜に応えるように、遠くで雷鳴が低く唸った。



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