桜の行方1
春の終わりを告げる雨が、午後から降り続いていた。
窓の外では街路樹の若葉が濡れ、事務所のガラスに水の筋を描いている。
綾戸探偵事務所は、今日も変わらず静かだった。
いつものように綾戸はソファに沈み、鈴がコーヒーを淹れ、こんが箱菓子を抱えている。
「なあ鈴。お前、依頼の受信フォームに“心霊・呪い系も可”って書いたか?」
妙なタイトルのメールがひしめく受信箱に思わず綾戸が声を上げた。
「はい。最近、“可愛い幽霊が出るアパート”の相談が多いんですよ」
「それ、もうバズり目的のネタじゃねえか」
「でも、再生数稼げるらしいですよ」
「収益の分け前でももらいたいところだよ……」くだらない会話が続く。
ただ、朔夜だけは黙って窓を見ていた。
湯呑を手に、薄く笑みを浮かべたまま。いつも通りに見えるが、その視線はどこか遠い。
雨脚が強くなるたび、瞳の奥にわずかな揺らぎが生まれた。
「朔夜様?」鈴が声をかけると、朔夜は一瞬遅れてこちらを見た。
「……懐かしい香りがするな」
「え?」
「雨に混じって、桜の香り。季節外れのはずなのにな」
言われて鼻を利かせると、確かに微かに甘い匂いがした。
窓を開けると、風とともに一枚の花弁が舞い込む。
それはどこからか飛んできたらしく、湿った紙の上に落ちた。
「……桜?」綾戸が拾い上げる。薄紅の花びらはまだ生々しく、まるで今しがた咲いたようだった。
裏返すと、墨のようなものが滲んでいる。――“朔”の一文字。
「いたずらか?」綾戸が眉をひそめる。
だが朔夜は、ほんの少しだけ表情を変えた。
それは驚きではなく、戸惑いとも違う。何か、遠い記憶を掘り起こされたような――痛みの色。
「……今一度我を呼ぶか」
「呼ぶ?」
怪訝な綾戸の声に朔夜は静かに返す。
「“夜”のほうから」
その夜。事務所の灯が落ち、静けさに満たされた事務所。窓際に朔夜の影が伸びる。机の上に置かれた花びらは乾かず、淡く光を放っている。窓の外では雨が止み、街の灯りがにじむ。
目を閉じると、耳の奥で声がした。
「まだ見えているか」目を開けると、部屋の隅に影が立っていた。
黒い狐の尾が揺れ、その輪郭だけが闇の中で明滅する。懐かしさが胸を締めつける。
「……やはり生きておったか」
「生きている、とは言えぬ。ただ、おまえが“夜を離れた”と聞いて、確かめに来た。」朔夜は静かに立ち上がる。
白い指が花びらを撫でると、花は粉のように崩れた。
その瞬間、部屋の空気が冷え、夜が少し濃くなる。「離れるか。我は隣に居るというのに」
「それを“離れた”というのだよ、朔夜。」狐の影は笑った。その声には、懐かしさと、かすかな哀しみが混じっていた。次の瞬間、影は溶けるように消えた。ただ、窓辺に残された水滴が、ひとひらと桜に形を変えていた。
朔夜はそれを見つめながら、独り言のように呟いた。「……そろそろ潮時かのう」
外では、再び小雨が降り始めていた。その音は、まるで過去からの呼び声のように、静かに続いていた。――そして、夜がゆっくりと動き出す気配がした。




