アナザーサイド にぎやかな朝
そのころ、湖から少し離れた林道の先。赤い車のライトが細い道を照らし、止まった。
ドアが開く音とともに、綾戸と朔夜が降り立った。夜気は冷たく、湿り気を帯びた風が二人の髪を揺らす。遠く、湖面の方角には紅い光が瞬いていた。
「……見えるか、朔夜」
綾戸の声は低く、かすかに緊張を含んでいた。
朔夜は白銀の髪を耳にかけ、目を細める。その瞳に宿る赤が、遠い光を捉えて揺らめいた。
「ああ、ここに来て、ようやく本質が見えた。あれは、古い神か」
二人はしばらく言葉を失い、ただ湖の光景を見つめていた。遠くで水音が響く。紅の光がひときわ強まり、そして静かに沈んでいく。
「しばらくは様子を見るか」
綾戸が呟くと、朔夜はゆっくり頷いた。
「しばらくはしゃしゃり出るのはやめておこう」
竜胆たちの観測を双眼鏡で覗きながら、思わず軽口がこぼれる。
「自分たちがずっと見られてるとは夢にも思ってないだろうな」
「お主もずいぶんお人好しよのう。心配なら顔を出して一緒に居てやれば良いものを」
「さすがにあんな雰囲気をぶち壊すほど空気が読めないわけじゃない」
朔夜は再び視線を湖へ戻す。紅の光が薄れ、やがて朝の霞に溶けていった。
「……あの子、もう神でもないか」
綾戸が眉を上げる。「どういう意味だ」
「力を使い果たした。神格は崩れ、今はただの人。いや、本来の形に戻った言うべきか?」
「俺たちとは逆だな」綾戸は苦笑し、煙草を取り出して眺めたまま火を点けない。
「共に歩むというのは険しいものよな」
朔夜の声には静かな響きがあった。「だが、ともに歩むなら願いの重さも分け合える」
綾戸はしばし黙り、遠くで動く小さな人影――竜胆と紅、そして利根川と綾瀬を見やる。「……紅は、これからどうなる」
「しばらくはこの世に縫いとめられるだろう。竜胆の“記す力”が、彼女の存在を留めている。だが、いずれは完全にこの世界の理に馴染むであろう。人として生きるためには、少し時間が必要かもしれん」
「人として、か。皮肉なもんだな。神が人になるなんて」
朔夜は肩をすくめた。「それが“願い”というものよ。神でさえ人の願いに形を与えられる。……そして今度は、あの子が願う側」
綾戸は短く息を吐き、フロントガラス越しに夜明けの気配を見た。東の空が白み始め、林の影が長く伸びていく。
「……願いの連鎖ってやつか。結局、俺たちはその始まりと終わりを見届けるしかないんだな」
「それでよい」朔夜は微笑んだ。「記す者がいれば、祈る者が現れる。……そうして世界は回る。静かにな」
風が通り抜け、白銀の髪を揺らした。朝の光が二人の頬を照らし、夜の残光を洗い流していく。
綾戸はポケットの中のタバコを戻し、車に乗り込んだ。
「久々に無駄骨だったが、たまにはこういうのも悪くない」
「通算で無駄骨のほうが多くないか?」
「やかましい。迷子猫の捜索は打率十割だ」
「それも、あの黒猫の力を借りておるではないか」
朔夜がそう言って笑う。車のエンジンがかかり、ゆっくりと林道を抜けていった。背後には、光を失った湖が静かに横たわっていた。
数分後、綾戸のスマートフォンが震えた。ディスプレイには『鈴』の名前が表示されている。
「ん、なんだ?」
通話を繋ぐと、元気な声がスピーカー越しに響いた。
『綾戸様に残念なお知らせがあります』
運転席の綾戸が眉をひそめる。「な、なんだよ」
『こんちゃんのご機嫌が斜めです。かなり』
「なんでだよ。出るときは完全に寝てただろうが」綾戸はため息をつく。
助手席の朔夜は口元を押さえ、くすくす笑った。「自分がほったらかしにされたのが気に食わんのだろう」
『その通りじゃ!何故誰も童に質問せなんだ!』
鈴の後ろから小さな怒り越えが貫通してくる
「いや、だって寝てたし」
『きゅーーーー!気を使って黙っておっただけじゃ!』
綾戸が苦笑しながら応じる。「はいはい、悪かったよ。次からはちゃんと相談する」
『ふん、次は必ず童にも出番を寄越せ!でないと……!』
「でないと?」朔夜が笑いをこらえながら問う。
『でないと、晩飯のプリンを全部食ってやるのじゃ!』
車内に沈黙が落ちた。次の瞬間、綾戸が天を仰ぐ。「……おい朔夜、冷蔵庫のプリン、まだ残ってたか?」
「我がさっき食べたのは最後の一個だったが?」
『ふっ、勝利の味じゃ! しかもカスタード濃厚仕立てじゃ!』
『あ、さっきいっぱい作ったのにもう最後の一個?!』
「はあ……」綾戸が頭を抱える。「お前なあ、神仏よりタチ悪いぞ」
『わらわは妖じゃからの! 祈りより胃袋を満たす方が性に合っておる!』
朔夜は吹き出しそうになるのをこらえながら、綾戸の肩を叩いた。「ほれ見ろ、祈りも願いも、形は人それぞれだ」
「……やかましい」綾戸は笑いながら窓を開け、朝の風を吸い込んだ。遠くで鳥の声が響く。
『では帰りを待っておる!朝飯は鈴フレンチトーストがよいのう』
「お前、まだ甘いもん食うのかよ」
通信が切れる。車内に残ったのは、静かな笑いと風の音だけだった。
朔夜がぼそりと呟く。「にぎやかな朝だ」
「まあな。悪くない一日の始まりだ」
赤い車は再び走り出す。陽光が林の影を裂き、夜の残り香が消えていく。背後には、静かに光を飲み込んだ湖が、何も語らず見送っていた。




