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妖奇譚~社畜やめて怪異と過ごす日々~ ※年内毎日更新  作者: Tomato.nit
第三章 願いの形

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願いの形

――湖畔・直後――


水音が遠のき、風が戻る。紅の輪郭はもう揺れなかった。月光の下、濡れた髪先から滴る水が、砂利の上で小さく弾ける。


「……俺だけに見えてるわけじゃないよな」


竜胆が問うと、利根川は一歩だけ前に出て頷いた。「ああ。見えてる。……現実かどうかは俺にはわからんが」


綾瀬はタブレットを操作しながら、静かに息を整えた。「体温、脈波、呼気の湿度……“生体データ”が取れてる。湖面光の散乱も落ち着いてきた。――竜胆君の夢の話はさんざん聞いたけど、あなた、名前は?」


紅は綾瀬の方に向き直り、会釈した。「改めまして。僕はくれない。君たちが“見てくれた”から、僕はここにいる。それは紛れもない現実だよ」


その声には、確かな存在の響きがあった。水面に映る姿も、影も、もう幻ではない。竜胆の胸の奥で鼓動がひどく鳴る。見る――記す――忘れずにいる。それは彼がこの数年、呪いのように繰り返してきた行為だった。


「どうして、今になって?」竜胆は自分でも驚くほど掠れた声で訊いた。


紅は答えず、そっと竜胆の胸元に触れた。冷たい指先が、鼓動の上に置かれる。水と土と、そして微かに香の匂いが混ざる。


「僕は、願いを叶える存在じゃない。ただ、願いを受け止めて形を残す――それが僕の在り方なんだ」


短い言葉。けれど、その奥には遠い時間の層があった。


「昔の人たちはね、どうしようもない自然の前でただ祈ることしかできなかった。僕はその“祈り”を受け止めるために選ばれたんだ。生贄、という言葉が一番近いかもしれない。でも、それは恐れや犠牲じゃなくて、信頼の形だった」


綾瀬が目を伏せる。「……そんな在り方、今じゃ誰も想像できない」


紅は小さく微笑んだ。「いいんだ。人は祈ることより、選ぶことを覚えたから。生きたい、だけじゃなくて、どう生きたいかを願うようになった。だから、僕みたいな存在は少しずつ必要とされなくなっていった。それは悪いことじゃない。……ただ、少しだけ寂しいだけ」


利根川が低く呟く。「それでも、お前は残ってた」


「うん。竜胆がいたから」紅はやわらかく笑い、竜胆を見た。「小さい頃の君は、よく“見えてた”んだよ。希薄になっていた僕でも、見つけてもらえた」


「でも、そんな覚えはない」


「覚えてなくていいよ。僕が君の中で眠っていたから。君が見えなくなったものたちは、僕の内に沈んでいた。だから今まで見えなかったんだ」


竜胆は息を呑む。「じゃあ、俺が怪異を再び見始めたのは……」


「僕が呼んだんだろうね。君の“記すこと”が、過去の願いと繋がった。その時、僕も形を取り戻した」


紅の言葉が湖面を震わせ、光がわずかに揺れる。空気の密度が変わったように感じた。


「……つまり」利根川が言葉を探す。「竜胆が腹を括った。それで“来た”。そういうことか」


竜胆は黙って頷く。言葉にすれば、どこかが壊れてしまいそうだった。胸の奥に沈んでいた痛みを、ようやく指先で触れられた気がする。朝倉の残した未完の言葉。自分が切り捨てた一行の記録。その後悔を、彼は“記す”ことで贖おうとしてきたのだ。


――記すことは、願いだ。


その自覚がようやく骨にまで染みた。誰かのためでなければ逃げ道にしてしまう。自分のためだけなら、また過ちを繰り返す。


「……紅」


名を呼ぶと、紅は目を細めた。瞳の奥で、月光と同じ色の光が灯る。


「君の願いは、もう“過去をほどく”だけじゃない。誰かが払うはずだった代償を、別の道に置き換えること。私は、その願いを受け止める」


言い切った紅の肩が、微かに震えた。実体は安定しているのに、その存在はどこか儚く見える。触れれば壊れてしまいそうな、しかし確かな温もりがそこにあった。


「紅、無理はするな」利根川が短く言い、視線を竜胆に寄越した。「ここからは段取りだ。安全圏を確保して、状況を整理する」


綾瀬がうなずく。「観測ポイントを三か所に増やす。紅さんは――動ける?」


紅は一瞬考え、竜胆の袖口をそっとつまんだ。「竜胆のそばなら、歩ける。……今は、そういう“約束”になってるから」


竜胆は小さく息を吐いた。胸の重さが、少しだけ軽くなる。自分がようやく、過去ではなく“今”に足を置いたことを、その重さで知った。


「行こう」


言うと同時に、遠くの水面が小さく脈を打った。湖はまだ、夜のどこかで息をしている。未完の線が、きっとどこかで待っている。


「――記して。終わらせるために」


紅の声が、風と同じ高さでささやいた。三人と一柱は、月光の筋を踏みながら、最初の観測点へと歩き出した。


――湖畔・直後――


水音が遠のき、風が戻る。紅の輪郭はもう揺れなかった。月光の下、濡れた髪先から滴る水が、砂利の上で小さく弾ける。


三人は湖畔を歩き、観測ポイントへと移動した。場所は綾瀬が地形図と旧資料から事前に割り出した三点だ。反射強度の履歴、崩落記録、祠跡への見通し――それらを指標に、今夜は順にA→B→Cと回る予定になっている。湖の周囲には機材が並び、綾瀬が計器を調整している。利根川は周囲の安全を確認し、竜胆は紅の様子を気にしていた。


「光脈の再測定を始める。前回の観測データと比較して、変化があればすぐに記録して」綾瀬の声が夜気に響く。


紅はそっと計器のそばに立ち、湖面を見つめた。淡い光が紅の周囲で揺らぎ、まるで空気が応えるように波紋が広がる。彼女が指先で機材に触れると、計器が一瞬だけ高音を鳴らし、綾瀬の端末にノイズが走った。


「今の、何?」


「干渉だな。紅が触れた瞬間、数値が跳ね上がった」利根川が低く呟く。「科学の範囲じゃ説明できねえ」


紅は一歩下がり、申し訳なさそうに微笑んだ。「ごめん。僕がいると少し理を乱しちゃうかな」


竜胆は紅の横顔を見つめる。その光は柔らかく、しかし確かに存在している。過去の幻ではない。記録に残せる現実だ。


「……紅、触れてみてくれ」竜胆は静かに言った。「どこまで届くのか、知っておきたい」


紅は小さく頷き、再び指を伸ばした。計器の針が震え、湖面の光が応えるように脈動する。紅の周囲に淡い光が集まり、風が巻いた。


「ここまで……これが私の届く範囲。湖の光脈と私の中の“願い”が、少しだけ繋がってる」


綾瀬は画面を見つめながら息を呑む。「観測値が……まるで心拍の波形みたい」


紅の目が竜胆を見つめた。その瞳に、微かな紅の光が灯る。


「叶えられなかった願いを開放してあげよう」


湖面の光が小さく明滅し、夜の静寂が戻った。


――一地点目――


最初の観測点A。紅は湖面へ向けて手を伸ばし、指先から淡い光を放った。光が水面に触れた瞬間、波紋が緩やかに広がり、湖全体が静かに呼吸を始める。紅の足元で、紅い光が円を描いた。彼女の髪が微かに舞い、風と共に光の粒が空に散っていく。


「……湖が応えてる」竜胆が呟いた。紅の周囲で発光が強まり、まるで夜空の星を映したかのような輝きが広がっていく。計器が淡い音を立て、綾瀬の端末に数値が流れた。


「異常なし。安定した波形。まるで、紅さんの力が湖を整えてるみたい」


紅は静かに微笑み、湖を見つめた。「少し、眠っていたものを撫でただけ。……まだ、この子は目を覚ましたくないみたい」


竜胆はその横顔を見て、頷いた。力の行使というより、祈りの延長に近い。柔らかく、穏やかな干渉だった。





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