紅
――夜、鏡の淵(顕現)――
夜の帳が降り、山の稜線の向こうで月が顔を出した。湿った風が冷たく、夜気に土と水の匂いが混じる。湖畔のテントでは照明が灯り、機材のライトが点滅を繰り返していた。
竜胆はランタンの明かりに照らされながら、利根川と綾瀬のもとへ歩み寄った。二人はそれぞれ資料と端末を見比べ、真剣な表情で話している。
「地質サンプル、異常なし。水質も問題ないな。ただ……」利根川が低く呟く。「気圧の変化が妙だ。上空と湖面で二度跳ねてる。自然現象じゃ説明がつかねえ」
「観測機器もひどいデータ。ノイズが強すぎる」綾瀬が画面を指しながら言う。「電磁反応が不規則に跳ねてるの。まるで、何かが呼吸してるみたい」
竜胆は頷き、夜空を仰ぐ。月明かりが雲間を抜け、湖面を淡く照らしていた。鏡のような水の上に、一本の光の筋が走る。
「……行こう。夜の観測は今のうちだ」
三人はライトを消し、機材を手にして湖畔へ向かった。足音が砂利を踏み、夜の静寂を割る。風は弱まり、湖はまるで息を潜めるように静まり返っていた。
――そして、世界が動いた。
その瞬間までの静けさは、まるで時間が止まったようだった。虫の声が遠のき、風も消え、耳の奥で自分の鼓動だけが響く。波ひとつ立たない湖面に、月の光が鋭く走る。微かに水鳥の羽ばたく音がして、それが途切れた直後――湖が光を返した。
ぽつり、ぽつりと、淡い光の点が浮かび上がる。無数の点は線となり、編み込まれるように繋がっていく。光の糸が湖面を覆い、夜空の星座がそのまま水底に沈んだかのようだった。
「……なんなんだ、これは」
「計器が……! 信じられないくらい数値が跳ねてる!」綾瀬が声を上げ、端末を両手で押さえた。「こんなの自然の現象じゃありえない……自然の理では説明できません!」
利根川は眉を寄せ、竜胆の腕を掴む。「竜胆、離れろ! これ以上は危険だ!」
しかし竜胆は目を離さなかった。湖の光は彼を呼ぶように脈動している。胸の奥で何かが応える。懐かしい声が心の中に蘇る。
――『竜胆。光は願いの形かもしれない』
朝倉の声だ。あの夜の言葉が、再び現実を貫いた。
竜胆の足が水際へ向かう。利根川の声が遠くで響く。風が止まり、光だけが世界を照らした。
「竜胆! 戻れ!」
「ダメ!」綾瀬の叫びが夜を裂いた。
綾瀬の声が途切れ、空気が張り詰めた。
風もなく波立つ湖面。虫の声すら消え、音という音が吸い込まれていく。
その刹那、湖面が静かに脈を打った。
波の一つが竜胆の足元に触れ、中心へ向かって引いていく。一瞬の静寂ののち、光が爆ぜた。
水柱が立ち、無数の水滴が空に舞う。
滴が月光を反射し、白と青の光が乱反射する。湖は燃えるような紅を孕み、夜を裂いた。
その紅が形を取る。
水と光を纏い、静かに立ち上がる人影――紅。
夜の風に翻り、月光を受けて揺れる赤髪。
散る水滴が銀と紅の光を織りなし、足元では水が花のように開く。
光と水と紅が一つになり、月の光に溶けていく。
紅は一歩、また一歩と近づく。竜胆は息を呑む。
歩みが加速し、少女の姿が風を切る。
願いと想いが交錯する瞬間――紅は竜胆へと飛び込んだ。
衝撃とともに竜胆の身体が揺れ、冷たい水と温かな命の気配が混じり合う。
その瞬間、湖全体が光を放ち、夜空が紅く染まった。
「……ちゃんと、受け止めてくれたね」
紅の瞳は深く澄み、そこに映る竜胆の姿は震えていた。頬を伝う雫が、まるで湖そのものの涙のように地面へ落ちる。
竜胆は言葉を失い、ただその温もりを確かめる。湖面の光がゆるやかに落ち着き、紅と月光が溶け合う。
「僕はちゃんとここにいるよ」
紅の微笑みは、夜そのものを照らす光だった。風が再び吹き、湖の紅が静かに沈んでいった。




