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妖奇譚 ~怪異と歩む新たな道~ ※年内毎日更新  作者: Tomato.nit
第三章 願いの形
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巡り往く湖

――記憶の底、あの日が順にひらく。


最初に聞こえたのは、砂利を踏む音だった。車を降りてすぐ、二人で湖畔の遊歩道に立った。季節は晩春、陽は高く、風は冷たい。案内板には手書きで“鏡の淵”とある。朝倉は一枚写真を撮り、俺は時刻と天候、視程を手帳に記す。


『まずは“匂い”と“音”からだ』


朝倉はそう言って目を閉じ、浅く息を吸った。湿った土の匂い、若い草の青い匂い、遠くの集落から聞こえる子どもの声。俺はそのまま書き写す。――風向き北西、波高は微、湖面の反射は弱。


遊歩道から見下ろせる小さな入り江に降りる。足場は砂利と泥。朝倉は靴底の泥を気にせず、水際まで歩いていく。


『竜胆、先入観を捨てろ。最初の一時間は“観る”だけだ。計器はそのあとでいい』


俺は頷き、湖面を水平に眺める。雲の切れ間が走り、光が帯になって滑る。反射の筋は風と一致して流れ、特に異常なし――と書きかけて、朝倉の手が制した。


『その結論は夕暮れまで待て。光は時間で表情を変える』


昼の見取りを終えると、岸伝いに南東の斜面へ回り込む。崩落跡の古い警戒テープ、祠跡の石片、昨年の灯籠流しの張り紙――見えるものを順に拾い、地図に赤で印をつける。印の位置は詳細に記された。南東斜面の崩落跡には、赤い×印。祠の残骸は湖岸の窪地、薄く苔の生えた石を丸で囲む。張り紙が掲げられていた掲示板の位置には、四角の枠で囲み『過去行事跡』と書き込む。風が吹くたびに紙がめくれ、カメラのシャッター音が響く。湿った風に混じって、どこか鉄錆のような匂いがした。耳を澄ませば、森の奥から鶯の声と遠い水音が聞こえる。鼻をかすめるのは、湖面の冷たい水気と草の青い香り。朝倉はそれらをひとつひとつ確かめながら、黙々と歩を進めていた。


『聞き取りは集落でやる。今日は“地の機嫌”を見る日だ』


高台へ戻る途中、朝倉は懐中灯を一度だけ取り出し、影の角度を確認した。テストは日没後に回す、とメモに追記。ここで初めて、朝倉が小さく呟く。


『光は、願いを映す鏡かもしれない』


からかうような口ぶりではなかった。俺は返事を飲み込み、ただ時刻を記す。15:42。風向きは北寄りにわずかに転じる。


そのまま舗装路へ上がり、二人で集落側へ歩く。犬の鳴き声、軒先の風鈴、乾いた洗濯物の匂い。――聞き取り前、準備良好。ここで記録は一度切れている。


今になって思えば、すでにあの時から“何か”は始まっていたのだろう。


竜胆は深く息を吐き、手帳を再び取り出す。ページの隅には、当時の朝倉の署名が残っていた。インクが薄れても、その筆跡だけは消えない。


――現在――


昼を過ぎても、湖畔は静寂を保っていた。薄曇りの空の下、太陽の光は柔らかく拡散し、水面は穏やかに銀の光を返す。利根川が水質検査のボトルを湖に沈め、綾瀬がタブレットで計測結果を確認している。


「異常値はなし。水温も気圧も安定してる」


「魚影も見えるな。これじゃ“怪異の気配”どころか観光地だ」利根川が苦笑しながら言う。


「環境的には問題なし。でも、データの静けさが逆に気になる」綾瀬は画面を見つめながら呟いた。「こういう時、何かが“潜んでる”パターンが多いのよね」


「焦るな。昼間は何も起きないほうが普通だ。……問題は夜だ」竜胆は腕時計を見ながら応じた。風の音だけが、ゆるやかに耳を撫でていく。


しばらく湖面を見渡したのち、竜胆は小さく息を吐いた。「ここでの調査は一旦切り上げよう。当時の記録に倣って、集落を回る」


利根川が頷き、機材を片付ける。綾瀬もデータを保存し、端末を鞄に仕舞った。


舗装路を離れ、三人は山道を抜けて集落へ向かう。苔むした石段が続き、道の端では小川が細く流れている。鳥の鳴き声が遠くから響き、日差しが木々の間を縫って落ちていた。


その景色が、竜胆の記憶の奥を刺激する。朝倉と歩いた、あの日の道だ。


――記憶が重なる。


当時も、同じ坂を上っていた。昼の光が木漏れ日となって地面に踊り、朝倉が手帳を片手にメモを取りながら歩いていた。


『竜胆、聞き取りの時は表情を固くするなよ。地元の人は、警察の顔より人の目を見て話すもんだ』


『心得てます。……が、俺、愛想はないですよ』


『いいんだ。それが“お前らしさ”だ。無理に笑うと怪しまれる』


その軽口が、今でも耳に残っている。木々の間を抜ける風が、当時と同じ匂いを運んでくる。草、湿った木の皮、そして微かに香る線香の匂い。


「……この道だ」竜胆は小さく呟いた。


「どうした?」利根川が振り返る。


「五年前、朝倉さんとここを歩いた」


綾瀬が無言で視線を送る。風が三人の間を抜け、どこか遠くで風鈴の音が鳴った。


竜胆は歩みを止め、目を閉じた。――記録には残らなかった記憶が、静かに蘇る。


その時、耳の奥で風が形を持つ。誰かの声が混じっていた。


『竜胆。地の声は、時に人の声より雄弁だぞ』


記憶の中の朝倉の声が重なり合う。


竜胆は目を開けた。遠く、集落の屋根が見えた。あの時と同じ形の家並み。時間だけが流れ、風景は何一つ変わっていないように見えた。



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