因縁の地
――湖畔――
正午を過ぎた頃、竜胆たちは“鏡の淵”に到着した。山の合間に広がる湖は、冬を思わせるほど静まり返っていた。風が止まり、水面は鏡のように空を映している。四方を囲む木々の枝が薄く揺れ、木漏れ日が水面に落ちて銀色の波紋を描いた。
「ここが……」
利根川が呟いた。カメラを首に下げ、辺りを一望する。綾瀬はタブレットを構え、温度・湿度・気圧の計測を開始していた。彼女の表情はいつも通り冷静だが、目の奥には微かな緊張が宿る。
竜胆は湖を見つめながら、無意識にポケットから古びた手帳を取り出した。ページの端が擦れて波打っている。そこには、朝倉とともにこの地を初めて訪れた日の記録が残っていた。
――『第六調査日。鏡の淵南東部。夜間、光の帯が観測される。』――
その文字を追う指先が震えた。記録に記された日付が、朝倉の命日と重なる。風が吹くたび、記憶が少しずつ蘇っていく。
「……朝倉さん。あんたの目には何が見えてたんだ」
呟きが風に溶ける。目を閉じると、当時の声が浮かんだ。
――『竜胆。光は、願いを映す鏡かもしれないぞ』
あの夜、朝倉はそう言って笑った。懐中灯の光が湖面を照らし、そこに手の形のような反射を見た。竜胆はそれを“錯覚”と片づけた。だが、今の彼にはあの瞬間が鮮明に焼き付いて離れない。
「竜胆、何か気になるのか?」利根川の声で現実に引き戻される。
「ああ……少し、昔のことを思い出してた」
「現場感覚ってやつか。忘れられん場所ってのはあるよな」
竜胆は頷き、手帳を閉じてポケットに戻した。息を吸い、視線を湖の中央に向ける。太陽の光が水面で反射し、一瞬だけ眩しい帯を作った。
――手の平。あの時の光景が重なる。
それは錯覚か、記憶の影か。竜胆の心臓が静かに跳ねた。
綾瀬がデータを見ながら声を上げる。「風速ゼロ。湿度七十八。光の反射値が少し上がってる。自然現象としては説明しづらい」
「機器の誤差か?」利根川が尋ねる。
「誤差の範囲は超えちゃってる。十分異常値。」綾瀬の声には、わずかに不安が混じっていた。
竜胆はしゃがみ込み、水面を覗き込んだ。自分の顔が揺れる。その奥、ほんの一瞬だけ別の何かが映った気がした。白い影。
「願いに飲まれちゃダメだよ」
かすかな声が耳の奥をくすぐる。竜胆は顔を上げた。風は止んでいる。利根川と綾瀬はまだ機材に集中していた。聞こえたのは自分だけらしい。
「……紅」
その名が自然と口を突いた。湖面がわずかに揺れ、光の線が消える。
遠い記憶と現在が交わる音のように、竜胆の胸の奥で何かが軋んだ。
――記憶の底、あの日が順にひらく。
最初に聞こえたのは、砂利を踏む音だった。車を降りてすぐ、二人で湖畔の遊歩道に立った。季節は晩春、陽は高く、風は冷たい。案内板には手書きで“鏡の淵”とある。朝倉は一枚写真を撮り、俺は時刻と天候、視程を手帳に記す。
『まずは“匂い”と“音”からだ』
朝倉はそう言って目を閉じ、浅く息を吸った。湿った土の匂い、若い草の青い匂い、遠くの集落から聞こえる子どもの声。俺はそのまま書き写す。――風向き北西、波高は微、湖面の反射は弱。
遊歩道から見下ろせる小さな入り江に降りる。足場は砂利と泥。朝倉は靴底の泥を気にせず、水際まで歩いていく。
『竜胆、先入観を捨てろ。最初の一時間は“観る”だけだ。計器はそのあとでいい』
俺は頷き、湖面を水平に眺める。雲の切れ間が走り、光が帯になって滑る。反射の筋は風と一致して流れ、特に異常なし――と書きかけて、朝倉の手が制した。
『その結論は夕暮れまで待て。光は時間で表情を変える』
昼の見取りを終えると、岸伝いに南東の斜面へ回り込む。崩落跡の古い警戒テープ、祠跡の石片、昨年の灯籠流しの張り紙――見えるものを順に拾い、地図に赤で印をつける。印の位置は詳細に記された。南東斜面の崩落跡には、赤い×印。祠の残骸は湖岸の窪地、薄く苔の生えた石を丸で囲む。張り紙が掲げられていた掲示板の位置には、四角の枠で囲み『過去行事跡』と書き込む。風が吹くたびに紙がめくれ、カメラのシャッター音が響く。湿った風に混じって、どこか鉄錆のような匂いがした。耳を澄ませば、森の奥から鶯の声と遠い水音が聞こえる。鼻をかすめるのは、湖面の冷たい水気と草の青い香り。朝倉はそれらをひとつひとつ確かめながら、黙々と歩を進めていた。
『聞き取りは集落でやる。今日は“地の機嫌”を見る日だ』
高台へ戻る途中、朝倉は懐中灯を一度だけ取り出し、影の角度を確認した。テストは日没後に回す、とメモに追記。ここで初めて、朝倉が小さく呟く。
『光は、願いを映す鏡かもしれない』
からかうような口ぶりではなかった。俺は返事を飲み込み、ただ時刻を記す。15:42。風向きは北寄りにわずかに転じる。
そのまま舗装路へ上がり、二人で集落側へ歩く。犬の鳴き声、軒先の風鈴、乾いた洗濯物の匂い。――聞き取り前、準備良好。ここで記録は一度切れている。
今になって思えば、すでにあの時から“何か”は始まっていたのだろう。
竜胆は深く息を吐き、手帳を再び取り出す。ページの隅には、当時の朝倉の署名が残っていた。インクが薄れても、その筆跡だけは消えない。




