揺蕩う過去
車内は次第に静けさを取り戻していた。ラジオも切られ、タイヤがアスファルトを擦る音だけが一定のリズムを刻む。利根川は早々にシートを倒し、腕を組んでうたた寝を始めている。綾瀬は運転に集中し、無言で前方を見据えていた。
手持ち無沙汰になった俺は、膝の上に手帳を広げた。ページの間に挟まっていた古い付箋が、微かな音を立てて滑り落ちる。そこには、もう擦れて読めない文字と、薄く滲んだインクの跡があった。
視界の端で風景が流れていくのをぼんやりと眺めながら、俺の意識はゆっくりと過去へ沈んでいく。
――零課に配属されて間もない頃。あの頃の俺はまだ、怪異というものを“記録できる現象”程度にしか見ていなかった。
『第六調査日。湖岸南東の斜面で温度差を確認。誤差範囲内。』
手帳の端に記された走り書き。あの日も、同じようにこの文字を追っていた。湿った風。夜の湖面。朝倉が持つ懐中灯の光が、水面の揺らぎを不自然に照らしていた。
『竜胆。お前、この反射、どう思う?』
“ただの乱反射ですよ。”
そう答えた自分の声が、記憶の底から聞こえてくる。今思えば、あの一言がすべてを狂わせたのだ。
“光は願いを映す鏡かもしれない”――あの時、朝倉が呟いた言葉。その意味を、俺は知らなかった。いや、知ろうとしなかった。
あの湖には、古くから“鏡の淵”と呼ばれる伝承があった。祠の前で灯を翳すと、水面が「願いの形」を返す――と。俺の手帳には、その聞き取りの欄に大きく斜線が引かれている。『民間伝承』と走り書きのメモ。それを書いたのは俺だ。
実際、観測機器は異常を示していなかった。温度、風速、湿度、どれも規定値。だが、ひとつだけ数値に現れないズレがあった。懐中灯の光が作る反射の帯が、風向きと無関係に“留まる”こと。水紋の位相が揺らいでも、光は形を保ったまま、まるでそこに『何かの輪郭』が在るかのように。
『竜胆、見ろ。波が戻っても、光の線は崩れない』
『確かに輪郭に見えますが、何か沈んでたりすれば十分起こり得る現象です』
俺はそう答え、次のページへ視線を走らせた。ページの端には、地元の老人から預かった紙片が貼ってあった。墨で書かれた五行の走り書き――『祠は願いを映す鏡。灯を翳して問え。返る形は、残された願い。』その紙片の横にも、俺は赤字でメモしている。『検証困難。保留』。
崖下の祠跡を照らしたとき、光は楕円に裂け、縁だけが鈍く残った。朝倉はそこに『手のひらの形』を見たと言った。俺には見えなかった。見ようともしなかった。
『何を掴もうとしているんだ。あの手は』
『手なんて俺には見えませんよ』
短く切った俺の言葉のあとを埋めるように、遠くで乾いた音がした。小石が転がり、斜面がわずかに沈む気配。俺は地盤データのグラフを見直し、許容範囲だと判断した。許容――それも俺の言葉だ。
夜風に混じる声。記録には残していないが、あのとき確かに「待って」という小さな囁きが耳を掠めた。俺はそれを風のいたずらだと片付けた。
そのとき、朝倉が指差した先には、灯籠流しの古い写真が祠跡に飾られていた。紙は湿気で黄ばみ、かろうじて灯籠の光が並ぶ様子が見て取れた。その一枚の隅――水面に反射した光の中に、ぼんやりと『掬い上げる手』の形が写っていた。
それでも俺は、信じなかった。データにならないという理由で、祠の由来や地元の記録をすべて斜線で消した。
「……大丈夫?」
心配そうな綾瀬の声で意識が現実に引き戻される。気づけば夢中になっていた。悪いくせだ。
「少し、昔を思い出してた」
「なら、今度こそ間違えないで」
その言葉に頷き、再び手帳を閉じた。ページの中の古いインクが、まるでまだ乾かぬ血のように見えた。




