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湖畔へ

庁舎の朝は、いつも静かだ。夜のうちに降った雨が舗道にまだ残っていて、昇り始めた陽光を鈍く弾いている。


出勤前の職員たちがちらほらと廊下を行き交う中、俺は資料室の扉を押し開けた。乾いた紙の匂いと、コーヒーの焦げた香りが混ざる空間。


「おはよう。昨日も夢の続きを見た様子だな」


声をかけてきたのは利根川だ。寝不足気味の顔に、書類の束を抱えている。昨日は平和な一日ではなかったらしい。


「こっちはあの後、未決の処理が回ってきててんてこまいだ。そっちの妖怪会議の結果はどうだったんだ」


「大した収穫はないが、知見は増えた。湖畔の調査では多少役には立つだろう」


利根川が片眉を上げる。「多少か」


「綾瀬は?」


「もう庁舎に来てる。準備を済ませたら出るそうだ」


廊下の向こうから軽い足音が近づく。綾瀬が手にタブレットを持って現れた。昨日の会合の内容をまとめていたらしい。


「二人とも揃ってるね。じゃあ、予定通り行きましょう。車は用意してある」


利根川が短く応じる。


庁舎を出ると、朝の空気が頬を刺した。雲は薄く裂け、湖の方角には靄がかかっている。車のドアを閉める音が三つ、ほぼ同時に響く。


運転席に綾瀬、助手席に俺。後部座席に利根川。窓越しの光の中に懐かしい気配を感じたのは、この助手席に座ってあの場所に向かうからだろうか。


エンジンが唸りを上げ、車は庁舎を離れる。湖畔までは二時間足らず。その名を聞くだけで胸の奥がわずかに疼く。そこは、零課に配属された当初の事件――上司の朝倉を失った、あの日の現場でもある。


車内に微かな振動が伝わる。俺は膝の上に置いた手帳を開いた。ページの隅には、震える筆跡で走り書きが残っている。


『第六調査日。湖岸周辺の温度変化、異常なし。ただし水面反射に一瞬の揺らぎ。原因不明。』


紙の匂いとインクの跡が、あの夜の湿った空気を呼び起こす。朝倉の声、崩落前の警告音、そして自分が無視した“小さな異変”。それがすべての始まりだった。


『光は願いを映す鏡かもしれない』


二重線でかき消された、その一文を読んだとき、胸の奥に熱が走る。俺は確かにその言葉を聞いていた。だが、当時の俺は“迷信”として片付けてしまったのだ。


「なあ竜胆、お前平気か?」


利根川の声に現実へ引き戻される。


「ああ。……少しだけ昔を思い出してた」


「そうか……」


利根川はそれ以上何も言わず、沈黙が車内に戻る。ワイパーが一度だけ窓を拭った。滲んだ陽光が、街の輪郭を淡く溶かしていく。


――朝倉の言葉が、ふと脳裏をかすめた。『忘れるなよ、竜胆。俺たち刑事に必要なのは――』


その続きを、今でも俺は知らない。

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