トイレ?の花子さん
深夜。静かな部屋の中で、竜胆は夢から目を覚ました。
額に冷たい汗が滲んでいる。夢の中で見た光景は、記録に残るどの事件よりも鮮明だった。彼女の姿、あの夏の風、指先に触れた温もり。ひとつひとつが現実のようで、胸の奥が締めつけられる。
「……またか」
低く呟き、ベッド脇のノートを開く。震える手で、夢の断片を記録していく。インクが滲み、夜の静寂の中でペン先の音だけが響いた。
――彼女、手を伸ばす。声、聞こえず。光、近い。
書いても、言葉にはならない。思考の隙間から、かすかな声がこぼれ落ちるようだった。
そのとき――
「また夜更かし? 体に悪いわよ」
軽やかな声とともに、窓辺のカーテンが揺れた。風が入り込み、部屋の空気がわずかに変わる。振り向けば、そこに花子さんがいた。夜の街の灯を背に、窓枠に腰をかけている。
「……ドアって知ってるか」
「知ってるけど、使う必要がないのよ。便利でしょ?」
竜胆はため息をつき、ノートを閉じた。「便利って言葉の意味を調べ直した方がいい」
「まあまあ。そんな怖い顔しないの」花子さんはひょいと机の上に降り立つ。「ねぇ、夢、見てたでしょ?」
竜胆は目を細める。「……何で分かる」
「顔に書いてあるわ。“誰かを思い出した”って顔」
竜胆は答えず、カップに残っていた冷めたコーヒーを一口飲んだ。苦味が喉を通り、ようやく現実に戻っていく感覚がする。
「彼女の夢、でしょ?」
「……そうだ」
「ふうん。ずいぶん長い夢ね。まるで、誰かに見せられてるみたい」
「まさか。そんな都合のいいことがあるか」
花子さんはにやりと笑った。「都合が悪い方かもしれないわよ?」
「冗談にしては、質が悪い」
「冗談じゃないわ。まあ、あんたにはまだ早いってだけなんでしょうけど」
竜胆の手が止まる。ペンがコツンとノートに当たる音が響いた。
「……何が言いたい」
「気づいてないでしょうけど、ちゃんと見えてる人もいるのよ。良いか悪いかは知らないけど」
竜胆は視線を逸らす。窓の外には、街の光が遠く滲んでいた。
「……それは、悪いことなのか」
花子さんは少しだけ目を伏せた。「悪いなんて言わない。でも、見えるってことは、“繋がってる”ってことよ。どこかでね」
「繋がってる……?」
「ええ。夢っていうのは、心の底から伸びる糸みたいなもの。引っ張られすぎると、切れるの」
竜胆は無言でペンを置き、椅子に背を預けた。「心配はいらない。切れるほど柔じゃない」
「それならいいけど」花子さんは柔らかく笑った。「でもね、竜胆。あなたの夢はただの記憶じゃない。彼女の“想い”も、そこに混ざってる」
竜胆はその言葉に眉をひそめた。「どういう意味だ」
「まだ言えないわ。本人が教えたいみたいだから」
「本人?」
花子さんは唇に指を当て、静かに言った。「そのうち、わかるわ」
そう言って、窓の外へ身を翻す。夜風が吹き込み、カーテンが大きく揺れた。
「「……おやすみ、竜胆」」
風が収まると、花子さんの姿はもうなかった。
花子さんの声と重なるように
もう一つの暖かな声が竜胆の鼓膜を揺らした気がしたが、その姿はどこにもない。
ただ、ノートの端に赤いインクの滲みだけが広がっている。




