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鈴の音の少女 23:56

夜の森は静まり返っていた。三人の足元を照らすランタンの光が、落ち葉に濡れた地面を揺らめかせている。昼間に見た祠の跡地が、月明かりの下ではまるで別の世界のようだった。


「気温、また上がってます」綾瀬がタブレットを覗き込みながら言う。「今度は十度近く……」


「この時間でそれはおかしいな」利根川が息を吐く。「おい竜胆、何か感じるか?」


竜胆は答えなかった。目を細め、祠の奥に視線を向ける。昼間はただの崩れた石の山だった場所が、今は淡い光を放っていた。


「……風が鳴ってる」


「え?」綾瀬が顔を上げた。たしかに、どこからか低い音が響いていた。風が吹くたびに石が擦れ、鈴のような音が森に溶けていく。


「この音……覚えてる」竜胆が呟いた。


「夢の中の?」利根川が茶化すように言ったが、その声にもかすかな緊張が混じっていた。


「違う。昔、ここで聞いた。あの夏の音だ」


そう言った瞬間、空気が変わった。風が止み、森全体が息を潜める。祠の奥で赤い光が点いた。最初は小さく、やがて呼吸のように明滅を始める。


「……温度上昇。異常発光……」綾瀬の声が震える。


利根川が一歩退く。「おいおい、また始まったか……」


竜胆はゆっくりと前へ出た。光が強まり、木々の影が紅に染まる。空気が暖かく、懐かしい匂いが混じっている。


祠の奥に、形が生まれる。霧が立ち昇るように、淡い光の中から人影が浮かび上がった。


「……師匠」


竜胆の声が震える。光が揺れ、少女の輪郭が現れた。紅の瞳が月光を映し、彼に微笑みかける。


「久しぶりだね、竜胆」


その声は風よりも静かに、けれど確かに届いた。


「……夢じゃないのか」


「夢なら、もう少し優しくしてあげるよ」紅が微笑む。彼女の姿は半透明で、触れられそうで触れられない。だが、その温度だけは確かだった。


「……ずっとここにいたのか。」


「いいや?君は忘れちゃったかもしれないけど約束したんだよ。ずっと君を見守るってさ」


ついこの間見た懐かしい夢の内容が竜胆の脳裏によぎる。


「そういえば、そうだったな」


紅は視線を落とし、足元の祠にそっと手を伸ばした。


「でもさ、なんの因果か、こんなところでまで君が来ちゃったから」


「師匠……」竜胆の喉が詰まる。「俺は、全部忘れて・・・」


「いいの」紅が首を振る。


その瞬間、風が再び吹いた。紅の輪郭が崩れ、光の粒が空へ舞い上がる。


「待て……紅!」


竜胆が手を伸ばす。けれど、指先は空を掴むだけだった。


「またすぐに会えるよ」紅の声が風に溶けて消える。夜空には雲一つなく、祠の上に浮かぶ月が静かに輝いていた。


風が止んだ後、沈黙が残った。誰もが息をすることを忘れていた。祠の前で竜胆はしばらくその場に立ち尽くし、指先を見つめていた。まだ微かに紅の温度が残っている気がした。


「……今の、見えてたよな?」利根川がようやく声を出す。


「見ました。記録も取れてます。でも……」綾瀬がタブレットを見つめながら首を振る。「映ってないんです。データは反応してるのに、映像には何も……」


「そんなバカな。あの距離で何も映らないわけがねぇ」


「電子的な干渉……それにしては自然すぎます」綾瀬の声が震えていた。


竜胆は二人のやり取りを黙って聞いていた。彼の視線は、紅が消えた場所から離れない。そこにはただ、月光を反射する石と、夜露に濡れた苔だけが残っている。


「竜胆、おい、竜胆!」


利根川が肩を掴む。竜胆はゆっくりと顔を上げた。


「……あれは、確かに“紅”だった。」


「紅?」利根川が目を細める。「名前までつけてんのか?」


「いや……そう呼んでいた気がする。昔、子どもの頃に。」


綾瀬が驚いたように顔を上げた。「子どもの頃に、あんな存在を?」


「……ああ。あの時は人間だと思っていた。話して、笑って、手を取って……」


言葉が喉で途切れる。自分でも整理のつかない感情が胸を締めつけていた。


「けど、今日見たのは……まるで、違う何かだった」


「違う何か?」利根川が口を挟む。「幽霊か、幻覚か、どっちだ?」


「わからない」竜胆の声は低く沈む。「でも、あの目は確かに“知っている”目だった。俺を、ずっと見ていたような」


瀬織はそっと口を開く。「……まさか、その“紅”って、あの事件と関係あるんですか?」


竜胆はしばらく答えなかった。夜風が木々を揺らし、祠の石がかすかに鳴った。


「断定はできない。だが、あの光の波長、温度、全部が……どこか懐かしい。俺が忘れかけてたものと同じ匂いがする。」


利根川がため息をつく。「お前の言う“匂い”とか“気配”とか、いつも説明になってねぇんだよ。」


「説明できるものじゃないからな」竜胆が答える。「だが……少なくとも敵意は感じなかった」


「敵じゃない?」綾瀬が呟く。「じゃあ、何なんです?」


竜胆はゆっくりと息を吐いた。「わからない。ただ――あの存在は俺を“覚えていた”。それだけは確かだ」


三人の間に静寂が落ちた。遠くで雷鳴が鳴り、夜の空が一瞬だけ白く光る。


「……とりあえず報告書どうする?」利根川がぼそりと呟く。「幽霊と再会しました、なんて書けねぇぞ」


綾瀬が苦笑する。「“異常発熱現象・未確認発光体との遭遇”でいいんじゃないですか?」


「お前、それ絶対に上に回す気ないだろ」


「どうせ信じてもらえませんし」


その軽口に、竜胆の緊張が少しだけほどけた。夜風が頬を撫で、森の奥で再び鈴の音が響いた。


「帰るぞ」


「いいのか? まだ調べられるだろ。」


「今はそれでいい」竜胆は短く言った。その声に迷いはなかった。


彼は祠を一度だけ振り返る。そこにはもう光はなく、ただ月の白が冷たく照らしているだけだった。けれど、風が吹いた瞬間、鈴のような音が再び響いた。


まるで、別れの挨拶のように。

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