朝の庁舎 08:25
庁舎は、まだ朝の冷たさを引きずっていた。蛍光灯の白い光が書類の束を照らし、どこか人工的な空気が漂っている。コーヒーの匂いとコピー機の熱気、パソコンのファンの音――それらが一緒くたに混ざり、目が覚めるには十分すぎた。
「おはようございます、竜胆さん。早いですね」
綾瀬がタブレット片手に振り向いた。髪はいつもより整っていて、目の下の隈も薄い。寝てないのは、どうやら自分だけではなさそうだ。
「おはよう。報告ってのは?」
「これです」瀬織が画面を竜胆の前に差し出す。データグラフには、波形が不規則に跳ねていた。
「例の湖畔ともう一ヶ所。夜明け前にもう一度、温度変化を観測しました。十秒だけですが、明らかに外気温より高い。しかも……」
「また赤外反応か」
綾瀬が驚いた顔をする。「どうしてわかったんです?」
「勘だ」
「便利な勘ですね。データ班の存在意義が揺らぎます」
「お前たちは裏付けるのが仕事だ。俺は感じ取るだけでいい」
「感覚派なんですね」
「神経質って言われるよりマシだろ」
綾瀬が苦笑する。そのとき、ドアが開いて利根川が入ってきた。カップ麺の容器と缶コーヒーを手にしている。
「朝から険しい顔してんなお前ら。そんなに難しい話か?」
「このデータの話です。」瀬織が答える。「夜明け前、また温度が跳ねました」
「へえ。何度?」
「八度」
「八度? それもう温泉だろ」
「観測装置が温泉掘ったら、うちの財布も私の肌も潤うんですけどね」
「うるせぇ」利根川は缶コーヒーを開けて一口飲む。「で、どうなんだ竜胆。お前の“勘”は?」
竜胆はコートを脱ぎ、椅子にかけながら画面を覗き込む。確かに、グラフの一部が紅のような色を帯びていた。赤外線反応の記録表示。けれど、それはただの機械の誤作動とは思えない規則性を持っていた。
「……このパターン、まるで呼吸だな」
「呼吸?」利根川の声が重なる。「湖が息してるってのか?」
「生きてるものの熱の出し方に似てる。一定じゃない。間がある」
瀬織が首を傾げる。「じゃあ、何か生き物がいるんですか?」
「いや、棲んでるわけじゃない。何かが“息をしてる”だけだ」
利根川は眉をひそめ、コーヒーを机に置く。「詩的だな。気持ち悪ぃ」
「竜胆さん、昨日の夜……何か、ありました?」瀬織が慎重に問いかける。
竜胆は少しだけ間を置いて答えた。「夢を見た。懐かしい夢だ」
「夢……?」
「昔のことだ。俺がまだ、子どもだった頃の」
「へぇ。竜胆にも子ども時代があったのか」利根川が軽口を叩く。
「当然だろ」
「で? その夢と、このデータに関係が?」
竜胆は静かに視線を落とす。「さあな。だが……懐かしさの中に嫌な予感がする」
「お前の予感って、だいたい当たるからタチ悪いんだよ」
瀬織が、わざと明るく声を出す。「それじゃ午後の確認、三人で行きましょう。どうせまた夜になるんでしょ?」
「そのつもりだ」
「マジか……夜の湖畔とかホラー映画かよ」利根川が頭を掻く。
「夜の湖畔なら出てくるのはお化けじゃなくてホッケーマスクの殺人鬼でしょ」
「いや、この前の夜勤は普通にお化け出たじゃねぇか」
「幽霊は怖がるより、話す方が楽しい」竜胆がぼそりと呟く。
「出たよ、怪異の友達面」
瀬織が笑いを堪えながら言う。「花子さんのことですか?」
「知ってるのか」
「課の誰でも知ってますよ。夜中に女の声と話してる記録官、なんて噂になってるくらいです」
「……俺の職場、平和だな。」
利根川が肩を竦めた。「まあ、幽霊よりもお前の無茶の方が怖い」
「それは否定できないですね」瀬織が笑う。
竜胆は静かにノートを取り出し、ペンを走らせる。机の上の光が反射し、指先がほんの一瞬朱色に染まる。三人の会話がふと途切れ、蛍光灯の音が戻る。
「午後、現場を再確認する。データの整理を頼む」
「山と湖どっちにします?」
「夏休みの計画みたいに言うんじゃねえ。山だ山」
綾瀬が背筋を伸ばし、利根川はコーヒーを一気に飲み干した。
「なあ竜胆。お前さ……最近、何か変わったよな」
「何がだ」
「顔。前より柔らかくなった」
竜胆は苦笑した。「花子さんにも言われた」
「幽霊に言われるってのも、どうなんだか」
「案外、幽霊の方が人間を見てるのかもな」
そう言って、竜胆はノートを閉じた。朱の影が紙の隙間に滲んだが、誰も気づかなかった。




