初仕事 前編
「この格好は些か目立つのう。お主、着物を見繕ってはくれんか」
ドッペルゲンガーが意気揚々と出勤した後、夜叉の一言から今日の難題が始まった。
「今の現世で和装は流行っておらんのだろう?人目を集めても何も得るものなどない故な」
「見繕うとは言ってもこの家には女物の服なんてないですよ?」
「現物を用意せんでもいい。絵でも写真でも構わん」
それでいいなら話は早い。昨日から何の役にも立っていなかったスマホを取り出し、検索を始めた。
――昼間出歩いても問題のない格好。無難にスーツだろうか。
“できるビジネスウーマン”風のパンツスーツの画像を選び、画面を夜叉に見せる。
「現世は来る度に新しいものができおる。ふむふむ。こうかの」
夜叉が指を鳴らすと、その出で立ちが一瞬で切り替わった。魔法ではないと分かっていても、やはり人知を超えた光景だ。
紺色のパンツスーツに、シルバーのフレームの眼鏡。
着物越しでも感じていたが、そのスタイルは完璧というほかない。
「それはそれで別の意味で目立ちそうですが、まあいいんじゃないですか。あとは――」
俺が自分の頭を軽く叩くと、夜叉は納得したように頷いた。
「ああ、これも隠さねばならぬか」
再び指を鳴らすと、額の角が消え、髪色が艶やかな黒へと変わる。どうやら銀髪と角はセットらしい。
こうしてみると、スタイル抜群のキャリアウーマンそのものだ。いや、こんなのが町中を歩いていたら男は確実に二度見するだろう。
「どうであろうか。これで良いか?」
「鬼だの夜叉だの思われることはないでしょうね」
「煮え切らん様子であるが、まあ良い。我らも出陣するとしよう」
行き先も告げられず、俺は夜叉に連れられて街を歩くことになった。
「着けば分かる」と言われただけで、詳細は一切不明。こういうパターンは大体ろくなことにならない。
家から歩くこと小一時間。辿り着いたのは、古びた雑居ビルだった。
築年数はかなり経っているが、何度か修繕された形跡はある。外観は他よりくたびれて見える。
一階のインド料理店の脇にある階段を上る。エレベーターもない狭い階段を、夜叉は軽やかに進んでいく。
二階、三階と過ぎ、四階へ。表札には――
株式会社 ブリッヂモンスター
なんだその名前。
夜叉は迷いもせず扉を開けた。受付らしき場所もない。パーティションの向こうから若い女性が顔を出す。長めの前髪で表情が分かりにくい。
「どちら様でしょうか?」
不審そうな目がこちらを向く。まあ、いきなりノックもせず入れば当然だ。
「急にすまんな。河野を出してくれるか」
その名を聞いた途端、女性の表情が一変した。
「こちらで少々お待ちください」
先ほどの不信感が嘘のように、今度は丁寧な笑顔で応接室へ案内された。
応接室は雑居ビルには不釣り合いなほど立派だった。重厚なソファと調度品。どこか異質な空気が漂う。
「これは珍しいお客様だ。随分久しぶりではございませんか、夜叉姫様」
現れたのは、柔和な笑みを浮かべた中年男性。
年相応に薄くなった頭頂部。身長は俺よりやや低い。ぱっと見、普通のおっさんだ。
「姫はやめよ。今は只の夜叉。それ以上でも以下でもない」
「そちらの男性は初めましてかな。私、河野と申します。以後お見知りおきを」
差し出された名刺を受け取り、思わず反射的にビジネスモードになる。
「頂戴いたします。私、廣守と申します」
名刺には、
株式会社 ブリッヂモンスター 取締役会長 河野 流
と記されていた。……この穏やかなおっさんが会長か。世の中分からんものだ。
「そう畏まらず。お掛けください。このお方のお連れとあれば無下には致しません」
「早速ではあるが商談と参るか」
夜叉が先に口を開く。河野氏は苦笑しながらファイルを棚から取り出した。
「相も変わらずせっかちですな。では、こちらを」
調査報告書・十三集と書かれたファイル。中には二件の事件報告が挟まれていた。
「緊急性の高いものはこの二つ。被害は小さいが、対処の必要は高い」
件名を見て目を細める。
怪死事件 令和三年度 一三号
夜叉が低く呟いた。
「少し人の世が進んだところで、妖の数は減らぬものだな」
河野氏は穏やかに笑う。
「科学が進んでも、魂を喰らう存在は消えませんからな。形を変えて潜むのみです」
「もう少し知恵を使えば良いものを。滅せられることもあるまいに」
「性分ですな。そう簡単には変わりませんよ」
夜叉が苦笑する。「一本取られたわ」
河野氏が袋を差し出した。中には一本の黒い髪の毛。
「現場に残っていた唯一の痕跡です。呪詛の類ではなさそうですが」
夜叉が眉を寄せる。「濃いな。……都市伝説の類か?」
「ええ。最近は少なくなりましたが、そう睨んでいます」
夜叉がこちらを向く。「お主、都市伝説とやらは詳しいか?」
「まあ、人並みには。妖怪よりは詳しいかもしれませんね」
「僥倖。ではこの案件は我々が受け持とう」
河野氏は頷き、電話を取った。「では、例の品を手配します」
三十分ほど待つあいだ、出された茶と――何故かキュウリの漬物をつまむことになった。
「この胡瓜の漬物が私の趣味でしてね。どうぞおひとつ」
恐る恐る口に運ぶと、パリッという音とともに爽やかな酸味が広がる。驚くほど旨い。
「う、旨い……これ、河野さんが?」
「ええ。畑から自分で作ってます」
「美味。また腕を上げたな」と夜叉が満足そうに笑う。
一瞬だけ、この部屋に穏やかな時間が流れた。
「ところで」と俺は尋ねた。「さっきのファイルって、怪異絡みの事件なんですよね?」
「その通り。我が社は表向きシステム会社ですが、本業は“未解決事件の調査”です。手に負えぬ案件は夜叉様にお願いしているのですよ」
「……まるで探偵事務所ですね」
「似たようなものですな」
夜叉が静かに頷く。「我の生業は、そうした事件の解決に手を貸すこと。人を救うためではないが、古き盟約がある故にな」
古き盟約――夜叉の横顔が、どこか遠くを見ているようだった。
ノックの音。先ほどの女性が再び現れ、お盆の上にスマホを一台載せていた。
「こちら、ご依頼の品になります」
夜叉が目を輝かせる。
「なあ、お主よ。使い方を教えてくれんか?」
どうにも、この手の頼みには弱い。俺は観念して、スマホ講習会を始めた。
河野氏は孫を見守る祖父のような目で笑っていたが、俺は気づかないふりをした。
「そろそろ参るとするかの」
腰を上げた夜叉に、河野氏が深く頭を下げる。「ご武運を」
受付の女性が火打石を鳴らす。火花がパッと散った。
「かかっ。景気付けよ。なーに、我には効かんから安心せい」
――ということは、ドッペルゲンガーには効くのか。
階段を降りながら俺は尋ねた。
「そういえば、河野さんって何者なんです?」
夜叉があっさりと言う。「ん?奴は河童よ。人ですらないぞ」
「あー……だからキュウリか」
河童の河野流。カッパノカワノナガレ。
……ギリギリ洒落にもならん。
こうして少し不安な俺の初仕事が始まった。




