海の向こうの気配
雨の匂いがまだ微かに残る午後。綾戸探偵事務所は、いつもより静かだった。
奏灯は棚の前に立ち、そっと首を傾げていた。棚の奥――封印を施された木箱。中に眠る“呪物”。
着ぐるみ姿の小さな背中が、何かに引かれるように揺れている。
綾戸が工具を片づけながら声をかけた。
「どうした。気になるのか?」
奏灯は振り返らず、箱をじっと見つめたまま言う。
「わかんない。でも……前より、誰かの“手”がはっきり見える」
こんがソファから顔を出した。「手?誰のじゃ?」
奏灯は胸元のパペットをぎゅっと抱きしめる。淡い光が布の奥に滲んだ。
「……わかんないけど、“来てる”って感じ。前はぼんやりだったけど、いまは、ちゃんと、触られそうなぐらい」
鈴が息をのむ。「奏灯ちゃん、それ、“未来”が強くなっているんじゃ……」
綾戸は腕を組み、箱を見やった。「……開けてみるか。瘴気も前より落ち着いてるしな」
朔夜が頷き、封印紐を丁寧に解く。箱を開くと、湿った土の匂いが空気に混じった。
中にあったのは――土を固めて作られた小さな人形。
鈴が眉を寄せる。「……これ、陶器でも木彫りでもありませんね。もっと……生の土に近い」
こんが覗き込み、「なんじゃこの泥人形は」と尻尾を揺らす。
綾戸は顎に手を当てた。「なんかあれみたいだな、ほら、ゲームとかに出てくる、ゴーレムだっけ?」
鈴がきょとんとする。「ファンタジーの?」
朔夜が冷静に突っ込む。「怪異はファンタジーではないのか?」
こんはむっとして言い返す。「わらわたちはファンタジーではないのじゃ!」
「……いや、十分ファンタジーだよ」綾戸がため息をつく。
奏灯はというと、土の人形に手を伸ばし、指先が触れる寸前でぴたりと止まった。
「この子、さみしがってる。ずっと“さがしてる”感じ」
鈴の表情が揺れる。「呪物の“呼び声”と似てますね。誰かを探している」
奏灯は小さく頷き、ぽつりと囁いた。
「もうすぐ来るよ。この子の“持ち主”……ほんとうに来る」
綾戸が目を細める。「確定的ってわけか」
奏灯は胸元のウサギをぎゅっと抱きしめ、静かに言った。
「うん。道が、もう決まってる。だから、“手”が見えるんだと思う」
事務所にしんとした空気が落ちる。
綾戸は箱を閉じながら呟いた。「……じゃあ、動く準備しとくか。いよいよ面倒な相手が来そうだ」
鈴は胸元を押さえ、小さく息を吸った。
――同じ頃、零課でも小さな波紋が広がり始めていた。
夕陽が沈む寸前の零課フロア。紙と機械の匂いが静かに混ざっている。
利根川はデスクに額を押しつけるように資料をめくり、ぼやいた。
「最近“探してます系”の相談ばっか多くね? 落とし物が戻ってくるとか、影が勝手に動くとか……なんか薄気味悪い」
竜胆は淡々と書類を整理しながら言う。「どれも“対象が曖昧”だな。家族か、友人か、持ち主か……形が定まっていない」
綾瀬が端末を操作しつつ顔を上げる。「波長が同じなの。願いでも恨みでもない……“未完で止まっている感情”。連鎖反応に近いわ」
利根川が椅子を回し、竜胆を指差す。「お前が預けた、“例の呪物”……最近どうなんだよ」
竜胆は手を止める。ほんの一瞬だけ沈黙。
「……妙に静かすぎる」
「静かならいいじゃん」
「普通なら、な。だがあれは“探すための器”だ。静まるのは、対象が近づいている時だけだ」
利根川は目を丸くした。「……え、じゃあまさか」
綾瀬が画面を指で示す。「数日前から海外から“家族関連データ”を検索してる人物がひとりいる。名はアレッサ・柏木」
沈黙が落ちる。
利根川が口笛を吹きかけて止めた。「……うわ。ほんとに繋がってんのかよ」
竜胆はファイルを閉じ、低く呟いた。「来る。必ずな」
綾瀬が小さく頷く。「気配が海の向こうから流れてきてる。同じ波が日本に寄ってきてるってことですね」
利根川が肩を鳴らして立ち上がる。「じゃあ準備するか。綾戸のやつにも——」
竜胆は首を横に振った。「あっちもすでに気づいているだろう。こちらも手を動かす」
その瞬間、零課の照明がふっと揺れた。
海の向こうから、まだ知らない誰かの“影”が、確かに日本へ向かって動き始めていた。




