古びたパペット
夕暮れの光が濡れた路地を照らし、細い水たまりに街灯の赤や白が揺れていた。鈴が歩みを止めたのは、胸の奥に微かな“ざらり”が触れたからだった。
音ではない。願いの声でもない。
未来の残り香——まだ続きのある物語が残した余熱。
路地脇のビニール袋を見つめる鈴に、肩のこんが顔を寄せた。
「どうしたのじゃ、鈴?」
「……呼ばれた気がします。あそこから」
こんが軽い身のこなしで跳ね降り、袋をそっと開ける。中には古い布製パペット。片目は外れ、綿がのぞき、縫い目はほつれ——それでも胸元だけがかすかに脈打っていた。
鈴は抱き上げ、その震えを感じる。「……生きています。誰かを探しているんですね」
「付喪神の卵じゃな。目覚めたが、未練が形になりきっておらぬ」こんが小さく唸った。
鈴は頷き、静かに呼ぶ。「奏灯ちゃん」
事務所から駆けてきた奏灯は、パペットに触れた瞬間、ふわりと瞳を揺らした。
「まだ終わってないよ。……つづきがある」
その声には、幼いながらも鋭い“未来の響き”が宿っていた。
パペットの光がわずかに強まる。その変化に導かれるように、奏灯が一歩踏み出した。三人と一体は、雨上がりの匂いが残る住宅街の坂道へと歩みを向ける。
奏灯は視線を遠くに固定させ、ゆっくり言葉を紡いだ。
「木の手すり……揺れるカーテン……赤いリボン……だれかの笑う声……」
断片が少しずつ重なり、ひとつの方向を指し示し始めていた。
「……こっち」
奏灯が指したのは住宅街の坂道。三人は寄り添って歩き出す。
だが、道行きは一直線ではなかった。奏灯は何度も立ち止まり、迷うように、しかし確信めいた足取りで方向を変える。
小さな公園の脇に差しかかったとき、奏灯の足が止まった。雨粒の残る木々の匂いが漂う。彼は胸の奥を押さえるように拳を握りしめ、空を見た。
「ここ……少し違う。でも、だれかが笑ってた。風が、嬉しそうに揺れてた」
切なげな声だった。
鈴は胸がきゅっと締めつけられる。こんもそわそわと尾を揺らし、「奏灯、怖くはないのか?」と尋ねた。
奏灯は静かに微笑んだ。「大丈夫。ここは、少し違う。でも……昔来たことがある景色」
再び歩き出した奏灯は、坂道の途中で古い木製の手すりへ手を伸ばす。触れた瞬間、指先が震えた。
白いワンピースの少女が階段を駆け上がる——そんな光景が一瞬だけ重なる。楽しげな笑い声。はしゃぐ影。
それは過去とも未来ともつかぬ**“断片”**だった。
鈴は思わず息を呑む。「奏灯ちゃん……今、見えたんですか?」
奏灯は眉を寄せる。「楽しいのに……さびしい。そんな気持ち」
こんが小声で寄り添う。「誰かの置いていった“未来”じゃな」
「近くだけど、まだ先」奏灯は小さく首を振った。
角を曲がると、小さな文具店が見えた。ショーウィンドウに並ぶ色とりどりのリボンが夕陽を受け、温かい光を反射する。
その瞬間、奏灯の世界が一変した。
——少女の手。母親が選んでくれた赤いリボン。
——嬉しくて、でも泣きたくなるほどの気持ち。
胸の奥にその情景が鮮やかに流れ込み、奏灯の唇が震えた。
「ここで買ったんだ。うれしくて……でも、泣きそうにもなってた」
鈴は胸元を押さえた。「そんな細かい“気持ちの記憶”まで……?」
奏灯は頷く。「未来は、気持ちで見えるときもあるよ」
こんが目を丸くする。「なんと……情緒の未来が見えるとは!」
奏灯はガラスを指で示し、「ここで“これから”何か買うんだよ」と言った。
鈴は息を呑む。「未来……の?」
「うん。これからのこと」奏灯はやわらかく微笑んだ。
パペットの光は、その言葉に呼応するように一段と強まった。
いくつもの断片は、すべてひとつの場所へ集約していく。
辿り着いたのは、静けさに沈んだ古びたアパートだった。
ここへ来るまで奏灯の表情は揺れ続けていた。温かさ、寂しさ、失われた期待、ほどけた願い——幼い心には重すぎる“未来の名残”。
鈴は背を支え、こんは黙って寄り添った。
そして、すべての断片がここで重なった。
木の手すり。
薄いカーテン。
赤いリボンの欠片。
奏灯は震える指で玄関先を示す。「……ここだよ。全部……ここに集まってる」
パペットは鈴の腕の中でふっと光を灯す。その光には、もう怯えも焦りもなかった。
奏灯はそっとパペットに語りかける。「ここで……おかあさんをずっと待ってたんだね」
鈴は小さく息を呑む。「持ち主さん……もう?」
こんは静かに目を伏せる。「この匂い……“空っぽ”じゃ。もう誰もおらぬ」
奏灯は胸に手を当て、柔らかく続けた。「でもね……まだ先の光がある」
鈴が震える声で尋ねる。「先……?」
「この子、ひとりにならない未来。ここじゃない別の家で、だれかに拾われて、大事にされる。……次の持ち主が、もうすぐそばにいるんだ」
未来の残り香——それは絶望ではなく、これから訪れる救いの予兆だった。
パペットは安心したように光を緩め、やがて静かにその輝きを消す。残ったのは温かな余韻だけ。
鈴はそっと抱き寄せた。「願いが叶うだけが、幸せではありませんよね」
こんも寄り添う。「未来へ進めるなら、それでよいのじゃ」
奏灯は眠るように静かなパペットへ手を合わせた。「もう大丈夫。これからはちゃんと、行けるよ」
夕暮れの光が優しく人形を照らす。
願いは叶わなかった。それでも——物語は確かに未来へ続いていた。




