姉弟
午後の事務所。
その日の奏灯は、朝から何やらそわそわしていた。
鈴が茶を淹れていると、奏灯が小さな声で鈴の袖をつまむ。
「……すず、ねえ」
鈴の表情がぱっと和らぐ。
「聞きました? 綾戸様、お姉さん認定ですよ」
奏灯は照れくさそうに指をもじもじさせた。
「……やさしいから、ねえって呼んでみた」
後ろで聞いていた綾戸が、どこか期待したように首を挟む。
「へぇ。じゃあ俺にも何か呼び方あるのか?」
奏灯は少し考え、綾戸を見上げてぽつりと言った。
「あや、くん?」
「俺は親戚のにいちゃん枠か」綾戸が苦笑し、鈴は肩を揺らす。「ふふっ、可愛いですね」
奏灯はうつむいたまま小さく続ける。「つくりて、やさしい。あやくん、すき」
綾戸は耳まで赤くして視線をそらす。
「……勝手に呼べ。訂正はしない」
暖かな空気の中、外から吹き込む風だけが少し冷たかった。綾戸は作業机で工具箱を整理している。
古く錆びたペンチ、歯の欠けたノコギリ、曲がったピンセット。どれも長い時間を共にした“道具たち”だったが、さすがに限界だった。
「もう処分するか。随分頑張ってくれたしな」
綾戸が呟くと、奏灯がぴくっと顔を上げた。「それ、すてるの?」
「ああ。歯も欠けてるし、修理も無理だ」
奏灯はちょこちょこと歩いて古びたペンチのそばに近づき、指先でそっと触れた。
「……この子、まだ“つかってほしい”って言ってるよ」
綾戸は眉をひそめる。
「壊れかけだぞ。鈴ならともかく、お前までそんなことを」
鈴が横にしゃがむ。「声が聞こえるの?」
奏灯は首を振った。「ううん。声じゃないよ。なんかね……“あったかい手がまたくるよ”って、そんな感じ」
綾戸は困ったようにペンチを手に取り、数秒見つめた。「……まあ、数日置いて使う機会がなけりゃ捨てるとするか」
「うん」奏灯は満足げに頷き、ペンチへそっと手を当てた。
数日後
事務所に古い懐中時計の修理依頼が来た。内部のパーツは驚くほど細かく、新しい工具では上手く掴めなかった。
「……くそ、新しいのじゃ太すぎる。細かいのが掴めん!」
鈴が静かに提案する。
「綾戸様……奏灯ちゃんが言っていたペンチ、使ってみませんか?」
綾戸は渋々工具箱から古いペンチを取り出した。握った瞬間――手にすっと馴染む。
「……壊れてるくせに、まだ働く気かよ」
懐中時計の細部へそっと当てる。古いペンチは文句も言わず、小さな部品を正確に掴んだ。
「……いける」
作業が終わったとき、綾戸は満足げに息を吐いた。
「まるで今日のために残ってたみたいだな」
奏灯がちょんと綾戸の袖を引く。
「ね、やっぱり“まだ終わってない”って言ってたの」
「ええ。本当にお疲れさまです」
奏灯は綾戸の横に寄り添い、優しくささやく。「あやくん、すごいね」
綾戸は照れくさそうに鼻を鳴らす。「こいつが頑張っただけだ」
「最後のおしごと、できたね」奏灯は古いペンチへ手を合わせるように微笑んだ。
修理が終わり、事務所に穏やかな空気が戻った頃。こんがじーっと奏灯を見つめていた。
「のう。奏灯、さっきから鈴のこと“すずねえ”と呼んでおるな?」
「うん。すずねえ、やさしい」
こんの耳がぴんと立つ。「では! わらわは!? なんと呼ぶのじゃ!?」
奏灯は少し考え、にっこり笑った。「こん」
「変わっておらんのじゃあああ!」
鈴は苦笑しながらも、どこか嬉しそうに微笑む。「こんちゃん、十分可愛い呼び方ですよ?」
その時、扉が静かに開いた。
「随分と騒がしいのう」
朔夜が帰ってきた。奏灯はぱっと顔を輝かせる。「さくやさま!」
朔夜は歩みを緩め、ほんの少し表情を和らげた。「……うむ。ただいま戻った」
鈴が固まる。「……えっ、“さま”って……」
綾戸が笑う。「お前、奏灯に“朔夜様”って呼ばせてたんだな」
「たわけ。奏灯が勝手に呼んでおるだけだ」朔夜が即座に返す。
奏灯はこくりと頷く。「すずねえ、いつも“さくやさま”って呼んでる。かっこいい」
鈴は耳まで赤くなる。「そ、そんな……」
こんはさらにむくれる。「ずるいぞ鈴! わらわの呼び名は変わらんのに!」
朔夜はお茶を淹れながら淡々と言った。「呼び名は本質ではない」
「でも朔夜さま、嬉しそう……」奏灯がぽそりと言うと、朔夜は軽く咳払いする。「余計なことを言うな」
朔夜が机に置いた包みが、かすかな瘴気を帯びて空気を震わせた。
綾戸が眉を寄せる。「おい朔夜、それは……?」
「紅から託された呪物だ。零課でも扱いきれぬと判断された」朔夜の声音は冷静だが重い。
鈴は包みを見つめ、息を呑む。「強い未練が残っています……人が触れてよい状態ではありません」
「ある程度瘴気を抜けば、お前たちで“生まれ変わらせる”こともできるが、今はまだな」
こんが震え声で言う。
「わ、、わらわ触りたくないのじゃ……」
奏灯はというと、包みの前に立ち、怯える様子もなくただじっと見つめていた。小さな首をかしげる仕草は無垢そのものだが、その瞳には“何かを感じ取る光”が宿っていた。
「……これ、“こわい”じゃないよ」
綾戸が少し身を乗り出す。「じゃあ、なんだ?」
奏灯は包みにそっと近づき、小さな指先を伸ばすように空気をなぞった。
「“さがしてる”って感じ」
鈴がそっと息を呑む。「探している……?」
綾戸の瞳が細められた。「おい、それはどういう――」
奏灯は目を瞬かせ、ぽつりと続ける。
「まだ……“おはなしが終わってない”って。つづき、あるよ」
包みの中の呪物は沈黙したままだったが、事務所の空気がふっと軋むように揺れた。誰もが無意識に息を止める。
朔夜は腕を組み、静かに状況を見つめた。その視線は鋭いが、どこか慈悲の色も含んでいる。
「……未来の残り香か。やはり奏灯は、声ではなく“これからの形”を拾うのだな」
鈴は奏灯の肩に手を添えながら、優しく頷いた。
「未来に向かって伸びる糸……そういう気配なのでしょう」
綾戸は包みを見下ろしながら、息を深く吐いた。
「今ここでどうこうする話じゃないってことか」
朔夜は静かに頷き返す。
「当面は我が預かる。封印も維持する。だが……いずれ“続き”を確かめる必要があるだろう」
鈴は不安げに包みへ視線を向けたが、奏灯は一歩だけ綾戸へ寄り、袖をちょんと引いた。
「あやくん……これ、こわくないよ。こまってるだけ」
綾戸はその言葉に、目元をわずかに緩めた。
「そうか。なら今は、そっとしておこうな」
朔夜は包みを抱え、棚の奥の封じ棚へ静かに仕舞った。金具がかちりと閉まり、空気のざわつきがゆっくりと収まっていく。
事務所には再び穏やかな空気が戻り、夕陽が柔らかく差し込んだ。その光は、奏灯の肩と古びた工具箱を並べて照らし――まるで“これから始まる物語”を静かに予告しているようだった。




