彼方の光
雨上がりの午後。湿り気を帯びた空気がゆっくりほどけ、木の香りと紙の温度が静かに溶け合っていく。綾戸探偵事務所は、木の香りと紙の匂いが混ざった、どこか懐かしい空気に包まれていた。窓辺には鈴が飾った白椿。奥のソファでは朔夜が静かに茶を啜り、床ではこんが尻尾を丸めて転がっている。
そのテーブルの上に――新しく生まれた小さな家族が座っていた。
付喪神として“生まれ直した”ばかりの少年。二十センチほどの体は軽く、黒髪はふわふわと柔らかい。瞳は黒曜石のように澄んでいて、足をぶらぶらと揺らしながら事務所の空気を全身で吸い込んでいる。
「つくりて!」
元気な声とともに、少年がぱっと顔を上げた。
綾戸が眉を寄せる。「跳ねるな。落ちたら割れるぞ」
「へいき!」
「お主は元気が良すぎるのじゃ」こんがじとっと睨む。「わらわも落ち着きがないが、そなたはそれ以上じゃ」
「こんが言うなよ……」綾戸が小さくつぶやくと、こんは「今なんか言った!?」と身を乗り出す。
少年はそのやり取りをぽかんと見ていたが、すぐに楽しそうに笑った。光が弾けるような笑いで、事務所の空気までも明るくしてしまう。
鈴が近寄り、少年の横にそっと膝をついた。「元気なのは良いことですよ。でも今日は、大事なお話があるのです」
「だいじ?」
綾戸が腕を組む。「お前の名前だ」
「なまえ!」少年の目がきらきらと輝く。「つくりてと、おそろいがいい!」
綾戸は目をそらし、頭をかいた。胸の奥に、言葉にならない“責任”のような重さがひとしずく落ちる。名を与えるという行為が、こんなにも緊張を孕むものだったとは――本人ですら驚くほどに。「……だから、お揃いとか軽々しく言うな」
朔夜は湯呑を置き、静かに頷いた。「名は魂を束ねるもの。生まれ直したお主に相応しき名を与えるがよい」
「わらわ、『超かっこいい名前一覧』なるものを調べておった!」こんが胸を張る。「例えば――」
「却下だ」綾戸が即答した。
「まだ言っておらんじゃろ!」
「お前のセンスは危険だからな」
「世界基準のセンスじゃ!」と叫ぶこんを、鈴が困り笑いでなだめる。
そんな騒がしさの中、少年はぽつりと呟いた。
「……おそろい、だめ?」
その声は、かつて呪いから解き放たれ、ようやく生まれ直した小さな命の震えだった。
綾戸は少し視線をそらし、深く息を吐く。「お前の始まりになる名がいい。俺の影じゃなくて、お前自身の光になるやつだ」
少年はその言葉をじっと聞き、ゆっくりと笑った。「じゃあ、つくりてが作って!」
綾戸は天井を見上げ、一度ゆっくり瞬きをした。雨上がりの光が薄く差し込み、木目に柔らかな影を落とす。その光が胸のざわめきをすっと撫でていく。
(……影ではなく、今のこいつを映す名がいい)
そんな思いが静かに形を取り始める。
「……お前は影から生まれたけど、今はもう違う。走り回って笑って、みんなを明るくしてる。灯りみたいな奴だ」
少年が小さく呟く。「あかり……」
「だったら――奏灯。光が響く灯りだ」
静寂が落ちた。鈴が息をのみ、こんが目を丸くし、朔夜は静かに微笑む。
少年――奏灯は、自分の胸を指でちょんと押さえた。
「かな……た?」
そして、ぱっと笑い、小さな手を思いきり広げた。
「ぼく、奏灯がいい!!」
勢いそのまま綾戸の膝へ飛び乗る。
「うおっ、落ちるって――!」
「だいじょうぶっ!」
事務所に笑い声が満ちる。
朔夜が穏やかな目で呟く。「良き名じゃ。光を奏でる灯り……この子に相応しい」
鈴も綾戸の隣で微笑む。「綾戸様らしい、あたたかい名ですね」
「わらわの案も聞け!」とこんが割り込むが、奏灯はもう綾戸にしがみついたまま嬉しそうに笑っていた。
雨上がりの光が窓から差し込み、ふわりと漂う湿気に反射して、小さな金色の帯が生まれる。それはまるで、空気そのものが祝福の息を吐きかけたように、奏灯の背をそっと照らした。それはまるで、新しい家族を祝福するかのように柔らかく揺れていた。




