夢の続き
鈴が夢縫いの指導のもと、布ウサギへそっと糸を通しているあいだ――綾戸は、工房の奥にある薄暗い一角に、ふと視線を引かれた。
壁際の棚。
綺麗に並んだ道具や、人形の残骸。その奥……ひっそりと、影が揺れた気がした。
「……ん?」
呼ばれたような、胸の奥がざわつく感覚。綾戸がゆっくり近づくと、棚の端に置かれた“あの人形”――影が眠るフィギュアが、微かに震えていた。
「おまえ……ここに来てたのか」
触れると、影のフィギュアはかすかに光を返した。誰にも聞こえないほど小さな囁きが、綾戸の胸に触れる。
――……つくりて……
綾戸は息を呑む。その声は、言葉でも音でもなかった。ただ、胸の奥に直接落ちてくるような感情。
夢縫いが静かに近づく。「……感じますか?」
「これは……人形神の残滓じゃねぇのか?」
「残滓でもあります。しかし……“あなた自身の影”でもある」
綾戸は目を細めた。影の人形から漂う感情は、ただ怨念だけではない。
――焦り、寂しさ、憧れ。
そして、とても深い後悔。
「……これ、あの頃の俺だ」
社畜時代。
帰れない日々、食うだけの生活。鬱屈と苛立ちと焦燥を、ひたすらフィギュアにぶつけていたあの夜。
その中に、確かにあった。
――“誰かに届いてほしい”という、はかない願い。
夢縫いは静かに頷く。「人形神に取り込まれた欠片。その核は……あなたが作った“想いの破片”だったのでしょう」
「……破片、ねぇ……」
綾戸は影の人形をそっと持ち上げた。
目は閉じたままだが、その佇まいはどこか幼く、頼りない。
「おまえ……こんな形で残ってたのかよ」
――……いきている……
微かな、けれど確かな“想い”が胸に触れた。
影は怨嗟の塊ではなかった。捨てられ、忘れられた想いの断片であり――
綾戸が自分の手で“作りたかった夢”の名残だった。
「……そうか」綾戸は小さく笑った。「俺が昔、どうしようもなくて……でも、それでも何か作りたかった。その気持ちが、おまえをここに連れてきたんだな」
夢縫いは静かに頷いた。「あなたの願いが、彼を形にした。人形神の呪いが消えた今……残っているのは、あなたが最初に与えた“はじまりの想い”だけです」
綾戸は影の頭を軽く撫でた。
「……悪かったな。置いていって」
影の表情は変わらない。だが、胸の中にあった刺のような痛みが、少しだけ和らいだ気がした。
そのとき、背後で鈴の声がした。
「綾戸様……その子……」
振り向けば、鈴が布ウサギを抱きしめたまま、綾戸と影を見つめていた。鈴の目には、やさしい光が宿っている。
「……その子も、綾戸様の“夢”だったんですね」
綾戸は照れたように顔をそむけた。
「……まあ、そんな大層なもんじゃねぇよ。ただ……あのとき作ったものが、誰かに届いてほしいって思ってたのは、確かだ」
鈴はそっと微笑んだ。
「その願いは、ちゃんと届いていますよ。ほら、今……綾戸様の手のなかに」
綾戸の掌で、影のフィギュアが、ほんのわずか――あたたかく震えた。
その震えは、たしかに“生きている何か”のようだった。
影の温もりを掌で感じながら、綾戸は静かに息を吐いた。鈴もまた、その揺らぎにそっと耳を澄ますように寄り添う。
夢縫いは二人を見つめ、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「……この子を“生まれ変わらせる”ことができます。あなたが望むなら」
綾戸は影を見つめたまま固まった。影の体は、小さく、頼りなく――しかし確かに“ここにいたい”と震えていた。
「……俺が、また作るってことか?」
「ええ。あなたは創り手。鈴さんは導き手。そして影は、あなたがかつて抱いた“最初の夢”の欠片。三つが揃った今なら、ただの依り代ではなく……“確かな命”として、付喪神を誕生させることができます」
鈴は影に触れ、かすかな鼓動――夢の心臓のような震えを感じ取った。
「……この子、生きたいって言っています。鈴にも……はっきりと」
綾戸は少し視線をそらし、薄く笑った。
「……そうか。じゃあ……作ってやらなきゃな」
夢縫いは白く光る糸を鈴に、綾戸には小さな工具セットをそれぞれ手渡した。
「さあ。綾戸さんは“形”を。鈴さんは“願い”を整えてあげてください」
夢縫いの助言を受け、早速作業に取り掛かる二人。時間を忘れ没頭する。
すでに時計の針は1度回った。
工房には静けさが満ち、作業の音だけが響き続ける。
綾戸は机に向かい、影のボディを慎重に開き、欠けたパーツを磨き、小さな破片までも丁寧に仕上げていく。
「……本当は、最初からこうしたかったんだよな。あの時の俺には余裕がなくて……でも、今は」
その横で、鈴は影の胸にそっと手を添え、夢の声を拾っては糸に託していく。
「大丈夫……あなたは捨てられていません。もう一度、生まれられます。綾戸様が、今度こそあなたをきちんと見てくれますから」
巡煙簫が淡い音を鳴らすと、白い糸が柔らかく揺れ、その振動が影の内部に染み込んでいった。
影は微かに震え、鈴の言葉に応えるように胸の光を強める。
綾戸の手と鈴の糸が、ひとつの“命”へと重なっていく光景に、夢縫いは静かに目を細めた。
「……美しいですね。形と願いが、同じ方向を向くとき……命は自然と宿るものです」
もう一度時計の針が回るころ。
最後の糸が影の胸へと吸い込まれるように溶けた瞬間――工房の空気が震え、柔らかな光が満ち始めた。
綾戸と鈴が見守る中、小さな人影がゆっくりと目を開ける。
それは影の面影を残しつつも、怨念の色ではなく、“綾戸の憧れ”と“鈴の慈しみ”を映す、穏やかで透き通った瞳だった。
小さな付喪神は、ぎこちなく首を傾げ、綾戸の掌に触れる。
「……つくりて……ただいま……」
その声は震えていたが、確かに“命”の響きを持っていた。
鈴は胸に手を当て、涙をこらえるように微笑む。
「おかえりなさい。これから……よろしくお願いしますね」
綾戸はゆっくりと頷き、その小さな頭を優しく撫でた。
「……ああ。今度は……ちゃんと一緒に歩こう」
夢縫いは深く頷き、静かな声で告げた。
「――これが、あなたたちの物語の“新しい章”の始まりです」
工房に満ちる光はゆっくりと薄れ、そこには確かに新しい命が息づいていた。




