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夜叉

前書き


この物語の序盤はおそらくすごく嫌な気分になると思います。


感情移入すればするほど陰鬱な気分になります。


物語に漂う暗い雰囲気と、壊れていく主人公を表現したいための措置です。


その先のカタルシスのようなものを期待して読んでいただけると幸いです。

人を呪わば穴二つ。


人を呪うとき、呪いには代償を必要とする。


誰かを殺す呪いを掛ければ、その呪いを行った者にも同じ代償が降り注ぐ。


穴とは。


墓穴だ。


二人の人間の墓穴。


それがこの諺の意味。


しかし、自分を呪った者はどうなるのか。


俺はその意味を身をもって知った。



新卒。


働きだしたころは確かに夢のようなものもあったかもしれない。


数字を出して、会社で出世して、社会的な地位を築く。


そんな誰もが抱くような夢みたいなもの。いや、野望かもしれない。


どちらでもいい。


そんな動機のようなものは確かにあった。


昔は。


今の俺にそんなものは無い。


あるのはただこの会社を選んだ過去の自分を恨む自分と、日々の業務に擦り切れていく心だけだ。


無理難題を吹っ掛ける取引先。


突然連絡の取れなくなるスタッフ。


到底無理な予算。


保身ばかり上手な上司。


やりがいなんてとっくの昔に失ってしまった。


ただ、今の生活にしがみ付くしかなくて、無為に過ぎていく毎日は緩慢な自殺と変わらないのかもしれない。


派遣会社の社員なんて、派遣社員と数字と取引先とに振り回されるだけ。


世のため人のためなんてお題目を掲げながら、世間からは白けた目で見られるだけの存在。


自分の生きる意味を見失いそうになる。


そんな無意味な思考に耽りながら、今日も日課に励む。


俺の日課。


ちまちまと制作を続けるフィギュアの制作だ。


別に原型師やディーラーを志している訳ではない。


ただ、自分の理想の形をこの人形に落とし込みたい。そんな理由で作っているだけだ。


不思議なことに仕事で嫌なことがあった日の方が制作は捗る。


怒りを理由に創作を続けるのは正直疲れるが、不意に湧く怒りを創作にぶつけ、昇華させることは意外と向いているらしい。


今日の出来事を思い出しては湧いてくる怒りをひたすらに年度に込めぶつけていく。


数か月前から仕込んでいた大型案件。


これさえ通せば今後一年は安定稼働が見込める俺の切り札。


それを上司はふいにした。


きっかけは些細な食い違いだ。


挨拶代わりに同席した先方との打ち合わせ。


そこで生じた認識の齟齬から亀裂は大きくなり、溝は修復不可能なものとなった。


ああ、俺の数か月はゴミと化した。


それだけじゃない。


これから数か月は仕込んだネタもない。


またボロ雑巾のように扱われる日々が決定した瞬間だった。


上司を恨む気持ちは勿論ある。しかし、それ以上にもっとうまくことを運べなかったのか。


そもそも奴を関わらせないように立ち回る術が俺にはあったはずだ。


目の前で奴の鼻をへし折りたいたいという幼稚な思考から打った愚策。


そんな自分が許せなかった。


「痛っ!」


濁った思考のせいだろうか、転がっていたナイフで指を切ってしまった。


血が滲み少し粘土に染みる。


白い粘土に朱が混じり、桜色を呈する。


その色を見た瞬間。


稲妻のようにインスピレーションが沸いた。


桜色の衣装を纏う姿が鮮明に脳裏に描き出された。


そこから先はそのイメージをひたすら形にしていく作業だ。


何もかも忘れ、無から有を作りだす作業に没頭する。


時間の経過すら忘れ、気が付けば朝陽が顔を出していた。


やってしまった。完全に寝るのを忘れていた。


完全に徹夜明けの妙なテンションのまま、出社の準備を行う。


幸い今日は金曜日。


一日乗り切れば何とかなるのなら大丈夫だろう。


カーテンを開いた先の空は雨こそ降りそうにないが雲は分厚い。


コーヒーと味のしないパンを胃袋に流し込み電車に揺られる。


少しでも寝ておきたいが、立ちっぱなしの満員電車。


そんなものは望むべくもなく、朦朧とした意識と共に電車に揺られる。


寿司詰めの社内には嫌な湿気が充満している。


湿気のせいか窓は曇り、冷房は何の意味もなしていない。


となりのおっさんのスーツが臭い。


お互い様だろうか。


不快なことに変わりはないが。


背中に当たる鞄の角。


いつの間にか踏みつけられている右足。


電車の揺れに合わせてぐりぐりと体重がかかる。


引き抜いて足の置き場がないことに気付く。片足立ち。そんなふざけた状態も長くは続かないだろう。


どこに置こうか。


僅かな隙間につま先を捻じ込み、どうにか姿勢を保つ。


意識を手放しそうになるのをぐっと堪え、車内のアナウンスに耳を傾ける。


もう一駅。


我慢だ。


ようやく解放される。


出荷される家畜のように流れに乗りただ流せされ車外に躍り出る。


はあ。着いた。


重い足取りを階段に向けた瞬間、肩を掴まれた。


「おい。あんたさっき俺の足踏んだろ」


俺の目の前にはさっきとなりに突っ立ていたおっさんが額に青筋を立てていた。


「そうでしたか。すみません」


仮に俺が踏んでいなくても。仮におっさんの勘違いでも。


面倒は起こしたくない。下げる気もない頭を下げ、その場をやり過ごす。


「ちっ。気つけろや」


すれ違いざまに肩をぶつけられたが、それで済むならまあいい。


朝っぱらから憂鬱な気分に突き落とされ、行きたくもない会社に向かう。


歩きつつスマホのスケジュールを確認する。


午前中に受け入れが二件。


午後は、面接と受け入れが二件ずつ。


過密というほどではないが余裕はない。


幸いどれも慣れた現場の案件だ。このコンディションでもこなすだけなら問題ないだろう。


毎度意味のあるのか。


今月の目標と現在の数字の乖離を朝礼で発表する。


俺の数字は新規目標に対して大幅なマイナス。


苛立ちを隠そうともせず、上司の叱責が飛ぶ。


「今月の未達はお前だけだぞ。昨日の案件は抜きにして他に当てはあるのか?全部の案件が上手くいく訳じゃないんだ。


できる営業は二の矢、三の矢を用意しとくもんだぞ」


うるせえ。人の一の矢を叩き折ったのは誰だよ。


しかし、そんなことは口が裂けても言えない。


そんな自分が情けなくなるも、所詮自分は歯車だと言い聞かせ、苦虫を噛み潰す。


ここでキレても何の得もない。


懐刀はいざという時のために取って置くものらしい。俺のはもう錆び付いて抜けないかもしれないが。


とりあえずは目の前のタスクをこなす。


現場に向かいスタッフを待つことにする。


しかし、待ち合わせの時間を10分過ぎても待ち人は来ない。


またか。


自給が高くもなければ、仕事内容も決して魅力的ではない。


人が集まらないのも無理はないが、ドタキャンはやめてくれ。


コーディネーターに連絡するも、結局相手に連絡は付かず。


「またかい。今月三回目だっけ?いい加減にしてくんないかな。こっちも時間作ってるわけだしさ」


「申し訳ありません。前日確認までは連絡ついたんですが」


「言い訳はいいよ。他の会社もそこそこ連れてきてくれてるし、御社じゃなくても何とかなりそうだから」


実際に他の会社が連れてきているかどうかは定かではないが、旗色は悪い。


「お役に立てず申し訳ありません。また、良いスタッフが上がりましたらご連絡いたしますので」


「うん。期待せずに待ってるよ」


重い足取りで現場を後にする。


幸先が悪いな。


そして、不運は続いた。


散々な一日の締めくくりは上司からの詰め。


「結局、今月数字が上がらなかったのはお前だけだ。週明けまでに改善案のレポート提出しておくように」


週明けまでか。


実質今日中に仕上げろってことじゃねえか。


残業代も碌に出ない実質サビ残。


夢物語の数字を達成するための机上の空論の行動プラン。


実現できるのか不明なスケジュールを立案し、纏めていく。


この報告書になんの意味もないことは俺だけじゃない。上司ですら理解している。


それでも上からの命令には逆らえない。


それは不文律だ。


無駄な紙切れを作成し、プリントアウトを行う。


PCのクロックは既に日付を跨いでいた。


この時間ならぎりぎり終電には間に合いそうだ。


オフィスを飛びだし、最後の気力で帰路に着く。


流石に金曜日の夜。終電ともなれば赤ら顔のサラリーマンがそこら中にうようよいる。


大学の頃は酒の楽しみ方なんて仲間とバカ騒ぎするための道具に過ぎなかった。


正直、飲んだくれているおっさんの気持ちなんて理解する気も起きなかった。


でも、今となっては嫌でも分かる。


ただ、忘れたいんだ。


日々の鬱憤を晴らす。いや、アルコールと一緒に溶かす。


そうだ、アルコールが体に染みていくたびに、少しだけ嫌なことを忘れらる。


だから、今は飲みたい気持ちも良く分かる。


気付けば、俺の手にもワンカップの日本酒が握られている。


ああ、ほぼ無意識に買ったようだ。


電車が来るまで数分。


折角だし飲んでしまおうか。


ぱかっと小気味のいい音を立てたカップを煽る。


良く日本酒に対して、水のような飲み口という褒め方をするが。


果たしてこれは水なのだろうか。


味がしないのは、飲みやすからなのか。俺の下が馬鹿になっているのか。


しかし、煽る度び熱くなっていく己の体は明確にこれがアルコールだと証明してくれる。


火照っていく体と夜風の冷気が溶け合い心地よくなる。


と、俺の意識を引き戻すように電車の到着のアナウンスが流れる。


ようやく座れそうだ。


少し込んでいる程度の車内で空いてる座先を見つけ腰を下ろす。


同時に、疲労が一気に襲ってきた。


なんだかんだで、心も体もボロボロだから仕方ないだろう。


そして、微睡も一気に通り過ぎ、俺は意識を手放した。


ガタン。


ゴトン。


一定のリズムが体を揺らす。


ふと、意識が覚醒する。


さっきまで大勢いた人は今はどこにもいない。


車内にいるのは俺だけだ。


奇妙な光景だな。


しかし、ぼんやりとする意識とは裏腹に電車は進む。


そして、周囲が赤い光に包まれた。


夕暮れ。


なぜこんな時間に太陽が。


ああ、そうか。これは夢か。


明晰夢といったか。夢の中で意識がある状態。


とはいえ、別に何をするでもない。ただ電車に揺られていくだけ。


電車に乗って、電車の夢を見るか。なんとも捻りがない。


夕暮れの中を進んでいく。


見たことのない街並み。


いや、どこか、見覚えもある気がする。


そして、橋に差し掛かった。赤い鉄橋。どこの景色なんだろうか。夢なんだから、俺の記憶にあるものなんだろうか。


赤い鉄橋に、朱が掛かり、その濃さを増してゆく。


橙の色を返す水面。


我が夢ながら美しい景色だと素直に思う。


そして、橋を通り過ぎ、しばらく行くと今度はトンネルに差しかかかった。


薄暗い車内の照明。


トンネルの先は見えず、時々外から照らされる照明の明かりで、不規則に視界が保たれる。


ぼんやりと正面のガラス窓に映る自分の顔を見る。


まるで生気の抜けたかのような顔。


毎日見ているはずの自分の顔なはずなのに、どこか他人のものにも思える。


お前は俺なのか。


少なくとも昔の俺が成りたかった俺ではないみたいだが。


トンネル内の明かりに合わせて、現れては消えていく、俺のような誰かの顔。


いい加減見飽きた。


目を逸らそうとした瞬間、その顔が笑った。


口角を上げ、どこかぎらついた目。


一言で言えば不気味。


決して今までの人生で俺はしたことのない顔だ。


ハッとして二度見をするも、既に顔は元通り。


今のは一体何だったのか。


思考に耽ろうとした瞬間、アナウンスが耳に響き、俺の意識は今度こそ現実に引き戻された。


「終点。お降りのお客様はお忘れ物泣きようご注意ください」


やってしまった。


終電で終点。


聞いたこともない駅。


今晩は自宅には帰れないらしい。ビジネスホテルとは言わんがマンガ喫茶くらいはあるだろうか。


どちらにしても無駄な出費で痛手であることには変わりはないのだが。


改札を降りると、目の前んい広がっていたのは予想外に寂れた光景だった。


ロータリーのようなだだっぴろい空間にはタクシーの一台もなければ、辺りに建物もない。


バス停くらいはあるだろうか。


辺りを見回しても何もない。


スマホに頼ろうにも、改札を出た直後に電源も切れてしまい、今ではただの文鎮だ。


どうしたものか。


まあ、焦っても何も変わらんか。


胸ポケットから煙草を取り出し、火を着ける。


煙を吸い込むと同時に心地よい脱力感が体を包み、ぼんやりとした思考が鮮明になっていく。


とりあえず、どこか寝られそうな場所を探すしかないか。


最悪この気温なら外で寝たとしても死にはしないだろう。いざとなったら公園でもいいか。


煙草のお陰か無駄に前向きな思考になる。


改めて周囲を見渡すと、進めそうなのは街灯に照らされた道一本のみ。


まあ、行くしかないか。


駅の周辺にはベンチすらないのだ。仕方ない。


それからしばらく一本道を歩く。


徐々に舗装も雑になり、あぜ道という程ではないが、足元には砂が混じるようになる。


時折分かれ道もあるが、どこも先の見えない暗闇ばかり。さすがに明かりもなく歩くのは気が引ける。


どこまで進んでも一本道。いざとなれば引き返せば駅には辿りつくのだからとただ進む。


どれくらい歩いたのだろうか。


時間の感覚も曖昧だ。


十分だろうか。


一時間だろうか。


普段腕時計を付けない俺には、今は時間を知る術もない。


歩き疲れたような感覚が少し出てきたころ、目の前に石段が現れた。


左右に続く道は暗闇のみ。


寺社仏閣に詳しいわけではないが、神社だろうか?


仕方ない。恥を忍んでここは軒先を貸してもらうしかないか。


一礼をし、石段を登っていく。


境内に続く大門は開け放たれていた。


捨てる神あれば拾う神ありか。これだけついてない中で些細な幸福も嬉しいものだ。


境内には砂利が敷き詰められており、先には小さなお堂が一つ。


廃れている訳ではないようだが、寂れてはいる。最低限の保守しかされていない感じだろうか。


財布の中身の小銭を鷲掴みにし、賽銭箱に放り込む。


二礼


二拍手


一礼


今夜一晩よろしくお願いします。


流石に御堂の中に入るのは気が引けたので、隅の軒先を借りることにする。


鞄を枕にし、上着を腹にかける。


外で眠るのなんて何時以来だろうか。


子供のころに行ったキャンプ以来か。普段はしない経験に若干の高揚を覚えつつも疲れた体はすぐに眠りを欲してくる。


四肢の先にじんわりとした温かさを感じるとともに両の瞼がゆっくりと重くなる。


かすかに聞こえる虫の声に耳を傾けながら、意識が遠くなっていくのを感じる。


眠りを拒む理由もなく、意識を手放そうとしたとき、虫の声に交じり、


コツ


コツ


と微かな物音を感じた。


誰か来たのだろうか。ぼんやりとした頭で音を聞く。


コツ


コツ


徐々に近づく足音は石段を登ってくるようだ。


ジャリ


ジャリ


近づいたそれは、砂利道を歩く音に変わる。


流石に獣ということはないだろうが、ここの関係者なら謝らねばならない。


そう思い体を動かそうとした瞬間に、自分の体が動かないことに気が付いた。


金縛り。なのか。


指の一本、瞼すら動かない。


唯一動くのは瞼のしたの眼球のみ。


暗闇の中をきょろきょろと光を求めてさまようのが関の山。


声を出そうにも、喉から出る掠れたうめき声は自分の鼓膜を揺らすことすらしない。


体が動かないということはここまで不安なものなのか。動機が激しくなるのを感じるが、どうしようもない。


その間にも足音は俺の傍まで確実に近づいていた。


「ほう。気配を感じて覗きに来てみれば人の子とは珍しい」


声が聞こえた。


鼓膜を揺する艶やかな声。しっとりとした響きに、思わずどきりとした。


「随分と苦しそうよの。もしやお主、意識はあるのかの」


確かに意識はあるが、それを伝える手段がない。


そもそもそれを伝えるのは正解なのだろうか。


「まあ、動けんのも無理はないか。どれ、瞼に少し触れるが驚くでないぞ?」


視界が閉ざされたせいか敏感になった五感は近寄ってくる何者かの存在を鋭敏に感じとる。


何かが顔に近づいてくる。


同時に、桜の香りが備考をくすぐる。


こんな状況だというのに、妙にいい香りだ。


香りを感じた次の瞬間には瞼に、暖かな指先が触れる。


触れた指先からじんわりとした暖かさが広がり、顔の筋肉がピクピクと痙攣していくのが分かる。


「ほれ、これで瞳くらいは開くであろう」


声に導かれるままに、瞼を持ち上げると先ほどまで鉛のように重かったのが嘘のように簡単に持ち合がる。


そして俺の瞳に映ったのは、俺を見下ろす妖艶な和服の美女。


月明りに照らされる黒と銀色の艶やかな髪の毛。


化粧っ気はないのに、瑞々しい唇。


薄く細められた瞳が俺を見下ろしている。


そして、異彩を放つ額から映える一本の角。


その姿はまさしく


「お、鬼?」


「声まで出せるようになるとは。これは驚いたわ」


かかっと笑いながら鬼は俺を見下ろしながら言葉を続ける。


「まあ、鬼か否かと問われれば鬼ではあるがの。お主らの言葉を借りるなら夜叉というのが正確かの」


夜叉?俺の中の常識ではせいぜい犬夜叉が精いっぱいなのだが。


「不思議そうな顔をしおって。まあよい。鬼でも夜叉でも好きにするが良い。そこには大きな意味はありはすまい」


「ところで、俺は死んじゃったんですかね?鬼だの夜叉だのこの状況」


「死んでおるのならまだ話は早い。寧ろ、お主が生きてここに居るというのが問題よの」


「さっきから、ここやら言ってますがここってもしかして」


「察しが良いの。ここは幽世。黄泉でもあの世でも好きに呼ぶが良いが、お主ら人の子が暮らす現世とは異なる所よ」


ああ、やっぱりというかなんというか。


でも死んだわけではないらしい。


確かにさっきから微妙に煙草を吸いたい感じがする。


死んでもタバコが吸いたいとなるとそれはそれで救いがない。


アホなことを考えていると、夜叉が俺の隣に腰を下ろす。


相変わらず寝転がったままなので、頭の隣のその顔を見上げるしかないのだが。


近くに座ったことで、さっきの桜の香りが一層と濃くなる。


「さて、まずはお主の状況を整理するかの。とりあえず、どうやってこの場所にたどり着いたのか。思い出せる範囲で話してみよ」


ということで言われたとおりに会社が終わった辺りからのことを話す。


夢の内容を話したあたりで夜叉の顔が曇ったが、そのあとはにこやかに俺の話に耳を傾けるだけだった。


「あいわかった。確認するが、夢の中で硝子に映ったお主が笑った。で間違いないな」


「もしかしたら見間違いかもしれませんが。一瞬だったので」


「夢とは多かれ少なかれ意味を持つもの。意識が在ろうと無かろうとそこに見間違いなどはありはせんよ。


そして、お主がここに来ることになった原因はまさしくそれよ」


「それと言われましても。心当たりが全く」


「端的に説明するならそやつは復体と謂われるもの。西洋でも名のある怪異よ。横文字は何と言ったか。ドッペルゲンガーとかなんとか」


「ドッペルゲンガーって、自分と同じ姿をしていて、見たら死ぬっていう?」


「まさしく。現にお主は幽世に来ておろう?他に知っていることはあるか?」


「あとは、街でその人に会ったのに、声をかけても返事しないだとか、そんなところでしょうか」


「概ね認識に間違いはないな。復体とはそもそも弱い怪異。本来実体もなければ存在自体が希薄なもの。宿主の姿形を借り、二三日現世をふらふらするのが関の山よ。


姿を見たら死ぬなどと謂われるのも、宿主が弱っておるところに復体が現れることで、魂が幽世に引き寄せられる程度のこと。人の子を殺す力など持たん」


うん?でも、そんな弱い妖怪が今回の問題になっているのか?どういうことだ。


俺が不思議そうにしていたことに気付いたのか、夜叉が微笑み言葉を続ける。


「での。お主の見た復体が笑ったと言うのが厄介での。先程話もしたが、存在自体が希薄故、感情、もう少しこちらの概念に合わせれば魂などは持たん。


お主らは意識せんかもしれんが感情とは魂に紐づく心の機微。魂無き者は笑いもしなければ、苦しみもしない。それが現世も幽世も変わらぬ理よ」


本来魂を持たないドッペルゲンガーが笑ったことが問題というのは分かるんだが、それと俺があの世に来たことにはどういう関係があるのか。


状況を整理すればなんとなく分らんでもないが、微妙にピースが足りない。というか完全に憶測の域を出ない。


にこにことこちらを見下ろす夜叉の顔には、「ほれ、話してみよ」と書いてある気がする。


「つまり、ドッペルゲンガーが何らかの方法で魂を得た。状況的に、その魂は俺に関係のあるもの。そんなところでしょうか?」


「存外物分かりが良いな。正解よ。その復体が得たのはおそらくお主の魂の一部。肉体と魂の天秤が崩れたお主はこ此方に迷い込んだ。それが真相よの」


あの世やら、夜叉やら、ドッペルゲンガーやら、オカルトすぎて普段の俺なら到底信じない。が、不思議と夜叉の言葉は腑に落ちてくる。


「それでの。お主はまだ死にたくはないのであろう?死にたいと言うならその魂、器ごと喰らうてやっても良いがの」


首は振れないので、死にたくないと声に出す。


「そうであろうな。であれば、お主が為すべきことは奪われた分の魂を癒すこと。ついでに復体もどうにかせねばなるまい」


「それって、ドッペルゲンガーを倒して、魂を奪い返すってことですか?」


「まあそれも手段の一つではあるが、魂を奪うは妖の法。それを行った時点でお主は人の身では無くなる。それでも良ければ止めんがの」


人間を辞めるってどういうことだろうか。妖怪になるってこと?


「とはいえ、今のお主は妖と人の狭間。どちらでもあり、どちらでもない。そんな中途半端な存在なのだがな」


衝撃の事実。


半分人間じゃないらしい。


でも、別に何か力が湧いてくるわけでもないんだが。現に今俺は絶賛金縛り中で、指の一本も動かせない。


そこは一旦忘れる。


「じゃあ、魂を癒すって一体どうすれば」


「そう急くでない。我もこうして人と話すのは久方振りよ。もう少しこの時を楽しもうではないか。では、少し問答をしようかの。お主は魂とは一体なんだと思う」


「そんなこと考えたこともないな。魂。心。うーん。感情?」


「かっかっか。無理もない。魂とは生の証。生きてきた軌跡が刻まれたものこそが魂よ」


「なんだか漠然としていて、イメージ掴めないですね」


「では、言い方を変えてみてはどうかの。生きてきた軌跡とは何であろうな」


「記憶でしょうか」


「宜しい。賢き子は好きぞ」


そう言って動かない俺の頭部を撫でる夜叉。こそばゆい。嫌な気分はしないが。


「じゃあ、俺は記憶を奪われたってことですか?」


「いや、そう単純でもない。例えば今、我がお主の頭を撫でたであろう。記憶という言葉であれば、名も知らぬ夜叉に頭を撫でられた。それだけのことよ。しかし、今お主の胸中にはどんな感情がある?


嬉しいか?恥ずかしいか?それを聞き出す野暮はせんが、感情が動いたであろう。感情だけではない。顔を見る限り、心地良さそうにしておるが、感覚も伴う。そういった一つ一つの事象に対してお主の感じたことの全てが


お主の魂を形作るのよ」


経験や記憶の修吾鵜である魂の一部を奪われた。それって具体的にどういうことなんだろうか。


いや、一つ心当たりはあるんだが。


「もしかして、俺があんまりこの状況に驚いたりしないのってそのせいなんでしょうか」


「なかなかどうして勘が良い。残念ながら人間の魂はこの状況に耐えられるほど強くはない。魂を奪われたことで出来た余白。それが受け入れる土壌となっておる」


そして、俺の頭から夜叉の手が離れる。


少し名残惜しく感じていると、今度はその手が胸に置かれる。


「そろそろ体も慣れた頃であろう。動けるようにしてやる故、少し待っておれ」


胸に置かれた手のひらからほんのりと温かさを感じるとともに、徐々にその手が下へと向かう。


丁度へその辺りに来た所で、手が止まり、温かさは徐々に熱へと変わる。


その熱が体中に広がり、指先から力が漲ってゆく。


全身の筋肉に力が通ることを感じ体を起こしてみる。


「うむ。上出来。ところでお主よ。少し話が変わるが、葉巻をもっておるかの。先ほどから芳しい香りが漂ってきて我慢ならん」


「葉巻ほど上等ではないですが。これで良ければ」


上着のポケットから煙草の箱を取り出すと、夜叉の目の色が変わる。


「おお、この香り。堪らんな。すまんが一本貰えんだろうか?」


もし、夜叉に尻尾があればぶんぶん振っていそうなほどキラキラした瞳。そんな顔をされては断る道理など在るわけがない。


箱から一本を差し出すと、嬉しそうに抜き取る夜叉。


ライターを渡してやると、コクリと首を傾げる。かわいい。


幸い簡単なターボライター。


「そこの蓋の部分を押せば火が付きます」


おっかなびっくりという様子でライターを握り込み、親指で蓋を押し込む。


火が着くとれしそうな表情を浮かべ、早速煙草へと火を灯す。煙を吸い込み


「ふぅぅぅぅ。美味いのお。お主は吸わんのか?」


「では、せっかくなんで」


俺が煙草を咥えると、「ほれ」と夜叉が火をくれる。この感じ。いいな。キャバクラには行ったことはないがこんな感じなんだろうか。


二人して、紫煙を燻らせる。


ここがあの世だということを除けば何のことはない、長閑な時間だ。


そういえば、あの世と言っても虫の声も響いていれば月の明かりも届く。何が違うんだろうか。


夜叉がいるのは明確な差異か。


どちらからともなく吐いた煙が、微かに暗闇に白を加えては消えていく。


「やはり葉巻は現世のものに限る」


「気に入って頂けたなら良かったです」


二人とも吸い終わり、一応吸い殻は携帯灰皿に回収した。


「うむ。それではそろそろ参るとするかの」


「どこに行くんです?」


「お主の家にきまっておろう?」


あ、俺ってここから出れるんだ。


まず出てくる感想がこれなあたり、魂が喰われたのは本当らしい。

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