灰と泥にまみれた令嬢、王子に保護されて護国の聖女となる
子爵令嬢のアリスは父が再婚した結果、継母と義理の姉たちに毎日いじめられる日がはじまった。
父が多忙で屋敷に不在なのをいいことに、彼女はメイド同然の扱いを受け朝から晩までこき使われた。
きれいだった洋服はすべて取り上げられ、メイドたちのお古の服を着なければならない。
「メイドのくせに靴をはくなんて生意気よ」
「メイドのくせに休むなんてずうずうしいにもほどがあるわ」
姉たちはそう言ってアリスをいじめ続ける。
「まあ食べ物を食べるなんてどういう神経なの?」
なんて言って食べ物を取り上げられることもあった。
「仕事ができないくせに水を飲むのね」
といやみを言われることもある。
最初彼女をかばった古参の使用人はみんないじめられた挙句、屋敷を追放されてしまった。
もう誰も彼女をかばってくれる人はいない。
夜、粗末な馬小屋でアリスは泣きながら暮らしていた。
「でもお父様が帰ってきてくだされば……」
きっと継母と姉たちを叱ってくれる。
今の地獄のようにつらく苦しい生活も終わる。
そう信じ、心の支えにして耐えていた。
ところが、アリスのところに届いたのは父が流行り病に罹り、なくなってしまったという知らせだった。
「そんな、お父様が……」
彼女が真っ青になって失神したのも無理ないだろう。
父がいるからこそ、アリスはいじめられるだけだったのだ。
父がいなくなればもはや継母と姉たちが手加減する理由などなくなる。
彼女の絶望は正しかった。
彼女が意識を取り戻すと、すぐに継母がやってきた。
「あら、生きていたのね、アリス。まったく害虫なみにしぶとい娘ですこと」
継母の第一声は彼女の予想どおり、冷酷を通り越している。
うつむいて何も言い返せない彼女に継母は告げた。
「あの人が亡くなって、あの人の遺産は私と私の娘が継ぐことになったわ」
「えっ、そんな……」
さすがのアリスもこれには反応する。
「何の不満があるの?」
継母はぬくもりのない青い瞳を彼女に向けた。
今までされてきたことを思い出してしまい、彼女はぶるぶると震える。
「せめて形見だけでも」
なけなしの勇気を奮い起こし、彼女は希望を言った。
「そうやって金目の物を持ち出すつもり? あつかましい泥棒ね」
血のつながりで言えば最も権利を持つアリスに対し、継母は暴論を浴びせる。
「で、でも」
縮みあがる心臓と心を必死に叱咤し、彼女は口を開く。
「あら?」
返ってきたのは地獄の悪魔さながらの形相だった。
「言わないと解らない? あなたが何も要求せず、おとなしく出ていくなら私は満足するのよ。もしもそうしないなら……」
言葉を区切り、眼光での圧力を強める。
命の安全がなくなるということか。
アリスはいやでも悟るしかなかった。
「私は悪魔じゃないわ。あなたが生きていく権利まで取り上げる気はないのよ。あなたの聞き分けがよければね」
継母は非道な発言をしているくせに、この上なく親切なことをしているつもりらしい。
言い返す気力もうせ、アリスは家を出ていくことを決める。
「解りました。許してください」
頭を下げる彼女に優越感をくすぐられたか、継母は鷹揚に言った。
「それでいいのよ。今日一日くらい、準備する時間を特別にあげましょう」
明日の朝いちばんで出ていけという意味で、どこが優しいのだろうか。
そんなことを言ったら激怒されるだけなので、アリスは何も言わず頭をさげて仕事に戻る。
ところが二人の姉は継母と違っていた。
アリスが庭のはき掃除をしているところにやってきて、冷徹な言葉をぶつける。
「あんた、まだいたんだ、このごくつぶし?」
「生意気に遺産のおこぼれを狙ってるんじゃないの、このうす汚い泥棒猫!」
下の姉が彼女に泥をぶつけた。
「今すぐ出ていきなさいよ!」
上の姉が袋に入れていた灰を彼女に浴びせる。
「ひどい……」
彼女の仕事着は一枚しかなく、着替えなどあるはずもない。
「ひどいのはあんたの性格でしょ。ずうずうしい」
「あんたの味方なんていないのに、まだ居座るつもりなのかしら、あつかましい」
罵詈雑言を浴びせかけられる。
姉たちは継母が持っていたなけなしの自制心すら持っていなかった。
さらに泥と灰を投げられ、アリスは仕方なく逃げ出した。
「あはは! 逃げ出したわよ、姉さん!」
「みじめな姿! いい気味だわ!」
姉たちは遠ざかるアリスの姿を見て、いい気味だと笑顔をかわす。
アリスは行くあてもなく、街をさまよう。
街の人たちは彼女を遠くから見るだけで、誰も助けてくれない。
彼女の父が亡くなったことはすでに広まっていた。
つまり彼女は何の後ろ盾もない小娘にすぎず、継母をおそれて誰も手を出せないのである。
街の外に出て歩き疲れた彼女は木の陰で休む。
行くあてなどない。
彼女の両親に兄弟はいるが、今まで一度も助けてもらったことはなかった。
頼ったとしても追い出されるのが関の山だろう。
彼女は孤立無援だった。
世間の冷たさ、無情さが形なき風となってアリスの体を打ち、心にしみわたってくる。
彼女にはもう何も残っていない。
それでも自ら命を絶つ勇気はなかった。
(私はどうすればいいのかしら?)
川の水を飲みながら、アリスは疲れた頭でぼんやりと考える。
どうすればいいのか、彼女には解らなかった。
まだ死にたくないとは思う。
できれば継母と姉たちに一矢報いたいという気持ちも残っている。
だが、どうすればいいのか解らなかった。
考える気力さ奪われていくようだった。
このまま何もかも奪われてみじめに死ぬしかないのだろうか。
暗い考えが浮かび、そしてそれを否定することができなかった。
彼女は思考を放棄し、目を閉じる。
このまま安らかに眠り、二度と目覚めなければ……そう思っても死への恐怖を抑える何かが働いた。
彼女は疲れ果てていたのだろう。
日が暮れるまで動かずじっとしていると、そこに老夫婦が通りかかった。
彼らは泥と灰にまみれた若い少女がぐったりと倒れている様子に仰天し、あわてて声をかける。
「もし、お嬢さん。どうかしたんだね」
アリスはぼんやりと焦点のあわない青い瞳を二人に向けた。
「まさか……」
老婦人のほうは一瞬顔をしかめたが、すぐに着衣に乱れがないことに気づく。
「力になれるか解らんが、話してみたらどうだね?」
「その前に着替えて体を洗わないと」
老夫を夫人がたしなめる。
「おっと、そうだったな。立てるかね?」
しわだらけだが温かい手をとり、アリスの目からそっと涙がこぼれた。
「ど、どうしたんだね?」
「傷が痛みましたか?」
うろたえる老夫と、いたわる老婦人にアリスは言った。
「いえ、人のぬくもりを感じたのはずいぶんと久しぶりですから……」
この言葉に老夫婦は顔を見合わせる。
「何やら訳アリらしいな。歩きながらでいい。聞かせてもらえるかな」
老父の提案にアリスはうなずかなかった。
「あまり親切にしていただくわけにも……あの人たちがやってくるかもしれません」
そう言って彼女は体を震わせる。
老夫婦は再び顔を見合わせた。
「ひとまず話は家で聞こうか」
老婦人に手を取られてアリスはゆっくりと歩いていく。
道中、夫婦はいろいろと話しかけてくれたが、彼女の耳にはほとんど入ってこなかった。
老夫婦の家は森の近くの川にある小さな小屋だった。
近くに人里はなく、隠棲しているらしい。
アリスは疑問に思ったものの、すぐに消えてしまった。
他人を詮索している余裕などないし、そもそも自分のほうこそ探りを入れられる立場だという自覚はかろうじて持っている。
「さあ、まずはお風呂に入りましょう」
アリスは逆らわずに老婦人にしたがう。
「お風呂の入り方は解る?」
彼女の問いにアリスは少し迷ったもののうなずく。
うそをついても仕方がないし、迷惑をかけてはいけないという意識が働いた。
「今、着替えを持って来ますね」
老婦人はそう言って一度姿を消し、すぐに戻ってくる。
「ちょうどありましたよ」
彼女が差し出したのは質素な白い麻服だった。
ただし、アリスが着ていたものとは違ってうす汚れていないし破れてもいない。
「じゃあゆっくりつかってね。汚れを落として温まったら、ご飯にしましょう」
アリスはこくりとうなずく。
老婦人が去って彼女は脱衣場に一人になる。
静寂に体が包まれると、急に物寂しさが戻ってきた。
だが、今までとは決定的に違うのは、今ここで彼女に何かがあれば老夫婦に迷惑がかかるということだ。
(ここじゃ死ねないわね)
少なくともここを出てからにしようと彼女は思う。
その程度の分別はまだ残っているのだから。
体を洗いお湯につかりながら、彼女は考えた。
(明日になったら出ていきましょう)
意地の悪い継母がもしかしたら捜索の手を出すかもしれない。
継母は出さなくても、姉たちのどちらかはきっと出すだろう。
そうすれば親切な老夫婦がきっと気の毒なことになる。
(それはできないわ)
と思った。
そんな彼女だからこそ、反抗もせずに従ってきた。
風呂からあがると、待ちかまえていたように老婦人が顔を出し優しく微笑む。
「よかったら召し上がって」
いやだと拒絶する意思を温かく溶かすような、春の日差しのような顔についついアリスは首を縦に振る。
「ありがとうございます」
長らく人に親切にされたことがない彼女に、老夫婦の優しさは心にしみた。
小さなダイニングルームに案内され、野菜スープを差し出される。
「美味しい」
そこまで味が上等なわけではないが、久しぶりに食べたまともな食事は格別の味がした。
「よかったですよ」
老婦人は安心したように言う。
「娘さん、よかったら何があったのか話してみたらどうだね?」
老人がそう言い、アリスは表情をくもらせる。
「あなた、詮索するのはよくありませんよ。誰にだって言いたくないことくらいあります」
「おっと、すまん」
老父はすぐに詫びた。
「いえ、ただ私にはもう帰る家がないだけで」
アリスは具体的なことを言うつもりはなかったが、老夫婦がうすうす感づいているであろうことは告げる。
「そうか。よければずっとここにいなさい」
「ここには私たちしかいませんからね。子どもたちはとっくに大きくなって、もう帰ってこないし」
二人の温かさにジーンときたアリスの目から涙がこぼれた。
よほどの事態があったに違いないと、二人は黙って視線をかわす。
「何ならおかわりもするかね? 私のささやかな料理ですまないが」
と老人が言う。
「あなたが作ったのですか?」
アリスが思わず聞き返す。
この国の家庭料理は女性が作るほうが多いと聞いた記憶があったからだ。
もちろん宮廷料理人などは別だが。
「ああ。昔、料理人のはしくれだった影響でね」
老人はおだやかに微笑む。
「引退しても妻孝行ができる特技を持っていて安心したよ」
彼が妻を見るまなざしは愛情にあふれていて、アリスはとてもうらやましくなった。
「まああなたったら。お客さんの前ですよ」
夫人は注意したものの、まんざらではなさそうである。
「すてきなご夫婦なのですね」
アリスは亡き両親を想って胸が痛んだが、頑張って笑顔を作った。
「長い付き合いだからね」
老人が今さらのように謙遜をする。
「そうですね。六十年くらいかしら、知り合って」
「まあそんなに」
アリスは息を飲む。
それだけ長くいて仲がいいのはなんてすばらしいことだろう。
彼女は本当にそう思った。
(最後にすてきな夫婦に会えてよかった)
などと考えていると、夫人が声をかけてくる。
「疲れているでしょう。ベッドは用意してありますからね」
「ありがとうございます」
アリスは改めて礼を言った。
今晩一回くらいベッドで寝るのも悪くない気がする。
(最後にベッドに寝たのはいつかしら? お母様が亡くなる前よね)
もう遠い昔の話に思えてならなかった。
二度とそんな日はこないと思っていただけに、少しだけうれしい。
「こっちですよ」
老婦人が案内してくれたのは来客用と思える一室で、物がほとんどなかった。
「自由に使ってくださいね」
「重ね重ねありがとうございます」
どれだけお礼を言えばいいのか、アリスには解らない。
ベッドにもぐりこみながら彼女は考えた。
(明日早く起きて、そして出ていきましょう)
と決意をする。
できればきちんと礼を言うべきだろうが、それは難しい。
もう一度優しい顔を見れば甘えたくなってしまうかもしれない。
それはできないと内なるアリスが言っている。
継母と姉たちがいるかぎり、彼女に安息の場所はない。
少なくとも彼女たちの目が届かないところまで逃げるべきだろう。
(巻き込んではいけないもの)
優しい老夫婦が自分を助けたばかりに継母と姉たちに目をつけられるなんて、想像しただけでもおぞましい。
それだけは絶対に回避したかった。
明日早く起きられるように願いつつ、アリスは眠りにつく。
彼女はハッと身を起こした時は、窓から太陽の光が差し込んでいる。
カーテンを開けるまでもなく、夜が明けてしまったのだと理解できた。
(しまった)
彼女は後悔したがもう遅い。
継母と姉たちのせいでぼろぼろになっていたうえに、歩き詰めだった体は疲れ果てていて、長い時間熟睡を必要としたのだ。
どうしてそのようなことすら思いつけなかったのか。
疲れ果てて、頭の働きがにぶくなっていたからだと唇を噛んでももう遅い。
部屋の外に出ていくと、当然老夫婦の笑顔がある。
「おはよう、お嬢さん」
「よく眠れましたか?」
「……はい」
二人の優しさと温かさにかなうはずもなく、アリスは小さくうなずいた。
「それはよかった。食事を用意してあるんです。召し上がってください」
老婦人の言葉を断る勇気が彼女には出せない。
もう一度うなずいて食事をごちそうになる。
「ごちそうさまです」
彼女はそう言ったあと、何とか勇気を絞り出して言った。
「さんざんお世話になって恐縮ですが、そろそろおいとましたいのですが」
「行くあてはあるのかな?」
老人の問いはやわらかいが、鋭く本質を突いている。
「ありません」
アリスとしては正直に答えるしかない。
「ならばしばらくここにいなさい」
老人の言葉は押しつけがましくなく、彼女にとって受け入れやすかった。
だからこそ、彼女は首を横にふる。
「ごめんなさい。でも、私がいたら迷惑になります」
「なぜ? あなたは孫娘みたいに思っているんですよ。迷惑だなんてとんでもないわ」
優しく言う老婦人に、アリスは事情を明かすことにした。
そうでなければこの二人には解ってもらえないと判断したのだ。
「実は……」
話し終えると、二人は沈痛な表情になる。
「なんてことだ」
彼女にありきたりのなぐさめやはげましをかけてこないあたり、二人の誠実な人柄がうかがえた。
「そんな非道なことが許されるのか? いや、そんなわけがない」
「訴えてみたらどうですか? 証拠はいくらでも出てくるでしょう」
老夫婦はそんなことを言う。
だがアリスは首を横に振る。
「もうあの人たちに関わり合いになりたくないんです」
「そうか……被害者が泣き寝入りするのは好ましくないと思うんだが」
彼女の言葉に老人が無念そうな顔になった。
彼女の意思を無視するわけにはいかないと思ったのか、二人はそれ以上は言ってこない。
「それで? もしかしてその人たちのことを気にしてるのかな? 何やら落ち着かない様子だけど」
年の功とでもいうべきか、老夫婦はアリスの心理を見抜いているようだった。
「は、はい。あの人たちのことですから、私によくしてくださる人たちには徹底的ないやがらせをするんです。使用人たちもみんな辞めてしまいましたし」
アリスが不安を口にすると、老人は笑い飛ばす。
「気にすることなんてない。だいたい私たちにそんなことをすれば、もうお家騒動ではすまない。れっきとした犯罪だよ」
「かえってあなたのためになるかもね」
老夫婦の落ち着きぶりが彼女には新鮮だったし、心強く思えた。
しかし、一抹の不安はぬぐいきれない。
「ですがご迷惑なんじゃ……?」
「あなたの話を信じるかぎりでは、その継母と義理の姉とやらが何百倍も迷惑だな」
老人は落ち着いて指摘する。
正論だったのでアリスは黙ってしまう。
「いずれにせよ、あなたが気にすることではないよ」
老人に優しく言われ、彼女は涙ぐみながらうなずく。
「いつまでいてもいいんですよ。私たちにとっても孫娘ができたみたいでうれしいですから」
老婦人の言葉に彼女はもう一度うなずいた。
アリスは当面お世話になろうと決める。
温かい申し出を拒絶するには、彼女の心は弱くなりすぎていた。
「では何かお手伝いを……」
アリスがそう申し出ると、老夫婦は苦笑して断る。
「まだ疲れているでしょう? 無理しないほうがいい」
「体力が戻ってからでも遅くありませんよ」
アリスはそっと赤面した。
たしかに今の彼女は弱っている。
「それではお言葉に甘えて……」
そう答えた時、家のドアが激しくノックされた。
アリスの体はこわばり、顔は真っ青になってしまう。
「お、追手かもしれません」
震えながら言う彼女を見て、老人は立ち上がって妻に目配せをする。
老婦人はアリスを助けて、彼女を奥の部屋に隠す。
「どなたかな?」
老人はゆっくりと歩き、声をかける。
「私だよ、カール」
若い男性の声に老人はホッとしてすぐにドアを開けた。
「これはフィリップさまでしたか」
姿を見せたのは貴公子然とした金髪の若者で、彼は青い瞳に怪訝そうな色を宿す。
「何かあったのか? 安心したようだが?」
フィリップの勘の鋭さは今にはじまったことではなく、老人は素直に話すことにした。
「実は若い娘さんが自分をしいたげてくる家族から逃げ出したのを保護したのです」
「ほう? どこぞの貴族か?」
フィリップはいきなり切りこんでくる。
「お解りですか」
「むろんだ。平民だと娘は大切な道具であり、時には商品になるもの。逃げ出すような下手を打つ奴はめったにいないし、ここらに平民の街などあるまい」
フィリップは即答した。
穴がないわけではないにしても、今回の場合は見事に当たっている。
老人のほうは彼を味方にしたいと思っているが、はたしてアリスはどう思うだろうか。
「会わせたくないなら、このまま立ち去るが?」
フィリップは配慮も見せる。
だからこそ老人は彼を味方にしておきたい。
そのほうがきっとアリスのためになる。
「お待ちください。バーバラ、アリスを連れて来てくれ」
夫の呼びかけに応えて老婦人がアリスの手を引いて姿を見せた。
アリスはおびえながら、予期せぬ展開についていけないという顔をしている。
「こちらの少女か?」
フィリップの目は鋭いが、アリスにとって不快なものではなかった。
「は、はい。アリス・ヴァン・マルセールと申します」
「マルセール? 子爵が先日亡くなった家だな」
フィリップは眉を動かす。
その口ぶりからアリスは彼が大物だと推測した。
伯爵かそれ以上の身分でなければもっとていねいな言葉遣いになる。
「はい」
「フィリップさまは信じて大丈夫だ。もう一度話してごらん」
老人に優しく言われて、アリスは再び身の上を話した。
「ひどい話だな」
フィリップはあきれる。
「子爵もたいがいだ。娘の現状に気づかなかったのだから」
「そ、そんな」
父を悪く言われてアリスは思わず反発した。
しかし、フィリップの鋭い視線に舌が止まってしまう。
「大事なのはそなたの今後だな」
「はい」
アリスは沙汰を待つ。
継母を糾弾したのだから、彼女が働く家くらいは紹介してもらえるのかと淡く期待する。
「そなたに何ができる?」
「使用人としてのことなら、一通りこなせると思います」
アリスはそう答えた。
継母たちにいじめられたことも、悪いことばかりではない。
優しい人に出会えるかもしれないから。
そもそも苦労せずに済んだということは、この際考えない。
「それでは足りぬ」
フィリップはそう言った。
「魔法測定を受けたことはあるか?」
「いえ。父が子爵の娘には無用だろうと」
アリスは首を横に振る。
魔法測定とは、魔法を使ってどのような技能があるのか調べることだ。
だいたい才能があるのは貴族でも十人に一人程度にすぎない。
大貴族ならともかく、子爵程度なら変な才能を使いこなせるとはかぎらず、亡き父の言い分はもっともだと彼女は考えていた。
「言いたいことは解らんでもないが、一応受けてもらおう。もしかしたら新しい仕事を見つけるのに役に立つかもしれんぞ?」
「は、はい」
アリスはフィリップの言葉にうなずく。
たしかによい働き口が見つかるかもしれないと思えば、いやがる理由もない。
「ではさっそく」
「えっ?」
フィリップが手をかざしたので、アリスは首をかしげる。
「私も魔法測定をおこなうくらいはできる」
「そうでしたか」
高貴な身分に見えるのに、と彼女は思ったが口をつぐむ。
「フィリップ様は才能発掘に熱心なお方でしてね」
と老人が口を挟む。
だから自分でも魔法を使えるようになったのかと、アリスは納得する。
「知識の雫、垂れて未来の希望をつむぐ白き糸となりたまえ」
フィリップは呪文をとなえて少しすると、顔色を変えた。
「出たぞ。そなたは加護を持ってるようだ。今すぐ私と来てもらおう」
「えっ?」
突然のけわしい顔と鋭い口調にアリスは困惑する。
「フィリップさま、いったい何事でしょう?」
老夫婦が困惑して口をはさむ。
「彼女は貴重な護国の加護を持っている。今すぐ王族の名において保護する」
「えっ、王族?」
アリスは突然の展開に頭がついてこれない。
フィリップは高貴な身分なのだろうとは思っていたが、まさか王族だとは。
「混乱しているようだが、これは王子として命令である」
フィリップに言われてアリスも老夫婦も反射的にひざまずく。
王族の命令は王族しか待ったをかけることはできない。
臣下はただ従うのみだ。
「ははーっ」
アリスたちの返事にうなずき、フィリップは言った。
「当分そなたは私の保護下に置こう。そなたの家族がもしもくだらぬ手出しをしてくれば、反逆罪をもって極刑に処す。安心するがよい」
「は、はい」
アリスはほとんど条件反射で返事する。
彼女にかろうじて理解できたのは、しばらくの間自分が王族の権力で守られるということだけだった。
後日、護国大公フィリップと、護国の聖女アリスの出会いと言われるエピソードである。