2 へーコの村・続き
エメスが神殿を去って初めての夜が訪れようとしている。
エメスは十三男坊サンケと連れ立って、村を取り囲む丘陵の一番高い場所に居た。
西の空には沈み行く陽の薄紫と朱の残照、どこまでも広がる緑なす丘、点在する林と森、
へーコの村と同規模の幾つもの集落、たなびく夕飯の炊事の煙、帰路をいそぐ馬車道の荷馬車や行商人。
「なぁ、エメス。神殿てどんなところ?」
サンケはずっと質問責めだ。
「つまらない所ですよ。年五回の大祭以外は、外界に向けて開門することはありませんし・・・。地味で単調で暗くて退屈で、私がサンケの年齢くらいの時には、辛くて仕方がありませんでした。一生をここで過ごすのだと考えると、悲しくて、よく泣いていましたよ。」
「ふうん・・・。弱虫だったんだな、おまえ。オレは絶対泣かないぞ。かあちゃんやねえちゃんにぶたれたって、泣かない。オレだって、寂しい時があるんだぞ。兄弟が上に二十六人、下
に八人もいると、オレなんか、いつもかあちゃんから放ったらかしだぜ。」
「サンケの上に、二十六人?!」
エメスは耳を疑った。
少年の説明によると、へーコの今の妻マーシャは後妻で、しかも三人目の妻だと言う。へーコは最初の妻とその間に生まれた息子を戦禍で亡くしており、若きへーコは「戦なんぞに負けて
たまるか!」が口癖で、その後ガムシャラに働き意地で総勢三十五人の子供を儲けたのだという。先妻が残した子が十八人、マーシャの産んだ子供はサンケを含んで十七人。
他村へ嫁いだ娘達と兵隊や行商人となった息子を除くと、現在村にいるへーコの子供は二十七人。へーコの孫が六人。息子達の妻が三人。マーシャの母と叔母、先妻の姉、へーコの母などの年寄りが九人。
「ねずみのへーコってのが、オレのおっどうのアダ名だ。他所の村のガキどもから、オレ、おっどうの事、いっつも冷やかされるんだ。恥ずかしいよ。」
「冷やかしてくれるお友達がいるだけでも良いですよ。私は、同世代の友人などいませんでした。」
「エメスの家族はどこにいるんだ?」
「さあ。私は戦災孤児でしたから、おそらく肉親はもう生きていないでしょう。神殿に入る以前の記憶は一切無いですしね。」
淡々と話す神官の顔を見つめながら、サンケは目をキョトンとさせた。
家族がいない状態を、理解できないのだ。
「ようし、エメス!」
夕闇迫る丘の上で、少年はガバ、と立ち上がった。
「オレの姉ちゃんと結婚して、おまえもおっどうみたいに、たくさん家族作れ!」
今度はエメスがキョトンと少年を見て、それから儚く笑った。
「ありがとう。でも、サイファスの神官は終生結婚は出来ないのですよ。私は、へーコのようになれないのです。残念だけれど。」
「神官をやめりゃあいいよ。」
「追放はあっても、破門は無いのです。いったん聖別を受けると、二度と普通の生活者には戻れません。」
「ふうん・・・。」
何を思ったのか、少年は黙りこんだ。
陽がとっぷりと暮れて、紺色の空に星々が煌めいている。
丘の麓からサンケの姉が丘の上の二人を呼んだ。
「わかってるよ!いま帰るってば!うるせえなぁ!」
生意気に叫ぶと、少年はクシュン、とくしゃみをする。
「風が冷たい。お家へ戻りましょう。」
麓ではサンケの姉が心配そうに二人を待っている。
「おせっかいなんだよなぁ、ミリアムはよお!」
照れくさそうに言って、それでも少年は素直に丘を滑り降りた。エメスは微笑ましく姉弟のやりとりを眺めていた。
ミリアムは十歳のサンケより頭一つ分だけ背が高い。
羊毛のストールで、嫌がる弟をぐるぐる巻きに包むと、エメスに近寄り、暖かそうなストールを差し出す。
長身のエメスと較べると大人と子供の身長差だが、十八歳のエメスと小柄なミリアムの年の差は三、四歳しかない。
ぐるぐる巻きの姿で、サンケは二人の様子をニヤニヤ見ていた。
「なによ、やらしい子ね!」
宵闇で見えないが、優しい内気なミリアムの顔は真っ赤である。
「うひょーっ、うひょーっ、春だどー!おっどう、ミリアムが色気づいたどー!もうすぐ、ややこができるぞー!」
足の生えた蓑虫のような姿で、囃し立てながらサンケは家へと駆けて行く。
月明かりに照らされた少女の顔が山苺のように染まるのをエメスは目撃してしまう。
「サンケ!神官は結婚できないと言ったでしょう!」
動揺したエメスは、間抜けな事を叫びながら、少年のあとを追いかけた。少女に差し出されたストールを受け取るのを失念したまま。
可愛そうに、少女は一人残されて、真っ赤な顔でストールを握り締めて佇んでいた。