1 サイファスの朝・続き・4
「神官さん、あれ見ろ。兵隊だど!」
へーコの指差す南の方角の彼方に、行軍する二十名ほどの隊列があった。
「黒の三角旗・・・・。オルキアの帝国旗ですね。一番近い国境はバルファス砦だ。そこの駐屯部隊でしょうか。先ほどの怪鳥といい、何やら不穏だ。」
エメスが思うよりずっと俗世界は大変そうだ。
早くも埃と泥と草の汁にまみれたエメスの姿は、長年の放浪者のような風格を漂わせている。
へーコは言うか言うまいか逡巡したが、結局はこの地域の噂話を若い神官に教えた。
「そのバルファス砦よ。あそこの砦が化け物の出る原因だって、もっぱらの噂さ。あそこの城壁に囲まれた敷地には、古墳があるんだ。太古の魔女のだ。オルキアの駐屯兵たちが墓を荒らしちまったから、封印が壊れて地底の悪魔どもがどんどん地表に溢れかえるようになったんだと。」
世間知皆無だが、古文書に埋もれて育ったエメスは、サイファス神殿近郊のその古墳の存在を知っていた。郷土資料を一通り読んでいる。
「ゼクソー太守の記した地誌に、バルファスの丘に埋葬された魔女の名前がありました。アガテイア。帝国中興の祖、英雄アルティンに助力した、伝説の女賢者。オルキア帝国は、彼女の遺体を掘り起こしたのですか。」
「ああ。それで、祟りが起きたってんで、ここら一帯の村々は、この二、三年、大騒ぎよ。困ったもんだぁ、まったく・・・。」
二千年前の魔女の遺骸を発掘して、どうしようというのだろう。
エメスはオルキア人が苦手だ。彼らは総じて何を考えているか分からない。
オクシデンス大陸中央部には七つの種族が住んでいる。
南方の古き大帝国オルキアの基幹住民は黒髪、黒い瞳で華奢な骨格の人々だ。彼らは『帝国人』と呼ばれる。
エメスの育ったサイファス神殿、カルルークの聖地に開けた街ゼクソーがあるこの地域一帯は、ギース大公国とオルキア帝国の国境地帯であり、主な住人はシエナ人とルクサーナ人だ。農夫へーコは典型的なシエナ人であり、エメスはルクサーナ系である。
ここから東へ街道を行くと山岳地帯に入る。そこはツァイダム人の王国だ。
ゼクソーから北東に進路をとれば、エルンマ都市国家連合の盟主ヴァルダナ王国があり、ヴァルダナ族とその支族エルンマ人が入り乱れて暮らしている。
エルンマ海ほとりの都市国家群の西方にはルーダル王国があり、ルーダル人の国を南下するとシエナ人のギース大公国に到る。大公国の西域は荒野と砂漠が広がり、ヘロデア人の二つの古王国と新興の帝国ファルテアが版図を拡大しつつある。
オルキア、ルクサーナ、ツァイダム、シエナ、ヴァルダナ、ヘロデア、オクシデンス、が大陸中央部の七種族の名称で、それ以外の各種族はこれらから生まれ出た混交種族だ。
新興帝国ファルテアは『神聖正統純血』を誇るオルキア帝国からは、雑種のケダモノ呼ばわりされている。しかし、この雑種の獣はとても強く、わずか十二年で無から大帝国を構築した。
大陸の各王国は迷っている。オルキア帝国を裏切り、ファルテアに着くか否かを。
唯一の大帝国に秩序の全てを依存した時代は終わりを告げようとしている。
そう遠くない未来に、新旧ふたつの大帝国同士の直接対決があるのではないか、大変動が訪れるのではないか・・・・・農民達の間に広がる不安だ。
へーコのように、金貨銀貨の形で持ち運び可能な蓄財をしようとする農民が増えている。
戦になれば、収穫物も家も田畑も牧草地も家畜も、一切を失ってしまうのだから・・・・・。
「エメスさん、あんた、神殿から離れて良かったかも知れねえ。あと数年で、この辺は全部戦場になるよ。きっとね。おらはそのうち、おっかあとガキども連れて、ツァイダムかアラドスにでも、
移住しようかと思ってるんだ。あんたは、どこへ行く予定なんだい?」
もっともな質問だが、エメスに答えの用意はない。行くあてなどありはしないのだ。
「しばし、諸国を放浪してから、どこかの神殿に腰を落ち着けて、各国の地誌でも記そうかと・・・・・・・。」
「ほう!さすが神官さんだぁ。おらたち百姓とはこころざしが違わぁ。はっはっはっ。」
荷馬車は快調に走り続け、ほどなくすると、へーコの村のかまどから立ち昇る煙が見えた。
「ほりゃあ、おっかあが、昼飯のスープさ煮込んで待ってるぞ!」
へーコは馬に合図を送り、足を速めさせた。