第2章 《1 アラドスの風》
シエナ街道は広い丘陵地帯を抜けると三つに分岐する。
一つは北上してヴァルダナ王国に至る道、もう一つはルクサーナを横断して東のツァイダム王国に至る道、最後はシエナ地方の辺縁部を南西に向かって、海運国アラドスへ至る道だ。
へーコの村を旅立ったエメスは、三叉路を南西に進路を取った。
とりあえず、海というものをこの目で見てみようと思ったのである。
アラドスと交通の要衝ルクサーナ地方を直接に連結する目的で近年建設された真新しい街道は、出資者の名を冠して『サドアクビア街道』と呼ばれる。
アラドス随一の海運王サドア家の遺産を受け継いだ三姉妹、キュビア、メリクーリャ、エルスーディアが内陸交易発展のために私財を投じて敷設させた道が、シエナ街道から別れ出る三叉路である。
ヴァルダナへの道は『サドアメリキュリア』、ツァイダムへの道は『サドアルスウディア』の名がそれぞれに与えられている。
大陸南部の海岸線は東の部分が、南の海に向けて大きく張り出し、その亜大陸がオルキア帝国の版図の大部分を占める。
海商国アラドスは、大陸本土にあるオルキア帝国領土の西端を南海に臨みながら三百五十里西へ移動した所、噴火湾を囲む弧状の島嶼と半島地形が恵む天然の良港、海の要塞にある。
新興の帝国ファルティアや、南海の大洋を越えた遥か彼方に存在する未開の蛮族が住まう島々との交易、さらにその先の、伝説として存在が囁かれる『もうひとつの大陸』にすら航海の帆を上げて乗り出していると評判の、胸躍る夢と冒険の国がアラドスだ。
たった一日の滞在だったにも拘らず、盛大な歓迎の宴を開き、別れの際には、エメスをことのほか気に入った十三男坊のサンケが、涙を堪えて真っ赤な顔になりながら、どこまでもエメスの後を追いかけて街道を見下ろす丘陵の稜線の上を走り、叫んでいた。
「エメス!海を見たら、また帰ってくるんだよな!おれ、待ってるからな!約束だからな!」
アラドスの国を訪れた後、自分がどうするかはエメス本人にも分からない。
旅立ちの辛さ、わずか一日滞在したに過ぎないへーコの村に郷愁を抱く自分の心に、エメスは驚きを覚えた。
(これが家族、ふる里、というものかな・・・・・。)
昨日、サイファスの神殿を旅立ち、今日再びへーコの村からの旅立ちの時を迎えた。
十年間、時の止まったかのような神殿の内部で変化の無い日々を過ごしてきたエメスにとって、へーコの村での一日は、そこで一生分の時を暮らし、家族に囲まれて平凡に生きる普通の人々の一人として自分も生きたかのような、不思議な感覚をエメスに味わわせた。
――――――おまえ、おれの家族だからな!忘れんじゃねーぞっ!・・・・・・。
サンケの言葉が暖かい。
しかし、エメスの心の底に潜む自分への確信が、平凡な生活者になろうかと思う気持ちを打ち砕く。
(エメス、お前は、破壊を導く者だ。)
神殿を追放となった理由は、『サイファスの教義を壊乱した咎によって』だ。
追放処分が執行される前夜、つまり一昨日の夜、神殿長は自室にエメスを一人呼び、古い詩を刻んである奇妙な黒い石版のかけらを見せた。
わたしの名は賢者 この世の理を悟り 神々の意図を知り
真実の言葉を語る者 ゆえにわたしは世界を壊す
「これに見覚えはあるかね?」
「・・・・・いいえ。地下の古物倉庫に収蔵されている物ではありません。」
神殿でのエメス仕事は、古代より千年以上の時を越えてサイファス神殿に収蔵される、古の文明の遺品を管理研究することだった。
エメスは、明朝神殿を去る自分に、神殿長が最後の仕事を与えているのだと思った。
神殿長の手から黒い平らな石片を受け取ると、古代オルキア文字を仔細に眺めた。
「文字の特徴から判断して、二千七百年前の、サウバスティカ皇帝の時代、太陽神崇拝最盛期、メギナの司祭達が使っていた文字の簡易体ですね。第五倉庫の、一番右端の棚の引き出しが分類場所です。」
最後の仕事が終わった寂しさを噛み締めながら、エメスは黒い石片を神殿長の手に返そうとした。
「いや、それは君の持ち物なのだ、エメス。この神殿に来た十年前、君が唯一身につけていた私物だよ。君にとって、その石片が、いかなる意味を持つのか私は知らない。しかし、その古い詩についてなら、私はよく知っている。専門だからね。その詩は、『滅びのうた』と一括して呼ばれる古文書群の中の一節だ。メギナの司祭、トリメギストスを知っているかね。」
エメスは、こくりと頷いた。
「古代の賢者アリクシャンの弟子で、師である我より『三倍偉大なる者』の称号を与えられた。」
一介の戦災孤児である自分が、そのように大それた古遺物を身につけていたとは、どうしてもエメスには信じられない。
戦のどさくさで、逃げる貴族が放置した荷物の中からでも拾ったのではないか、と思う。
黒い石の欠片は、盗賊にとっては全く価値の無いもので、わざわざ拾う者も奪う者もいない。
全く記憶に無いが、すべすべとした肌触りの黒い石片の感触を、幼かったエメスが気に入ったのだろう。
「そのトリメギストスと、君はどうやら関係があるらしい。」
唐突な神殿長の言葉に、エメスは眉をひそめ、否定した。
「まさか。」
十年前のルクサーナ戦役の際、戦場から逃げ遅れた者は、荷馬車や騎馬などの移動手段を持たない貧しい農民ばかりだ。
貧民のせがれと、古代の大賢者との間に関係などある訳がない。
「きみの背中にはエメス・トリメギストスと刺青がしてあるのだよ。」
「わたしの、背中に・・・・・?」
神殿には鏡の類が一切無い。
他人に裸体をさらすこともしない。
ゆえにエメスは今、この瞬間まで自分の背中に刺青があるこをしらなかった。