5 流星のさだめ・続き
老境に至り、気力は往年のままなれど、すっかり体力の落ちた神殿長は、革表紙に銀の細工を施した、美術品として希少な価値ある写本を、案の定、支えきれずに書架の高みから床へと墜落させてしまった。
ズドッ!
鈍い音がして、重い写本の革表紙の角が床板に突き刺さる。
もうもうと室内に充満する埃に、ヨタナンはゴホゴホとむせる。
とんでもない角度で床板に突き刺さっている写本を発見し、ヨタナンはゲジゲジ眉毛を顰めて非難の眼差しで神殿長を見た。
「何だ。ひとを責めてはいけない。サイファスの教えだ。誰にでも、不手際はある。」
神殿長の台詞に、ヨタナンはやれやれと首を振った。
革表紙から銀細工が外れてしまい、埃だらけの床に転がっている。
美しいそれを指でつまんで、これ以上の災難から避難させてやると、ヨタナンは哀れな古文書を汚れた床から持ち上げ、閲覧台へと移した。
「中身は無事だ。問題ない。」
「それは良かった。」
小さなルーペを取り出しながら、神殿長は「明かりをもっとくれ。」
とヨタナンに催促する。
ヨタナンは壁から燭台を取ってきて、閲覧台の引き出しを開け、ケースから蝋燭のストックを出し、自分の携えてきた油ランプから炎を移した。
ボッと炎が燃え上がる。
「どうして今日はこんなに暗いんだ。」
神殿長は、小さな窓から空を覗き見る。
「おい、同士ヨタナン。空の様子がおかしいぞ。」
ようやく異変に気付いてくれたらしい。
「そのことでご報告にあがったのですよ。」
「何か、君に分かっている事はあるのか。」
「一見雲に見えるあの暗雲は、大変高度が低い宙空に浮いている。つまり自然発生した雲ではないし、煙でもなさそうだ。煙なら、風に散らされて、とっくに消えている。」
「近隣の街や村に異変は。」
「今のところ、報告はありませんな。」
なら騒ぐこともない、という鷹揚な態度で、神殿長は閲覧台の写本の羊皮紙をめくった。
「今宵の宿星の配置については、君が専門家だ。わたしは、古文書の一節にある、たいへん古い預言が気になってね。夕空を見ているうちに、ふと思い出したのだ。」
「預言。どの?」
サイファス神殿に収蔵される古今東西の文書に記録された預言は、一万編ほどある。
あまりにも預言の数が多すぎて、どれがどの出来事に対応するのか、把握する人間は殆どいない。歴代のサイファス神殿長を除いては。
「わたしの記憶に刻まれ得るほどの、美しい詩編だよ。」
ヨタナンは、神殿長の手元を覗き込んだ。
オルキアの古代文字が並ぶ。
非常に装飾的で、複雑な文様にようなその字を、困難なく読めるのも、歴代神殿長に要求される能力だ。
「ごらん、同士よ。これは、二万年前の天文図を解説している。」
今から三千年以上昔のオルキア帝国、古代神政王権期の神官は、過去に遡ること四万年、未来に向かうこと同じく四万年の、計八万年分の天文図を計算し、記載した。
「預言は、天文図を読み解く手助けをする。」
ヨタナンは、神殿長の皺深い手が、走り書きする翻訳文を読んだ。
「暁の魔女と黄昏の魔女が出会うところ。・・・・・岩の姫と、多頭蛇を手に入れた若者が、フェニックスの帝国を復活させる。・・・・意味がわからん。」
「象徴を解読する必要があるな。エメスを呼んでくれ。」
「神殿長。」
ヨタナンは、悲しそうな目で首を振った。
「そうか・・・。そうであったな。あの子は去ってしまったのだ。」
世間知らずな若者を、単身俗世に放り出した神殿長の採決に、ヨタナンは強い不満と不信を抱いている。
神殿長は、拾い子として、このサイファス神殿にやって来たエメスという人間の、生まれ落ちたさだめについて、何かを悟っている。
「見なさい、ヨタナン。暗黒の炎が降っている。」
おもての様子を見ると、漆黒の暗雲は、分裂を繰り返しては切片となって、シエナの地上に黒い闇の炎のように降り注ぐ。
(一体、これは・・・・・・・・。)
天変地異の前触れか。
カルルークの聖地ゼクソーは、今頃パニックになっているだろう。
「他の同士たちは?」
「聖堂で、いつもと同じように過ごしています。祈りを奉げて。」
彼らはおそらく、夜空など見上げていないだろう。
だから、これほどの怪異を知らず、安らかに一日の行を終え、各自寝床についたはずだ。
「騒いだって仕方がない。我らも、寝るとしよう。明日の昼、ここへ来てくれ。」
ヨタナンは肩をすくめた。
初老の神官と、最年長のサイファス神殿の司は、寝床にたどり着くまでに、暗闇の中、塔内の狭い空間を脱出するために、また体力を消耗せねばならない。
「これ以上足腰が弱ったら、この塔へは二度と登れないな。」
「まことに、最もで・・・・・。」
塔の内部に、二人の神官のぼやき声が反響した。