《5 流星のさだめ》
ヨタナンが神殿の天文台で彼の日課である夜空の観察誌を付けていた時。
満天の星空が俄かにかき曇り、輝く満月は濃い墨色の暗雲に覆われた。
暗雲は、水の中に落とされた一滴の黒いインクのように、渦を巻きながら動き、気味の悪い生き物のようだ。
初老の神官は落ち着いた表情で観察を続ける。
暗雲の出現した方角と、風向、風の強さ、変異の進行する様子などを、事細かく筆記する。
星座盤を回して本日の天体図を調べると、夜空の状況と照合させる。
角度や方位を計算する作業にしばし没頭して、ヨタナンは首をかしげた。
暗雲の高度があまりに低いのだ。
せいぜい、このサイファス神殿の祈りの塔の三倍の高度か、ゼクソーの尖塔の一・五倍の高さでしかない宙空に、あの暗雲は渦巻いている。
(あれは、雲ではない。)
観測のための道具類を片付けて、ヨタナンは第三の塔にある天文台を降り、回廊を急ぎ足に
歩いて聖堂へと向かった。
バタン、と少々騒がしい音を立てて聖堂の扉が開かれると、中で祈りを奉げていた十数人の神官たちが一斉にヨタナンを見た。
「何事です、同士ヨタナン。」
ヨタナンと同じほど、この神殿の古株である、四十代半ばの痩身の神官は、穏やかだが厳しい口調でヨタナンに問い質した。
「今朝の祈りをすっぽかし、昼食後の祈りをさぼり、夕べの祈りにも姿を消し、夜の祈りにも現れないと思ったら、いらぬところで乱入か。神に仕えるつもりが無くなったのなら、エメスと一緒にあなたもサイファスの御前から去るべきでしたな。」
「もう、祈りなど奉げている場合ではない。」
聖堂内に居合わせる全ての神官は顔を見合わせた。
「何と言う暴言。」
「許されませぬぞ、最も神聖なこの場所で。」
神官たちは口々にヨタナンを非難する。
「神殿長はどこだ。」
一切の非難を無視してヨタナンは皆に訊いた。
「早く教えろ、どこに居るのだ。」
気の弱い若い神官が、ヨタナンに睨まれて、怯えながら答える。
「こ、古文書蔵に居られます。」
ヨタナンは樽のような体を揺さぶりながらせかせかと歩き、聖堂を出た。
中庭に臨む回廊を突き当たりまで進み、第二の塔の木戸の金輪を引く。
塔の内部には地下と上階へと続く石段があり、ヨタナンは一旦回廊に戻り、象嵌に置かれた常夜灯のランプを持つと、足場を照らしつつ、上階へと登った。
「神殿長さま。いらっしゃいますか。」
石段を登り切ると、塔の内部の二階部分に出る。
本来ならば窓から明るい月光が射し込む時間帯だが、暗雲に隠された闇夜の色に、筆記台も書架も染められて、室内は真っ暗だ。
「神殿長。」
二階から梯子を登ると三階だが、天井に開いた入り口をヨタナンが覗き込むと、更に上の四階部分を歩く絹靴の静かな音がした。
「神殿長。」
「その声は、ヨタナンか。丁度良い。手伝ってくれ給え。」
書架から分厚く巨大な写本を取り出そうとして、七十歳の神殿長は、悪戦苦闘していた。