第1章《1 サイファスの朝》
1 サイファスの朝
苔むした石造門の木戸を開いて神官はそとへ出た。
仕立てられた馬車に乗らず自らの足で外界の地面を踏むのは、実に十年ぶりとなる。
しばしの間、年若い神官はじっと自らの足元を見つめた。
朝靄が冷たい地面の上を這っている。のたうつ白い蛇のように、それは若者の脛のあたりを漂って、気紛れに身を引いていった。
神殿を取り囲む堅牢な石塀に沿う馬車道には、まだ人の姿が無い。
若い神官は朝靄の立ち込めた道のはるか彼方を見やった。
視界の悪いこの道の先にどのような風景が広がっているか、彼には知識がない。
十年以上、この土地に縛りつけられて在りながら、一歩神殿の外に踏み出した場所から見える日常の景色も、隣接する道の続いて行く先も一切を知らないのだ。
「どうしても出て行かねばならないのかね。」
若者は、ぎょっとして振り向いた。
ヨタナンのずんぐりむっくりした姿があった。
およそ神官らしくはない、寒さに焼けた真っ赤な鼻の頭をしたヨタナンの小さな目には、小さな涙が浮かんでいた。
齢五十を超えて白髪だらけになった、こわい髪を掻きながらヨタナンは言った。
「どうにかならんかね。」
若者は薄く笑って答えた。
「どうにもならないでしょう。」
若者の父親がわりの世話役だったヨタナンは、若者の沈着さを解せないようだ。
若者は、敏感にそれを察知している。
(こういう場合、なんと別れの言葉を告げればいいのだろう。)
前途よりこの場の処置の仕方を心配する若者の戸惑いを見て、ヨタナンは笑った。
「まずは、ボーっと歩いて馬車に轢かれないよう、気をつけろよ、エメス。」
神殿に来たとき、幼い子供だったのが、今は見上げる背の高さになっている。
(エメスがわしに運んでくれたものは、時の流れかも知れん。この子が去った後、再び時が止まる。耐え難いことだ。)
亜麻色の髪をした長身の神官と鋼色の髪をしたずんぐりむっくりの神官は、そのまま沈黙して朝靄の彼方を二人で見やった。
今朝一番の荷馬車が近づいてくる音が聴こえる。
「あの荷馬車に乗せてもらうといい。」
「賃馬車じゃないようですよ。」
「ゼクソーの市場へ野菜を届けた帰りの、空荷の馬車だよ。ヘルン方面の農村へ
戻るんだろう。古街道とヘルン街道の分岐点で下ろしてもらいなさい。」
話しているうちにも車輪と蹄鉄の音はどんどん接近して、ついには荷馬車が
朝靄を突いて現れた。
「おぅい、止まっておくれ!」
ヨタナンは短躯を精一杯伸ばして頭上で二の腕を振った。御者が気付いて馬車が止まる。
農夫のような神官に呼び止められて、本物の農夫は御していた馬車を降りた。
「どうしやしたね、神官さん。」一言叫んで歩み寄ってくる。気の良さそうな男だ。
「この子をヘルン街道の入り口まで、連れて行ってやって欲しいのだが、頼めるかね?」
ひょろひょろと背の高いエメスの世間知は、神殿に連れて来られた子供の時のままで止まっている。
そのような者が単身俗世界を放浪すればどうなるか、旅立つ本人も自覚し、俗世に通暁したヨタナンも理解している。
一年後、エメスは生きていないかも知れない。口には出さぬ了解事を互いに秘めたまま、別離の瞬間が訪れる。
「さようなら。ヨタナン。お世話になりました。」
エメスは神官らしからぬ、ゴツゴツしたヨタナンの手を取った。
「早く乗りなさい。待たせては迷惑だから。」
「はい。」
「さ、早く。」
ヨタナンはエメスに握られた手をそっと外した。
若者は踵を返して馬車へ向かった。
農夫が手を貸して御者台へと若者を引き上げる。軽く鞭をくれて馬車は動き出した。
エメスはもう、振り返らない。ひとたび動き出した馬車は驚くべき速やかさで神殿から遠ざかる。
「あんた、シエナ語は通じるんだろうね?どう見ても、ルクサーナ人だけど。」
少し不安そうに農夫が言った。
「話せます。聞き取るのは、あまり上手ではないけれど。」
「はは、おらと同じだな。おらも、丘を二つ越えたら、もう他所の村の輩が言うことなんざ、聞き取れねぇ。でも、何とかなるもんさ。おらぁ、へーコって名だ。神官さんは?」
「エメスです。よろしく、へーコ。」
「おらの家は、ゼクソーの市街にある、カルルーク神殿の信者なんだ。信者になると、市場への出入りが認められるんだ。儲かっていいよ。商売繁盛の神様さ。あんたさんのところは、何の神様なんだい、神官さん。」
「空っぽの箱の神様です。この馬車の荷台のような。」
エメスは真摯に答えたのだが、冗談だと思われたらしい。農夫は大笑いした。
「空っぽの神様じゃあ、退屈だ。暇乞いをして清々しなすったでしょう?」
「はぁ、いえ、まぁ、・・・どうなんでしょう。自分でもわからない。言われてみれば清々したけれど、とてつもなく淋しい気分です。この神官服の中身が虚ろになってしまった。」
突然に神殿からの追放が決まって、俗世の衣服を用意する暇がなかった。
神官服に外套をまとった格好で、着のみ着のままの旅立ちである。
その点を懸念したエメスは、気の良い農夫に、神官のいでたちで問題はないかと尋ねてみた。
「ヘルン街道を東へ行くなら、神官姿は上手くないよ。神官の衣装は生地と仕立てが良いから、追いはぎどもに目ぇ付けられる。」
外界に出たばかりの若者は、とたんに不安になった。
世界のすべてが、危険に満ち満ちたものなのだと思い込みたくなる。
けれども、エメスは良き助言者の言葉を思い起こした。
(俗世界で、われわれ神官がもっとも気をつけねばならぬ事は、「こうあるべき」という思い込みだよ。
俗世には、あるべき姿など無いのだから。とにかく、絶対こうに違いないという錯誤に陥らぬように、
常に柔軟、沈着な態度を心がけなさい。)
エメスはまず、旅の心配事を取り除くことにした。
「どこへ行けば、普通の人々が着る衣服を手にできるでしょうか。」
「え?旅装束かい?うーん、そうさな、」農夫はニヤリと笑った。「おらの家へ来るがいい。」