交渉手段を増やしたい
第三話です。主人公は早速、女の子と知り合います。
別の世界の料理は、前の世界とそう変わったものでもなくて、普通に美味しかった。
……なんか、世界、って単語を使うのこっ恥ずかしいな。この異世界には、何か固有の名前はないのかな。……なーんて、他人に訊いてもわかるはずもないだろうな。僕だって、もともといた世界の固有名詞なんて知りやしなかった。邪神様に訊いたらわかるのかもしれないけど、その手段もない。いや、でももうこの疑問の察知自体はしているのかもしれない。けど、それを僕に伝える方法は、無いだろう。何せお金がないんだからさ。当分、異世界とか別世界とかクウガの世界とか剣と魔法の世界とかおとぎ話の世界とかゲームの中の世界とかって呼ばないといけないわけだ。すげ、たくさんレパートリーが増えたぞ。但し、この中に一つ、不適当なものを含むとする。
適当に安い服と靴を見繕う。密造金貨で飯を食べたおつりだ。既に捕まる気兼ねなく使えるお金じゃあるけど、いつお金を手に入れられるかわからない以上、節約はしないといけないな。
近場に宿を見つけて、すぐに部屋を借りる。しかし、宿代は不安だったけど、何とかなるものだと思った。金貨というのはかなりの高い価値を持った代物らしい。当たり前だけど。しかし、日本における最高単位の一万円とは、比べ物にならないな……お年玉でも貰った気分だ。意味が解らない比喩だと思ったでしょ? 大丈夫、僕もそう思ってるから。最近、脊髄で話してるからさ、僕。自分の意思なんて関係ないんだよ、直前に言ったことを覚えるのももままならない。いや、別に認知症じゃないよ、やだなあ……。
ひとまず十日ほど宿泊する予約をしてから、これまた先程買った麻袋に銅貨や銀貨のおつりを仕舞って鞄(しつこいけど、これも買った)の中に突っ込んでいると、
「見ない顔だね。冒険者?」
と、カウンターに座る店番のお姉さんがフレンドリーに話しかけてくる。美人だな、と端的に感じた。僕よりは年上だ。と言っても、一つ二つくらいだろう――姉ちゃんと同い年、かな。そんな感じ。長い茶髪を後ろに括って、エプロンを着用したその美人は、僕に微笑みかける。その眩しさに、僕なんてもうたじたじだ。あと、あれが大きいからどうしてもそっちに目が行ってしまう。仕方がないさ、男の子だし。
この宿屋でもだが、服や、靴屋など、一瞬でも言葉を交わした人の話す言語は、みな同じ。この異世界では、日本語が公用語みたいだった。……なんてことがあるわけがない。少なくとも、目の前にいる人はとても日本語を話せるようななりをしてはいない。……言語能力が皆無のように思える。とか、そういう話をしてるんじゃないよ、つまり、目の前にいる人はどこからどう見ても日本人じゃないって話。そうだな、ゲルマン系? いや、ほんとよくわかんないけどさ。ゲルマン系民族が日本語を話せるはずがないって話でもないんだよ。……そう、むしろ、僕はもちろん日本語しか話せない。英語を習っちゃいるけど、まるで分らないし。まあ、それは単純に日本の高等教育の限界ってことなんだろうけど。何が言いたいかって言うと、僕は今日本語を話していないってことだ。何を言っているのかわからないかもしれないが、どうやら、そういう風になっているらしい。僕が日本語を話そうとすれば僕の口からは異世界の言葉が発せられるし、また、この世界の言葉も、何故だかわかる。そういうことらしかった。
但し、識字能力は、無いに等しい。まるでどういう意味なのか分からない。この店の看板だって何という意味で、どういう発音をするのかわからない。今までに見た文字は、全てそうだった。アルファベットに似ちゃあいるけど……。それでも、数字だけはなんとかわかるけどさ。
「宿屋に来る人って、大抵見ない顔なんじゃないんですか」
僕がそうぽつりと呟くと、お姉さんは「わはははは!」と豪快に笑って、
「そうかもね。でも、うちは結構常連客が多いのさ」
と言った。
……ああ、なんだかこの女の笑い方、姉ちゃんを髣髴とさせるな――なんて、元の世界のことを思い出す。あんな感じで弟に笑いかけてた気がする。
姉ちゃんは、若干男勝りな性格で、髪型も今目の前に立っているお姉さんと似ていて、共通点があると言えばたくさんあった。……現実世界のことは、どうしても想起されるものだ。姉ちゃんは、僕が死んだとき、確かに泣いていた。悲しくなんて、きっとなかったはずなのに。でも、その姿に僕は申し訳なく感じてしまった。例え嘘の涙なのだとしても、今現在、きっと、僕の事なんて忘れてしまっているのだとしても。僕は、現実世界を心の中では捨てずにいようと思った。
なんて、そんなことないけど。
「顔から判断するに、東方から来たんだろ?」
現実に引き戻される。今の、僕にとっての現実世界に。
お姉さんは目を輝かせて、興味津々な顔をしている。
「ええ、日本から来たんです」とは、言わずに。
「はい、そんな感じです」
そう僕は若干お茶を濁しつつも、肯定した。……ま、これが普通だよね。
「名前、書きなよ」
お姉さんが契約書の下線がひかれた欄を指さして、そう言う。フレンドリーと高圧的って紙一重だよね。
「……はあ」
やっべ、僕今読み書きできないんだった。
「……えーっと、マツベオワリ、です」
「……? 書かないの?」
「書いてください」
漢字が存在する文化じゃないのだ、音だけで十分だろう。
「仕方がないな」
お姉さんは文句を言いながらも僕の言うとおりにしてくれた。ここで怒ったりする姉のような人じゃなくて本当によかったと思った。
「マ・ツ・ベ・オ・ワ・リ、ねえ。なんだか珍しい名前だね」
お姉さんは、楽しそうにペンを動かし、書き終ると、契約書を仕舞った。
「よく言われます」
「書けないんだろ。……ひょっとすると、読めもしない、でしょ」
「まあはい」
「まあ、珍しい事じゃないよねー」
このお姉さんはとても勘が鋭いらしい。いやまあ、誰だって今の僕の様子みりゃあわかるのかもしんないけどさあ。若干意地悪そうに嗤うので、僕も愛想笑いをしようかと思ったけど、やめておいた。僕が無理に作る笑顔は、不気味だからだ。それを僕は、よく知っている。笑顔が爽やかな人間に生まれたかったと、常々思う。
「私は、リタっていうんだ」
「……そうですか」
別に知らなくても良かったんだけど。何で教えたんだろ。
「……、……、……、あんたは、正直な奴みたいだね。それもいいけど、この町には血気盛んな奴がたくさんいるから、気を付けなよ」
心なしか、目の前のお姉さんの顔が引き攣っている気がした。どうしてだろう。まさか、怒っているのだろうか。まあいいけど。
「良ければ、十日間の間で暇なときに、読み書き教えてあげよっか。私、あんたが気に入ったし。名前知ってた方が便利でしょ?」
気に入ったって、あなたが僕の何をわかったというのか。
「……よろしくお願いします、ありがたいです」
僕は即答とは言わないまでも、そこまで間を開けずに返事をしたつもりだった。実のところ、どうしようか少し悩んでもいた。なんだか人が良い――良すぎる気がしたので、僕はこの人のことを、あまり嫌いじゃないけど信用はしないようにしようと、内心決意した。
でも確かに、読み書きは多少覚えとくべきかもね。