脇役達の慟哭
眩い閃光が影をも喰らい。
轟く爆風が世界を震わせ。
紅蓮の業火が大地を走る。
圧倒的な破壊に、兵者共が命を散らす。彼らが残す最期の断末魔でさえ、爆音の中で掻き消されていく。
命の価値が零落した荒野にて、ハルシャフル王国の王宮騎士、エルバ・フランドルは、戦場に背を向けて走っていた。国への忠誠心や、平民出身の己を嗤う貴族出身の同僚達への対抗心はとうに消え失せてしまった。
君主より賜った剣さえ投げ捨て、情けない声を上げながら。彼はここではないどこかへと走る。
彼の頭を占めるのは、生き残るという原始的な願い、ただひとつのみ。
勿論、それは彼に限った話ではない。既に大半の兵士達は圧倒的な力の前に、己が役割を放棄して逃げ始めている。
次の一瞬には跡形もなく消え失せかねない戦場で、今もなお戦い続けている者は、既に心が壊れた者か、生来の戦闘狂だろう。
――瞬間。何度目かの閃光が世界を白く染める。
次いで巻き起こる爆風に吹き飛ばされながらも、なんとか倒れずに走り続ける。
そして彼は走りながらも、恐怖に駆り立てられながらも。首だけを回し、上空を仰ぎ見る。
目視も困難な高みにて、この地獄を作り上げる二つの影を。
歴史に名を残すであろう英雄を。
片や金髪隻眼、豪快に髭を生やした筋骨隆々の偉丈夫。レヴィネント帝国の青い伝統衣装の上に最低限の鎧を装備し、放射状に広がる炎の翼を背負っている。
――彼の者が振るうは太陽の写見、蒼銀の槍。
複雑な文様が刻まれたそれは、一振りであたり一面を爆炎で包み、大地に巨大な深淵を刻みつける。
片や過剰なまでに刺々しい鎧を纏った黒の騎士。ハルシャフル王国の最高位騎士の証である色号『黒』を最年少で賜った天才。
――彼の者が振るうは死の具現、漆黒の剣。
影そのものを圧縮したようなそれは、千変万化に姿を変え、命を刈り取る棘を生みだす。
見たところ両者の力量は互角……いや、僅かに槍兵に軍配が上がるか。黒騎士が放つ無数の棘は、すべて槍の一振で燃やし尽くされている。
とは言え、常に撒き散らされる死の棘はまるで尽きる様子も無く、圧倒的物量に槍兵も攻めあぐねているようだった。
刹那の静寂の後、再び二つの影が重なり、地表を爆風が陵辱する。
今度こそ完全に体勢を崩され、まるで埃のように地面を転がる。口の中に血の味が広がり、心臓が早鐘を打つ。まるで、死神の足音がすぐ側まで聞こえてくるような恐怖に襲われる。
――いっそここで諦めて、敵の炎に抱かれるのもいいかもしれない。
そんな考えが脳裏をよぎる。
騎士としての誇りも、築き上げた僅かな名誉も、幼少からの夢でさえ、既にこの身から抜け落ちた。
こんな空っぽのまま生きのびたとして、もはやそこに光はない。
きっとあの英雄は、一瞬でこの苦しみから救い出してくれるのだろう。
なおも響き続ける爆音を遠くに感じながら、ゆっくりと目を閉じる。
地面の感触が失われ、焦げた空気の匂いも感じなくなり……
しかし、それでも閉じた瞳の裏には鮮やかな記憶が浮かび上がる。
生まれ育った故郷の風景。
夢を与えてくれた英雄譚。
王都へ発つ自分を、最後まで見送ってくれた両親の姿。
そして――
『あなたならきっと大丈夫。だけど無理しちゃダメよ? 私の勇者さま』
『ちゃんと迎えに来てね。私、ずっと待ってるから』
――ありきたりで、それでいて幸せな約束を交わした幼馴染みの泣きそうな笑顔。
身体の内に炎が灯る。確かな熱を持って、ここで終わる訳にはいかないと全身を駆け巡る。
――そうだ。まだ、やるべき事が残っている。果たすべき約束が待っている。
自分の帰りを、待ってくれている人がいる!
故に、エルバ・フランドルは立ち上がる。覚束なくも、確かな一歩を踏みしめる。あの日の約束を果たすため、あくまで生き残る道を探し続ける。
もはや鎧は留め具も壊れ、使い物にならない。ただの重りと化したそれを乱暴に剥ぎ取って、少しでも体を軽くする。
額から流れる血が片目を塞ぎ、既に片足の感覚は薄れつつあった。口元からは血の混じった涎が流れているが、そんなことは気にしていられない。
走ることは既に叶わず、よろよろと歩き出すことが限界だった。
それこそ全身を引きずるように、一歩、二歩。三歩進んだ所で、目の前に轟音と共に終止符が飛来する。
小さなクレーターを作り出し、砂煙を巻き上げるそれは、闇夜から抽出したような黒の鎧。この戦場の主役の片割れ。同国に属する黒騎士だった。
彼の象徴でもある黒の鎧は所々にひびが入り、よく見れば隙間から赤い液体が流れている。
立ち上がることも儘ならないのか、先程まで猛威を振るっていた影の剣を杖のように地面に刺し、片膝立ちのまま大きく肩を上下させている。
そのまま、目の前の存在に見向きもしないで、黒騎士は上空を見上げた。甲冑越しではあるが、その目には明らかな憎悪、そして微かな恐怖が見て取れた。
黒騎士に釣られてエルバも天を仰ぎ見る。太陽の輝きで今は輪郭しか測ることができないが、王国内でも破格の実力を誇る黒騎士を墜す存在など、一つしか考えられない。
日輪を背に、こちらを――いや、黒騎士を見下ろす隻眼の槍兵。腹部を影の棘に貫かれながらも、その顔には獰猛な笑みが浮かんでいる。
掲げられた蒼銀の槍が輝きを増し、その穂先を中心にして複雑な魔法陣が展開されていく。
それはまるで神話の、あるいは幼い頃に憧れた英雄譚のような光景。
神々しいまでの光景に、もはや言葉も出ず、ただただ立ち尽くすばかり。
そして、空を覆う魔法陣は吸い込まれるように槍へと凝縮されていく。
一瞬の煌めきの後に現れたのは、煌々と輝く光の帯を纏った槍。その輝きも大きさも、先程までとは比べ物にならないものになっていた。
その輝きの前では、エルバの内でようやく灯った光でさえ霞むように思えてしまう。
絶対的な差に、それこそ神に祈るように膝から崩れ落ちた瞬間。背後から大きな黒い影が飛び出した。
それは先程まで膝をついていたもうひとりの主人公。その姿は巨大な猛禽類のようにも、また、天に刃向かう悪魔のようにも見えた。
黒い影で構成された翼を纏い、黒騎士は一直線に槍兵へと飛翔する。
この戦いの雌雄を決する一撃が迫ろうとしている中、エルバ・フランドルは何も出来ない。何をすることも許されない。
――それはきっと、この物語における彼の役割が彼らとは違っていたから。主人公に成れなかった、哀れな脇役止まりであったから。
槍から放たれた光の奔流は、いとも容易く黒騎士を飲み込み、そのまま此方へと迫りくる。
確実に訪れる死の直前。時が止まったような感覚の中。彼の心中に到来したのは憂いでも悲しみでもなく、身を焼くような激しい怒りだった。
二人の主人公に対する、それこそ腹の底を焦がす、黒い焔のような怒り。
そう、味方である黒騎士も、さらには次の瞬間、自分を殺す槍兵でさえ。
――一度たりとも、その瞳に彼を映していなかった。
それが、途轍もなく悔しい。自分は勿論、自身を作り上げたもの。その全てを否定するような、この物語の主役が憎い。
故に脇役は叫ぶ。
己が存在を知らしめるため。
この物語に自らを刻みつけるため。
二人の英雄の記憶に、ほんの僅かでも、自らの生を刻みつけるために!
「████████ッ!!」
……その声はきっと、彼女に聞かせられないくらい、情けない声だったのだろう。
その顔はきっと、彼女に見せられないくらい、涙で歪んでいたのだろう。
――しかし、そんな慟哭でさえも、全てを飲み込む光の中に溶けていった。