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ゴブリン伯爵の片手が、軽く挙がる。
兵隊は、各々が持参したであろう武器を、サッと構えた。
但し、ゴブリン達のほとんどは武器らしい武器を持っては居ない。
偶に、錆びた斧や、刃こぼれの目立つ剣を持つ者も居るが、それは、本来生きていく為に使う道具だ。
他の者はといえば、その辺の森から、無理やり切り出し、形を整えただけの棍棒や、包丁を先に括り付けた槍に似せた道具でしかない。
何故、武器を持たないかと言えば、それが必要無いからだ。
一定の範囲を、縄張りとし、必要以上、生活圏を悪戯に広げる様な真似を、彼らはする事が無い。
事実、過去に、【墜ちた英雄】皇帝が人の身にて侵攻した際にも、地域地域の様々な種族と戦いはすれども、それらは一定の範囲でしか、同種は見られず、離れればまた違う種族と出逢うというのが当たり前だった。
それでも、ゴブリン達は血気盛んに目の前の軍勢を見詰めていた。
彼等は、本質的には人よりも強く、些か知性に欠けるとしても、それを補って余りある力を持っている。
弓すら使う必要が無く、それよりも、走って相手を、狩りの獲物を追い詰めた方が早かった。
後ろには、彼等の住まう地域が有り、其処には、家族が息を潜めて夫や兄弟、一家の男手の帰りを待ちわびてくれている。
既に、ゴブリン達に退路は無く、彼等が下がれば、それは、そっくりそのまま、一方的な虐殺と支配を意味していた。
人間並みに知性を持てるゴブリンは、老齢な者が多く、此処に来ている伯爵もその一人であった。
だが、難しい支持は特に無く、戦略と呼べるモノも、一つしかない。
即ち、【全軍突撃】
上げた腕を、伯爵が勢い良く振り下ろすのを合図に、ゴブリン達は、一斉に前へと向かった。
地響き立てて、数千単位のゴブリンが、雄叫び上げながら向かって来る。
対する人間の軍勢など、実は千人ほどしか居らず、その数は、ゴブリンの半分と言う所であった。
未だに、指示を飛ばさない貴族に、人間の兵隊は焦った。
なにせ、何を思ったのか、急に領地の人間を徴兵した上、素性どころか、見た目にも怪しい二人組の男女に、先頭を預けている。
先頭に近くに居る兵隊も、元は農民がほとんどであり、出所不明の金に因って、装備こそ整いはすれども、如何せん、心構えが足りてはいなかった。
だが、背中に携えた長剣を引き抜きと、それを片手に、少年は一騎にて前へ出る。
身勝手な行動に、大半の兵士達はため息を漏らしていた。
あの若さ故の蛮勇なのか、それとも、本当にただの馬鹿なのかと。
同じ様に軍勢の先頭に陣取っている少女は、未だに動こうとはせず、背中の大槌鎚を、同じ様に構えはすれども、ニヤニヤ笑うばかりで一向に動こうとはしない。
後方の人間達が、とっとと逃げようかどうかの相談を始める中、先頭の方から、割れんばかりの歓声が響き、思わず、後方に居た者は、その身を震わせた。
ゴブリン伯爵もまた、我が眼を疑う。
人間を超える視力の持ち主の彼だが、その眼に映るのは、片手の幅広い長剣を、まるで小枝か何かの様に軽々と振り回して戦う少年の姿である。
ゴブリンの軍勢と、たった一騎がぶつかる。
それは、そのまま、その単独の間抜けが死ぬことだと、伯爵は悩んでいた。
だが、事実は違う。
長剣が振られる度、ゴブリンの上半身や腕が飛び、鮮血を雨の様に散らした。
左右に剣を振り回し、少年が駆る馬は、ただ前へ前へと進む。それだけで、ゴブリンの軍勢を二つに分けんばかりだが、突撃を諦めた軍勢は、その異様な一騎を取り囲もうと、陣を崩した。
「おぬしらは後で来い!」
そんな言葉を残し、今度は、少女が駆る馬が前へ出た。
其処で、ワイワイと人間の軍勢は声を上げながら、自分達の本来の領主に、【自分も戦わせろ】と喚き立てた。
だが、本来この貴族は乗り気では無かった。
目の前に現れた少年少女の言葉に、まるで悪女に騙されたかの如く、何故か誘導されるままに、今に至ってしまっている。
それだけでも、何が何やらなのに、目の前でくり広がる光景は、言葉を絶するモノが在った。
本来、子供の重さ程に麦を詰めた袋を運び、それを積むという作業だけでも、人は汗をかきながら、必死に行わなければ成らず、寧ろ、それが当たり前である。
それ故に、貴族の目に映る光景は、頼もしいどころか、不気味でしかない。
加えて、目の前で戦うと言うよりも、蟻を踏み潰して喜ぶ子供の様な二人組に当てられたのか、ワァワァと喚き立てる領民達。
【異常である】
そう、貴族が思った時には、兵隊達は、貴族の指示など受けずとも、我先にと戦場へ飛び出して行ってしまった。
【全軍を、今すぐ撤退させるべし】
そう、ゴブリン伯爵は想うが、逆に【では、何処へ?】という疑問が頭を駆け巡る。
戦わねば成らないにしても、これでは余りに酷いと、伯爵は頭を悩ませていた。
煮え切らない伯爵をよそに、バタバタとゴブリン達は倒れていく。
端の方で、戦いを見守る者は、不気味な変化に気づいてもいた。
本来、余り攻撃的でない筈の自分達だが、妙に心が躍るのだ。
【たたかえ、たたかえ、たたかえ】と。
それ故にか、前線では、未だに死の恐れを忘れたかの如く、自分達の同族が少年少女の武器に掛かり、斬られ、叩き潰され、躯を晒している。
手の棍棒をギュッと握り締めながら、ゴブリンの一人は、必死に家族の事を考え、己を保っていた。
その時である。
後方から、ワァワァと喚き立てる人間の兵士達が、まるで津波の如く、押し寄せていた。
形勢自体は、幾ら二人の少年少女が強かろうと、数に問題が在る。
一度に戦えるのは、精々が二、三という数でしかない。
だが、一カ所に気を遣っていた事は、ゴブリン達には裏目に出てしまった。
一気に奇襲を掛けられたゴブリン達は、その場で数百が死に、踵を返した残りの者も、急ぎ反撃に出る。
戦闘で在れば、人など恐るに足らずと、ゴブリンは飛びかかるが、長い槍を使う人間は、それを平然と中空にて突き刺していた。
もはや此までと、ゴブリン伯爵は、伝令を後方へと飛ばす。
土地に居る者達へ、逃げる事を促す為に。
戦況はおぞましいモノへと変化している。
疲れ知らずの化け物二人組はともかく、他の人間もまた、異様に高ぶり戦う。
死んだ者が現れても、地べたに倒れ伏す味方の死骸を踏みつけてまで、人間は前へ前へと進んでくるのだ。
後方へ飛ばした伝令が、残る家族達へ一目散に逃げる事を伝える事を祈りながら、ゴブリン伯爵もまた、魔王から賜った剣を、腰から引き抜き、魔獣へ向かい、走れと腹を強く蹴った。
己が率いた家族達を、時間稼ぎに使うことを、ゴブリン伯爵は心の内で詫びる。
だが、このままの勢いで土地へと侵攻されたならば、どれほどの悲劇かを想えば、其れもやむなしと、彼は諦めていた。
駆ける魔獣の上で、ゴブリン伯爵は見ていた。
自分と同じ様に、此方へと駆けてくる少年の操る馬。
両者は、互いに剣を構えながら、相手に向かって乗る動物を駆けさせる。
少年と伯爵が交差した瞬間、ゴブリン伯爵は見ていた。
宙に浮いたのかの如く、周りは妙にゆっくりと時間が流れ、辺りを見渡せる。
バタバタと死んでいく同族を、伯爵は悲しげに見ていた。
首を失ったゴブリン伯爵の胴体は、力無く魔獣の背中からずり落ち、地べたを転がる。
主人の死を知った魔獣だが、急ぎ脚を止めた所へ、少女の持つ巨大な戦鎚が、勢いよく振り下ろされた。
長たる伯爵が死んだ時、ゴブリン達は、一斉に我に帰った。
【何故こんな所へいるのか? 何故戦わねばならないのか?】
伯爵が死んだ瞬間から、ゴブリン達は、我先にと逃げを始めた。
先ほど、家族を想っていたゴブリンは、ようやくかと逃げ出す。
寧ろ、遅すぎたと、彼は悔いていた。
だが、走り様に、何者かの槍か剣かは知らないが、何かに脚を傷付けられ、その場へと転げ回る。
その時、周りでは同じ様に殺された死体が散乱しており、彼は、死んだ仲間に詫びつつ、死に物狂いでその死骸の下へと隠れた。
戦は戦でなくなり、戦いという体すら為しては居らず、今や、ただの虐殺へと変貌していた。
逃げようとするゴブリンの背中に、矢が飛び、剣や槍が突き出され、人間側の兵隊達は、殺しに酔った。
他者が積み上げた全てを、その手で横からぶち壊すと言うのは、何物にも代え難い快感を産む。
女を抱くよりも、余程楽しく、恍惚とすらなる。
悲鳴を上げて倒れ伏すゴブリンへ、強姦せんと、男根突き刺すかの如く、槍をゴブリンの体へ突き立てれば、末期の断末魔が耳を喜ばせる。
皆が皆、夫や兄、そんな立場など忘れて、戦場の狂喜に駆られていた。
今や、独り遠くへ残された貴族は、頭を悩ませていた。
本来の目的はなんだったのか、領地を広げる為と言われれば、それはそうだろう。
醜い化け物、ゴブリンを殺し、人間の土地を広げれば、民が潤う。
事実、今後は、彼の領地は発展するかも知れない。
だが、未だに戦い続ける者達を見て、貴族は悩んでいた。
青いはずの草原は、今や赤く染まり、貴族に対して、自分が何をしたかったのかを、迷わせていた。
戦は終わった。
ようやく、正気に戻った人間の中には、頭を抱えて嘆く者や、死んだ友人を揺する者、死んだ筈のゴブリンに、ひたすら折れた槍の柄で、殴り続ける者もいた。
呻きながら手を挙げる者を、必死に引きずる者も居たが、それでも片手や片足が無い者も、珍しくはない。
高らかに、血染めの武器を掲げながら、勝ち鬨を上げる少年と少女。
勿論、生き残りの人間達の中には、同じく勝ち鬨を上げる者も居るのだが、本来の数とは、既に半数程に陥っていた。
仲間の死骸が、巧みに目隠しとなり、ゴブリンの独りは、必死に息を殺しては、辺りを伺う。
時折、呻く仲間に、残党狩りなのか、槍が深々と突き刺されても、彼は、必死に黙って耐えていた。
どれだけ間、血生臭さと死臭に耐えたのか、ゴブリンの優れた鼻が、すっかり麻痺するほどである。
やっとの事で、辺りからは人間の気配が居なくなっていた。
ソッと頭だけを上げながら、必死に周りを見渡すゴブリン。
辺り一面、飛び散った血に塗れ、腕や足が散らばり、内蔵すら平然とぶちまけられており、大腸を破られた者の其処からは、酷い臭いが立ち込めてすらいる。
名前も知らない同胞の躯が自分を助けてくれた。
僅かとはいえ、感謝の念を同胞の死体へ贈り、ゴブリンは必死に立ち上がると、息を殺し、辺りを伺いながらに、森を目指した。
立ち去るゴブリンの後ろには、彼の同胞と共に、人間の兵士達が無数に転がっている。
その誰もが、うつぶせで在ろうと、仰向けで在ろうと、目を開けたまま死んだ者は、虚ろな瞳で、ぼんやりと在らぬ方を向いていた。