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私の父は、優しく真面目な人だった。
幼い頃の私の記憶にはそんな父の姿が少しだけ残っている。
父が変わってしまったのはいつの頃からだったか、もう思い出せない。
長年勤めた会社が倒産してしまって、いろんな仕事を転々とし、母も働くようになって、両親は二人で必死に私を育ててくれた。
だけど、いろんなものを切り詰める生活の中で、父はまるで別人のように変わってしまった。
私が知らないところで、きっといろんな苦労をしていたんだと思う。
仕事や生活のストレスからお酒や煙草、ギャンブルにまで手を出すようになってしまったのだった。
もちろん、それに払えるだけのお金の余裕はなく、父は借金までしていたらしい。母にも内緒で、父はどんどん深みに嵌っていってしまった。
そうしている内に、私や母に乱暴な言葉を投げたり、暴力を振るうようになった。
どうして父がこんなことをするのかわからなくて、痛くて悲しくて、あの頃の私はいつも泣いていたのを覚えている。
当時、父のことはもう怖い人としか思えなくなっていて、家に帰るといつ怒鳴られるんだろう、いつ殴られるんだろう、とずっと怯えて過ごしていた。
でも、母はいくら殴られても父を見捨てることはなかった。怒ったり嘆いたりしないで、いつも私に笑顔を向けてくれていたし、私はそれで安心できた。
そんな母が父との離婚を決めたのは、私が父に殴られて大怪我をした後のことだった。確か、小学5年生とか、それくらいの頃だったと思う。
殴られて、何度も蹴られて、血が出たり、吐いたり、骨が折れたり。
とにかく酷い怪我をして、母がパートから帰ってくるまで放置されていたみたい。
その辺りの記憶があやふやだけど、帰って来た母が慌てて救急車を呼んでくれて、私の怪我を診た医師の人が児童相談所に通報したらしかった。
詳しいことは聞かされていないけど、両親の離婚が成立してから中学の入学に合わせて引っ越しをして、私は母と2人暮らしになったのだった。
しばらくは母と穏やかな暮らしが続いた。辛いことも悲しいこともなくて、私が寂しがらないように母はいつも笑顔でいてくれから、幸せだった。
でも、いつも笑顔で気丈な母も、疲れていたんだろう。
高校に入学してしばらくした頃、母は倒れてしまった。
過労と精神的なものらしかった。
それだけ母に苦労をかけていたんだと思うと、私がもっとしっかりしていれば、と考えてしまう。
母はパートを掛け持ちしながら少しずつ貯金もしていてくれたらしいから、1人での生活にあまり不自由はしていないのもありがたかった。
母が退院するまでは1人でも大丈夫。そう思っていた。
高校2年生の春だった、父が家を訪ねてきたのは。
どうやって新しい住所を調べたのかわからない。親権は母に渡っていたし、弁護士さんから父と私が会うことは禁止されていると聞いていたから、父の姿が目の前にあることが信じられなかった。
父は、変わっていなかった。
お酒も煙草もギャンブルも続けていたし、家に入り浸ってまた私に暴力を振るうようになった。
しかも、お金を貸せとまで言ってきたのだ。私が断ると、入院している母のところに行くなんて言われてしまって、お金を貸してしまったのがいけなかった。
それ以来、何度もお金を貸せと言われるようになってしまったのだけれど、父が母のところに行ってしまうよりはずっといいと思えた。
母はこれまで頑張った分、今は休んでいるんだから。これ以上、苦しませたくない。
母が穏やかに過ごせるなら、ちょっと生活費が少なくなるくらい平気だ。
傷だって、時間が経てばいつかは治るんだから。
痛い。
……痛い。
痛いし、熱い。
もうそれしか考えられないけれど、どうにか足を動かして前に進む。
すっかり暗くなってしまった夜道には、人の姿はない。よかった、とホッとしながらいつもの公園に向かった。
運よく誰とも会わないまま辿り着いて、いつものベンチに腰を下ろす。歩いただけなのに、長距離走の後みたいに息が上がって、汗が出てきた。
こんな日に限って、梅雨みたいにじめじめした空気が漂っている。
ベタベタして嫌だな、シャワー浴びたい。
ため息をつこうとして深く息を吸ったら、脇腹がズキッと痛んで身体が強張った。
小さな針をたくさん刺されているみたいに痛くて、そこにもう1個心臓ができたみたいにドクドクしている。肩とか腕もじんじんしてビリビリするような痛みがあった。
内出血しているかもしれない、痕が残らないといいな。
お酒を飲んできた父はいつものように家でご飯を食べて、何か気に入らないことがあったのか私を殴ったり蹴ったりして、満足したのかお風呂に入った。
お風呂を出てからまた殴られるのが嫌だったから、その隙にと外に逃げてきたんだけど、本当なら家で寝ていたい。
お酒を飲んでいたから、たぶんしばらくしたら寝てくれるはずだし、それまではここで時間を潰そう。明日の予習はできなさそうだけど、仕方ない。先生に当てられてわからなかったら潔く怒られることにする。
ベンチに横になりたいな、とは思ったけど、さすがに抵抗があったので背もたれに寄りかかって空を見上げた。
月が出ているみたいだけど、雲があってあまり見えない。
そういえば、トラ君を見た日は満月だったなぁ。
公園は住宅地の中にあるから、繁華街みたいに明るくないので月がよく見えるし、星も少しだけど見える。母が入院してから寂しい時の私の癒しだ。
「……ん?」
温い風が吹いて、私は空を見上げていた顔を正面に向けた。キョロキョロと公園を見回してみる。
耳に入って来たのは、風で木々が揺れる音に混じる、微かな声。
獣の、唸り声のような。
「トラ君……?」
思わず腰を上げて、脇腹の痛みでベンチに座り直す。
痛みを我慢しながら、もう一度ゆっくり立ち上がって、森へ向かった。声は森の奥から聞こえてきている。
片手で脇腹を押さえて、片手を木につきながら進んだ。薄暗い森の中に、トラ君の姿は見つけられない。
唸り声は、もう聞こえなくなっていた。
気のせいだったのかな……またあの綺麗な瞳を見られるかなって期待したけど。
私は木に手をついたまま、その場に座り込んだ。深く息を吐くと、また脇腹が痛む。
早く痛みが引いてくれないかな、と思いながらお腹を抱えるようにして背中を丸めた。
目をきつく閉じる。頭の中で何度も、早く治れって唱え続けた。それで痛みがなくなるわけじゃないのはわかっていたけど、何もしないよりはマシに思えて、ひたすら繰り返す。
その時、草を踏む音が耳に入って顔を上げた。
目の前には、大きな影。
薄暗くてはっきりとは見えないけど、以前にも見た宝石のような大きな瞳が、微かな明かりを反射して光っていた。
「……トラ君だ」
そう呟いてそっと手を伸ばしたけれど、痛みが走ってまた身体を丸める。
すると、トラ君が私の頭に鼻先を摺り寄せてきた。驚いて顔を上げると、悲しそうな瞳が私を見下ろしている。
心配、してくれてるのかな。
傷に障らないようにそっと手を伸ばしてトラ君を撫でると、艶々の毛の流れるような手触りが伝わってくる。
「散歩? 月山君は、一緒じゃないの?」
言葉がわかるわけないと思ったけど、どうしてかそう話しかけていた。トラ君は低く唸って目を逸らす。
それがなんだかかわいく思えて、私は思わず笑った。
トラ君はキョトンとしてるみたいに私を見つめて、不意に顔を近づけてくる。
怖くはなかったから、じっとしていた。
なんだろうと思っていると、私の腕に鼻先を摺り寄せてくる。そこは、殴られた時に顔を庇って青痣ができていた場所だった。
トラ君は人間の怪我がわかるのかな。それとも、血の臭いがするのかな。
ざらり、としたものが腕をなぞった感触がして、思わず身体が跳ねた。
トラ君が舌で痣を舐めたんだとわかって、ホッと息をつく。
「……ありがとう、大丈夫だよ」
優しいなぁ、と思いながら、私はトラ君の首辺りに腕を回して抱きついた。
トラ君の毛は柔らかくて、ふわふわしていて、とても気持ちがいい。思わず頬を摺り寄せてしまう。本当に大きな猫みたい。
癒し効果は抜群だ。
思う存分トラ君を堪能してから腕を離すと、トラ君もゆっくりと頭を上げた。もしかして、私が抱きついてたから無理な体勢にさせてたかな。
「ごめん、苦しかった?」
トラ君は答えの代わりに、私の腕に頬を摺り寄せてきた。大丈夫、って言ってくれてるのかな。
「ねぇ、トラ君。月山君は一緒じゃないの? 一人で出てきたの? 戻らなくて平気?」
誰も一緒にいないなんてことはないと思うけど、近くには見当たらない。トラ君は一人で帰れるのかな。あ、虎だから一匹かな、一頭かな。
ともかく、私が連れて行ってあげられたらいいんだけど、今は人前に出たくないし、月山君に見られてどうしたのか聞かれても答えられないしなぁ。
トラ君は周りをきょろりと見回してから私に顔を向けた。
じっと見つめられて、どうしたんだろうと首を傾げる。
「……トラ君は、一人で帰れる?」
尋ねると、トラ君はゆっくりと目を閉じてから目を開けた。キラリ、と黄金色が光る。
頷いたみたいだった。トラ君は本当に人の言葉がわかるのかも。
「そっか。じゃあもう行かないと、お家の人が心配するよ」
そう言ってみるけれど、トラ君はそこを動かずに私の肩に鼻先を寄せてくる。
「……私のこと、心配してくれてるの?」
答えるみたいに唸ったから、私は小さく笑ってトラ君の頭を撫でた。
「ありがとう。私ももう帰るから、心配しないで」
痛みはさっきよりはマシになっていたから、ゆっくり腰を上げる。トラ君が私を支えるように身を寄せてきてくれたので、ちょっとだけ甘えさせてもらって立ち上がった。
あぁ、やっぱりもふもふしてて気持ちいいなぁ。
抱きつきたくなるのを我慢して、一撫でしてから離れる。
「じゃあね」
手を振ると、トラ君は小さく唸りながらゆっくりと振り返って森の奥へ歩いていく。時々私の方を振り向きながら暗がりに入っていった。
完全にトラ君の姿が見えなくなってから、私も公園を出る。まだ身体が痛くて、ゆっくりとしか歩けなかったけどトラ君に会えたことで憂鬱だった気分は少し晴れている。
アニマルセラピーってこんな感じなのかな。
家に帰ると、部屋の明かりは消えていて、どうやら父は寝てしまったようだった。
ホッとして私もお風呂に入ってから布団に入る。青痣になっていた場所を摩りながら、布団の中で丸くなった。
父の寝ている気配を感じながら、目を閉じる。
明日学校に行ったら、トラ君がちゃんと家に帰ったか月山君に聞いてみようかな。