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朝のホームルームが始まる前の教室はいつも賑やかだ。
今日の宿題見せてとか、放課後遊びに行こうとか、部活で昼休みにミーティングだってとか、いろんな会話が耳に入ってくる。
そんな中、机にダラーっと突っ伏してたら頭をツンツンと突かれた。
「具合でも悪いの? かやのん?」
顔を上げれば、目の前には揺れるツインテール。
椅子の背もたれにちょこんと両手を乗せて、その上に顎を添えている彼女は、クラスメイトの守連 あざみ。通称「あざみん」だ。
「平気だよーあざみん。ちょっと寝不足で眠いんだー」
心配そうな顔を向けられて、私は欠伸混じりにへらっと笑って返した。
あざみんは中学の頃からずっと同じクラスという、珍しいパターンの友達。大体の友達は必ず何度かクラスが変わるのに、あざみんとだけは変わらないのだ。
腐れ縁、と言ってしまったらそれまでかもしれないけど、なんだか運命みたいで私はこの貴重な縁を大事にしたいと思っている。
「かやのんはよく寝不足してるよねー夜更かし?」
「うーん、まぁそんなとこかな」
「夜更かしって何してるの?」
心底不思議、という目を向けられて私は苦笑いを浮かべる。
あざみんは家の人が厳しいのもあって、早寝早起きが鉄則らしく、私が公園に出ていた頃には夢の中なんだとか。
「んー、散歩、かな?」
「夜に?」
「夜の散歩って結構楽しいんだよ」
「でもそれって深夜徘徊になるんじゃない? 先生に怒られちゃうよ?」
「見つからなければどうということはないのだよ、ふふふ」
ちょっとふざけて意味ありげに笑ってみれば、あざみんは口を尖らせた。
あ、あざとい……でも、かわいい。
あざみんは小動物という形容がぴったりな女の子だ。中学生、下手すると小学生に見られることも多い。実はちょっと気にしているらしい。
ちょっと天然なところもあるんだけど、周りのことをしっかり見て気を遣えるいい子だ。
あざみんを見てるとつくづく思い知らされる。
神様って不公平だ。
「かやのん、変な人に会ったら危ないよ。かやのんはかわいいんだから、気をつけなきゃ」
かわいい子にかわいいって言われるとなんだか変な感じ。
でも、心配してくれるあざみんにこれ以上ふざけるのは悪いので、私は苦笑して手をひらひらと振った。
「大丈夫大丈夫。夜の散歩って言ってもそんな遅い時間じゃないし、寝不足なのは別の理由。ただ勉強してるだけだよ」
「そんな遅くまで勉強?」
「ちょっと成績落としたくなくって。私、そんなに頭良くないから予習と復習だけで結構時間が経っちゃうんだよね」
「えー、かやのんは私より成績いいじゃない」
本当のところ、昨日は公園でのことが気になってなかなか寝つけなかったのだけど言わないでおく。
でも、夜に勉強をしているのは本当だ。
今の私の成績は中の上。
苦手科目が足を引っ張って平均が落ちてる状況だ。
頭の悪さは自覚しているからそれなりに努力しての結果なんだけど、努力してこれだからなんとも言えない感じ。
ちなみに、あざみんは平均をキープ。
家の人が厳しいわりには、あまり成績のことをうるさく言われないらしい。どういうことなんだろう。
「でも、奨学金借りるなら成績は下げない方がいいって先生に言われちゃったし」
「そうなんだ」
「なんだか受験生気分を先取りって感じだよ」
「何が先取り?」
突然、別の声が割って入って、振り返ればそこに立っていたのは、クラスメイトの尾白 伊花ちゃんだった。
「あ、伊花ちゃん。おはよー」
「おはよ」
「はなちゃんはなちゃん、かやのんに勉強のコツ教えてあげてよ」
「何、急に?」
あざみんにそう言われて、伊花ちゃんは怪訝そうに眉根を寄せて私を見た。
伊花ちゃんとは高校に入って知り合った仲で、学校ではあざみんと3人で時間を過ごすことが多い。
ちなみに、伊花ちゃんは学年の5本指に入る成績の持ち主。
おまけに、美人でモデルさんみたいなスタイルで、シャンプーのCMに出られるくらいの綺麗な黒髪ストレートは背中まである。
あんなに伸ばしたら毛先が痛んじゃうこと間違いなしなのに、まったくそんなことないんだよね。どんな手入れしてるんだろうっていつもあざみんと話してるくらい。
運動神経もよくて、いろんな部活から勧誘されてるのを見たことがある。
成績優秀、眉目秀麗って伊花ちゃんのことを言うんだろうなぁ。
「かやのん、最近勉強で夜更かししてるんだって」
「テストでもないのに?」
「うん……先生と奨学金の話した時に、これ以上は成績下げない方がいいって言われちゃって」
「あー、そういうこと」
納得したように頷いて、伊花ちゃんは私の頭にポンと手を置いた。
「睡眠前の学習は結構効果があるらしいよ。でも、寝不足はダメ。ちゃんと睡眠とって、頭の休憩と整理しないと覚えるもんも覚えないよ」
「それは、わかってるんだけど……」
「あんたは帰宅部なんだから、帰ったら早めに勉強始めたらいいじゃない」
「そうしたいんだけど、夕ご飯の仕度とか、家事にまだ慣れなくってさ。気がついたらドラマが始まっちゃってたりして」
笑いながら頭を掻けば、伊花ちゃんにため息をつかれてしまう。
「テレビ見てる余裕があるなら、心配いらないね」
「あははー……」
もう笑うしかない。
本当は、昨日の夜にドラマは見てなかったんだけど。
そういえば、と私は昨夜のことを思い出して、伊花ちゃんを見た。
「あのさ、伊花ちゃん」
「何?」
「日本に野生の虎っている?」
「はぁ!?」
珍しく大きな声を上げた伊花ちゃんは、心配そうに私の顔を覗き込んでくる。
「急にどうしたの、あんた? 勉強のし過ぎでおかしくなった?」
「かやのん、眠いの? 保健室行く?」
2人に挟まれて心配されてしまい、私は慌てて言い訳を考える。
「いやいや、大丈夫だから! ちょっと気になって」
「何をどうしたら気になるのよ、そんなこと……まぁ、詳しくは知らないけど、野生の虎なんて日本にはいないんじゃない? 虎って中国とか東南アジアとかの動物のはずだし。いるとしたら動物園くらいでしょ」
「そうだよねー……じゃあ、日本でペットにしてる人っているのかな?」
「ペット? それも滅多にいないんじゃない? 確か飼育環境とかをちゃんとできないと許可されないはずよ」
「許可が要るんだーはなちゃん物知りだね」
伊花ちゃんの言葉になるほど、と頷いていると、あざみんもそう言って笑う。
伊花ちゃんはそんな私たちを、呆れ半分微笑ましさ半分って感じで見てため息をついていた。
「ペットといえば、昨日のテレビでおしゃべりインコの特集してたよーインコかわいかったなー」
あざみんがニコニコしながら頬杖をつく。
喋る動物、と聞いて私はますます昨日のことに意識が沈んでいった。
「はなちゃんちはペット飼ってるんだっけ?」
「猫が2匹ね」
「喋ったりする?」
「そんなわけないでしょ。それに、あれってオウム返しにしてるだけなんだし、本当の意味で喋る動物なんていやしないわよ」
「そーだよねー、でもお話しできたら楽しそうだよね、かやのん……かやのん?」
2人の話を聞きながらぼーっと考え事をしてしまっていた私は、あざみんの声で我に返って顔を上げた。
「え、あ……何?」
「やっぱり眠いの、かやのん?」
「あんた本当に大丈夫?」
本気で心配してくれている2人に、私はすごい申し訳なくなって慌てて手を振る。
「へ、平気平気! あ、もうすぐ先生来るし、座んなきゃ! ホラホラ」
ちょうどチャイムが鳴って、伊花ちゃんは渋々と言った感じで席に歩いていった。
でもあざみんは私の前の席に座ってるから、まだ心配そうに私を見つめている。
「本当に平気?」
「大丈夫だよ。ごめんね、眠いだけだから」
「そぉ?」
さすがに、昨日のことは話せないよなぁ、と私は苦笑した。
言葉を喋る虎に会った、なんて、信じてもらえるはずがないし、そんなことを言ったら幻覚を見るくらい疲れてるのか、とますます心配されるに決まってる。
まだ不満顔のあざみんの頬をつついたりしていると、教室のドアが開いて担任の先生が入ってくる。
「おらー騒いでないでさっさと座れー、ホームルーム始めるぞ」
そう言いながら入って来た担任の後ろには男子の姿があった。怒っているのか、不満げな顔の頬には大きな絆創膏が貼ってある。
その姿を見たクラス中が一瞬静かになって、みんな気まずそうにひそひそと話しだした。
その注目の的の男子はというと、そんなクラスの雰囲気にもどこ吹く風で、さっさと歩いて自分の席に座ってしまった。
「また何かしたのかなぁ?」
あざみんが振り返って声を潜めてくる。
「この前は先輩とケンカして怒られたんだって」
「そ、そうなんだ……」
「あの顔の傷、やっぱりまたケンカしたのかなぁ」
「転んだだけかもしれないよ」
「そうかなぁ」
「守連ー、前向けよー」
先生に呼ばれたあざみんは慌てて返事をして前を向いてしまう。
私は先生からの連絡事項を聞きながら、そっと教室の後ろの席に座っているさっきの男子を窺った。
そして――バッチリ目が合った。
私は慌てて前を向く。
なんで目が合っちゃったんだろう、私のことガン見してたみたいだし、もう後ろ向けない。
ホームルームが終わるまで、私は怖くて教室の後ろを振り返れなかった。
月山 虎樹。
それが、先生と一緒に教室に入って来たクラスメイトの男子生徒の名前だ。
色素の薄い髪は男子にしては長い方。染めているわけではなく、地毛らしい。
皆が同じ制服を身に着ける中だと、その髪の色は余計に目立った。
いつも不機嫌そうな顔をしていて、お世辞にも目つきがいいとは言えない。話し方も素っ気ないというか乱暴な感じだ。
顔に生傷が絶えないのもあって、喧嘩ばかりしているともっぱらの噂。
そのせいで、月山君は随分怖がられている。みんな遠巻きにするだけで、話しかけようとする人はまずいない。
だから、学校で月山君の声を聞く機会なんて滅多にないんだけど、実は最近ちょっと話をしたおかげで、私は彼のその声を覚えていた。
昨日の夜、公園で私を呼んだあの声は、確かに彼の物なのだった。