落ちた網戸の
孝治が、自分の反射神経が鈍くなっているのを痛感したときには、網戸は手の中から滑り落ちていた。
アパートの二階。エアコンの室外機を置くだけの、人は乗れない狭いバルコニーが張りだしている。そこでひとつぽんと跳ねた網戸は、バルコニーの縁を飛び越して窓下にあるゴミ捨て場に落ちた。
「めんどくせえなぁ」
窓から顔を出してそうつぶやいた孝治は、ちらっと空を見上げると引っ込んだ。孝治は狭いパイプベッドの上に膝立ちになっていたが、取り込んだばかりの洗濯物を飛び越えて玄関へ向かう。
軋んだ安い音のするドアを開け、サンダルを突っかけ階段を降りる。
額に一つ、雨粒が落ちた。
「やっぱりか」
雲行きが怪しいのでバルコニーの上に干した洗濯物を取り込もうとして、手が網戸に引っかかった。それを取って戻って、はめ直さなければならない。
「めんどくせえめんどくせえ」
孝治は、よくわからない染みでまだらになったコンクリ床のゴミ捨て場から網戸をつまみあげると、両手に抱えて部屋へ戻る。
網戸を窓から外に出し、はめ直す。薄っぺらなアルミのそれは歪んでいるのか、うまく溝にはまらず孝治はいらいらする。
そのせいか、レールにつっかえた拍子に手の中から網戸が滑り落ちた。
「またかよ」
孝治は舌打ちをする。
額に、ふたつみっつ水滴が落ちる。雨ではなかった。
バルコニーの底を伝ったエアコンの排水だ。どこかで排水ホースが裂けてでもいるのか、ぽつり、ぽつりと孝治の額を濡らす。
水滴は、やがて孝治の額から滑り落ちて目の中に流れ込む。しかし、その目に光は無い。
数時間後、通りかかった郵便配達人によって、ゴミ捨て場で仰向けに倒れている孝治が発見された。救急隊員が駆けつけた時には、孝治はすでに事切れていた。
彼は、後頭部を強く打ち付けて、かなり出血していた。流れ出た粘りのある血液が、コンクリの床の染みに、新しい模様を作りかけている。
彼の、死んだ瞳が見上げる部屋の窓には、網戸がきちんとはめ込まれ、その向こうに薄いカーテンが揺れていた。
(完)