紅と蒼を侍らせて
エルの屋敷は『ここでありあちらであり向こうであり明日であり昨日であり過去であり未来であり現在である』場所に建っている。そう正直に説明すると意味不明だと言われるので、最近は簡潔に『どこでもない異世界』という事も多い。とにかく、そういう場所に住んでいた。
屋敷の玄関をくぐると真っ先に見えるのは、塔のように丸い書庫。三階まで吹き抜けになっている書庫の中央には、一つの古書が白いページを開いたままふわりと宙に浮いている。
書庫や屋敷、そして草花が植えられた美しい庭。
それらが存在しているこの世界を、あの古書が生み出している。それら以外にこの世界に存在しているのは、住人であるエルとその『従者』。普通の人間はまずここへは来れない。
そんな世界で引きこもるように暮らすエルの日課は、絶えずふわふわと上下に動く古書をお菓子をつまみながらじーっと見つめたり、フリルやレース、リボンでかわいらしく飾られた愛用の黒い日傘を手に庭を散策するか、膨大な蔵書から適当に選び出して読みふけるくらい。
万の蔵書と億の言葉。
それがエルの長い時間を満たす中身になる。
外出するのは買い物や晩餐会などに招待された時くらいだ。特に何もやりたくない時は決まって買い物や、そうでなければ演劇などを見に行く。しかし買い物は数日前に済ませてしまっているし、招待状は一通も届いてはいない。浪費はダメです、と言われたので演劇も無理だ。
だから今日もいつも通りに、読書と散策で時間を潰す。
三階にある自室から書庫へ出たエルは、読みかけの小説を抱えて階段を下りていく。近々次の巻が発売されるので、今のうちに読み終わっておきたかった。広大な庭の中にはいくつか腰掛けられる椅子が置かれている。今日は池のそばにある、木陰が心地よいあの場所にしよう。
頭に浮かべるのは小説の登場人物。途中までしか読めていないが、これからおしまいまでどう展開するのか予測できない。そんな予測できない終わりの続きなどもっと考えられない。
「あの二人はやっぱり……」
独り言と共にドアノブに手をかけ――しかし、開けなかった。ぞわり、と肌を生暖かい空気が執拗に撫でていく。その不快な感覚をやり過ごした直後、地鳴りのような音が書庫に響く。
険しい表情で振り返ったエルの視線の先にあったのは、あの古書だった。
古書が震え、ぱらり、とページがめくられた。そしてインクがにじむように、何も書かれていなかったそこに文字が浮ぶ。日傘を手にしたまま振り返ったエルの青い瞳がすぅっと細められて、その手が握っていたドアノブから離れた。身体ごと古書に向き、浮ぶ文字を見つめる。
古書の正式な名前は無い。タイトルが書かれているべき表紙は、初めてその姿を見た時からずっと白紙のまま。この奇妙な古い書物の事を、エルは『未来を綴る古書』と呼んでいる。
その名の通り、あの古書は未来をその真新しいページに浮ばせるのだ。
綴られる未来は相変わらず無差別。
一国の主の暗殺から、どこかの田舎の民家に住むネズミの子の数まで。
世界中のありとあらゆる未来がびっしりと綴られていく。
未来を綴る予言の書、などと言えば聞こえはいいが、この中から自分に関係する『未来』を探すと思うだけで気が狂いそうになる。少なくともエルはそんな事はしない。
けれど読み取る事はできる。エルになら、それができる。
散策も読書も中止ね、とエルはため息を零した。テーブルに日傘と本を置いて、文字が浮び終わった古書へと歩み寄った。そして長めの袖を少し手繰り、腕を伸ばして指先で触れる。
先ほどと同じ、嫌な感覚が全身に襲い掛かった。
同時に流れ込んでくる未来のイメージ。身体の中から侵されるような、自分がどこの誰なのかわからなくなっていく。閉じたまぶたの裏には人々の笑顔、泣き顔、血たまり、叫び。
吐き気がこみ上げるのに出てくるものは無く、ただただ気持ち悪さと不快さとそれらを打ち消してしまうわずかな快楽が、エルの華奢な身体の中で混ざり合って白く全てを塗りつぶし。
最後に、見覚えがある懐かしい微笑が――。
■ □ ■
「……」
気付けば、夕暮れだった。
やわらかいものが自分を抱きしめている、ぬくもりを感じる。
視界の中に黒い三つ編みが見えた。この屋敷にいる黒髪といえば二人だけだ。エルに仕えている二人の使用人。三つ編みという事は、女装――悪ふざけしていなければ『メイド』の方。
どちらでもいいので顔や視線は動かさない。
どちらにしろ、これは信頼できる人物の温もりだ。
何より、まだそんな元気がエルに戻ってきていない。頭の中はぐわんぐわんと鼓動するような頭痛が続いていて、さっきほどではないが吐き気だって完全に消えたわけではない。
胸に顔を埋め抱きつくようにしたまま、エルは口を開いた。
「……ミーシャ」
「はい、お嬢様。未来を謳われるお声が聞こえましたので、すぐに帰ってまいりました」
エルの身体を腕の中に抱き、座り込んでいる娘。彼女はミーシャ。夜のような黒髪と月のような瞳を持つ、ずっと昔からエルの身の回りの世話をしてくれている『従者』だった。
今日も彼女は独特なデザインのメイド服を着て、長い髪を三つ編みに結っている。
どれくらいデザインが違うかといえば、やはり肩周りの露出だろうか。肩と腕の部分をえぐるように切り取ったデザインは、動きやすさが欲しいですといった本人の希望だった。加えてメイドの衣装としては少し丈の短いスカート。これも動きやすさがほしい、という事らしい。
徹底的に動きやすさを求めるのは、彼女が『メイド』であると同時に、エルの護衛も勤めているからだろう。もう一人、男性の使用人がいるのだが、彼では寝所や湯殿などの場所へ入る事はさすがにできない。そういう場所でエルを守る事が『護衛』としての、ミーシャの勤め。
武器の類を持ち歩けない場合を想定しているのか、切り取られた袖の変わりにその腕を包む丈夫な布でできた白い手袋の甲の部分には、更に丈夫な布を内側に縫い付けているそうだ。
主人のためならその手を汚す事もいとわない忠実なメイドは、目を覚ましたエルの頭を優しく優しく何度も撫でる。未来を謳った後は頭痛がすると知っているから、きっとそれを紛らわせようとしているのだろう。そんなミーシャの優しさが、身体のダメージを癒していく。
この屋敷に暮らし始めてからずっと一緒にいてくれる二人の従者。
エルにとって、彼らだけが心のよりどころだった。他にも親しい者はいたけれど、もうみんなこの世から去って、もう誰もいない。人間は早く死んでしまう。エルを置き去りにする。
だけど、ミーシャ達は違った。二人はエルを絶対に置いていかない。
常にエルの傍にいて、抱きしめ返してくれる。
ミーシャはおいしい料理と綺麗な服、清潔な空間をエルに与えてくれた。
もう一人は常に傍にいて、いかなる攻撃からも守ってくれた。
どちらも欠かせない大切な存在――あえていうなら『家族』だった。
「ん……もう、大丈夫」
ゆっくり動かした指先は、しっかりと動いた。
多少動きはぎこちないけれど、前に『謳った』時よりはしっかりしている。あの時は三日ほど意識が戻らずに、ミーシャに心配をかけてしまった。とりあえず、大丈夫そうである。
「今日は何が見えたのですが?」
先に立ち上がり、エルに手を差し伸べるミーシャ。
その手をとって立ち上がりつつ、エルは自分が見たものを一つ一つ思い出していた。いくつかは意味もわからない、おそらくは何のかかわりも無い誰かの未来なのだろう。古書が綴る未来は基本的に一枚絵で伝わるが、先ほど見えた物のほとんどが見覚えの無い景色や人物だ。
ただ、一部は少し見覚えがあった。王都の……歓楽街らしき場所。その一角が赤く染まっていたり燃えていたりする、あまりいいとは思えない光景。火事か殺人の予兆なのだろうか。
ただ同時に見えた住民の服装からして、近い将来というわけではなさそうだった。
おそらく十年近く先の光景だろう。そこまで遠い未来になると、古書が綴る未来は半々で外れる。確実に当たるといえるのはせいぜい一年以内――いや、半年だろうか。
古書が綴る未来は言うならば予定のようなもので、先へ行けばいくほどにズレが大きくなってまったく違った未来へと変ずる。エルは綴られる未来を『暫定未来』などと呼んで、あくまでも予言の類ではないのだと、周囲に主張しているところだ。……あまり効果は無いのだが。
しかし、見えた内容を無視する事はできない。
――特に最後に見えた一枚だけは、たとえ百年先であっても無視できるモノではない。
「ミーシャ。クレスノーマの子孫はどうなっているの? さっきの『暫定未来』の中にクレスノーマの家紋が見えたわ。雪の結晶を模した冷たくて透き通った、あの薄蒼に美しい家紋が」
そして、若かりし頃の彼の微笑と共に、その家紋が粉々に砕け散る光景。
それが最後にエルが見た『未来』だった。
ミーシャは少しお待ちを、と言い残してどこかへ去っていく。それを見送りながら、エルは額ににじんでいた汗をそっとぬぐった。どくどくと心臓が、いっそ止めたいほどに煩かった。
思い出しただけでも背筋に嫌な汗が流れていく。
今は亡きクレスノーマは没落した家を一代で再興した、エルの大切な古い友人だった。
形式では『契約者と魔女』の関係。
エルとしては『魔女』であるつもりは無いが、人間から見ると立派に『魔女』として通用するらしい。クレスノーマからすると亡き父親から当主の座ごと引き継いだ契約、という程度の認識だったらしく、二人の間にある繋がりは主従ではよくある堅苦しい関係ではなかった。
彼は貴族という地位に誇りを持っていた。ラーヴィスレイドは魔術師として申し分ない資質を持つ血統だったため、そちらの方から再興したらとエルが提案したら断られるほど。
本当にラーヴィスレイドは、魔術師として恵まれた血統を持っていた。それなりに魔術を嗜まないと、人間の悪魔や、種族的な意味での悪魔に騙されるかもしれないと心配になるほど。
だからせめて嗜む程度でいいから、エルはそう言った。
雑学感覚でかまわないから、魔術的な知識を得てほしいとも言った。たとえ悪魔の多くが身体のどこか、主に手の甲や頬に黒い蝶の痣を持つとか、その程度の知識は持ってほしいと。
おまじないみたいなものよ、とエルは言った。魔術に興味を持つ貴族は少なくない、だから何かあった時にすぐに使えるちょっとした雑談の種にもなるはずだと。
だけど彼はそれさえ断った。復興した結果が魔術師という一族としてでは、今まで自分に仕えてくれた者達に申し訳が立たない。ただ再興するだけでは何の意味もないのだと、クレスノーマは会う度に何度も語った。まるでくじけそうな自分の退路を断って、鼓舞するように。
そしてエルに話し相手以上の協力を求めず、彼は一人で見事にやり遂げた。
彼が愛した家紋が砕けるなんて、冗談でも夢でも見たくは無い。いっそ、百年くらい先のあてずっぽうに近い『暫定未来』であったなら、と願わずにはいられない光景だった。
けれど、エルは同時にもしもあれがごく近い時期に起こる事だったら、という不安に襲われていた。クレスノーマの子孫に何か良くない事が起きる、その前兆だとしたら……。
「お待たせしました」
嫌な想像をめぐらせる直前、ミーシャが戻ってくる。
その手にあったのは新聞だった。
「確か、クレスノーマ・ラーヴィスレイド様のご子息とその奥方が、つい先日事故でお亡くなりになったと聞いております。遠方の新聞にも載るほど、大きな事故だったとか。夫妻には幼い子供がいらっしゃるとも書かれておりました。まだ齢十歳ほどの双子の姉妹だそうです」
「姉妹……が、たった二人、ね。確かクレスノーマには三人の子供がいたわね」
「はい。これは『噂』なのですが、残された姉妹の処遇について、事故直後から親族が争っていると聞きます。双子の女児というのが、いろいろともめる元凶になっているようです」
それは仕方がないような気が、エルはした。古の時代、双子は忌まれた存在だ。貴族にとって重要なのは繁栄と一族を未来へ継いで行く事で、それを思うと双子とは扱いに困るのだ。
加えて女児。これはもめるなという方が、無理な注文という気がする。
しかし、この状況が長く続く事は好ましいとはいえない。
このままではクレスノーマが必死に再興したラーヴィスレイド家が、そしてクレスノーマの努力と時間が、他ならぬ彼が愛した子供達の手で無に帰する事を見逃せはしない。
エルはミーシャを見て言う。
「ミーシャ、出かけるわよ」
「ラーヴィスレイド家ですか?」
「えぇ。だってわたしは契約している『魔女』ですもの」
「かしこまりました」
それでは準備をしてきます、と立ち去るミーシャ。書庫に残されたエルはミーシャが持ってきていた新聞を広げて目を通していた。日付は半月ほど前。史上最悪、の言葉と共にその海難事故は大きく扱われていた。いまだ遺体が見つかっていない犠牲者も多いと書かれていた。
海難事故自体はエルも聞いていた。しかし、まさかクレスノーマの子孫が犠牲者になっているなど思いもしなかった。もう少しニュースの類をちゃんとチェックする事を誓う。
程なくしてミーシャがかばんを手に戻ってくる。
馬車の手配も済ませましたという彼女と共に書庫を出て鍵を閉め、ラーヴィスレイドの屋敷がある王都へと向かう。久しぶりの王都だったが、華やかな町並みを見ても心は晴れない。
エルは馬車の中でどう話を切り出すか、それをずっと考えていた。
魔女と契約する貴族というのは珍しい事ではない。多くの貴族と契約する事は『魔女』のステータスであり、契約する貴族の質が高いほど羨望の眼差しを向けられるという。もちろん時には無茶振りにもほどがある、と言いたくなるような要求に答えられる実力がないとダメだ。
本人は魔女であるつもりは無いが、実力に関してエルはそれなりの自信も、定評もある。
問題はエルとの契約の話がちゃんと子供達まで伝わっているのか、だ。クレスノーマがあんな調子だったため、彼の子供達に自分の存在の事が伝わっていないような気がしてならない。
もし伝わっていなかったら、いろいろとややこしい事になりそうだった。
■ □ ■
「……というわけで、しばらく滞在させていただきますわ」
唖然としたままエルを見ている周囲など気にもせず、彼女はにこやかにそう言った。
危惧していた契約の話はやはり伝わってはおらず、けれど使用人の一人が顔見知りであったために身分や契約の正当性の証明にはなった。言い争っていた当事者達は不服そうな顔つきをしていたが、亡き父親が一番信頼していた執事がいうのだから、と渋々了承している。
「お久しぶりでございます、レフィーリア様」
まるで主人にするかのように深く頭をたれる『執事』のヨハン。顔にはしわが刻まれて頭髪も白くなっているが、その優しげな面影は損なわれるどころかさらに増している。
「お部屋はいつもの場所でよろしいでしょうか。ただ、今夜は旦那様のお身内の方々以外に来客の予定が無かったので、他の客間の準備ができていないのですが……」
「かまわないわ。ミーシャがいるもの。軽く汗を流している間に整えさせるわ。それより軽く食べられるものをくれないかしら。ここまで馬車で急いできたから、食事を取っていないの」
「かしこまりました。メイドに急いでしたくさせます」
「わかったわ」
手早く用事を済ませて廊下へと出て行くエル。その時に、ちらりと一番奥にいた二人の少女を視界に捕らえる。ソフィアとマリア。そういう名前を与えられた、美しく薄幸な双子。
彼女らはまるで人形のように無言でうつむいたままだ。
紅と蒼のドレスの豪華さもあって、生き物の気配がなかなか感じられない。椅子に座らせた等身大の人形だといわれたら、特に確かめもしないで信じてしまいそうにさえ思う。
身内が言い争う光景を見て、怯えているのだろう。
かわいそうに、とエルは思った。両親をなくしただけでも悲しいだろうに、身内がほしいのは自分達ではなく財産だ。存在を認められない辛さは、かつてエルも痛いほど味わっている。
エルは物心も付くか付かないか、という年齢だったからほとんど覚えていない。でも彼女らは成長してしまっている。この一件が長引けば、きっと死ぬまで忘れられない傷になる。
どうやらエルの仕事は彼女らを救う事。
人並みの幸せをもたらす、その道作りのようだ。
まずはあの煩い親類を二人の周りから排除しなければいけない。
揃いも揃ってなかなか強欲そうで、時間のかかる上に労力もいる仕事になりそうだ。
「それじゃ皆様、また明日『お話』しましょう」
エルの後ろにミーシャが続き、彼女がゆっくりと扉を閉めていく。
「……化け物め」
小さく聞こえたのはそんな呟き。
反応するのも面倒なので、エルは無視して広間を出て勝手に客間へと向かう。スカートの中にいくつか仕込んでいるナイフに、そっと手を伸ばしたミーシャを視線で止めておく。
基本的にエルの顧客は少なく、どちらかというと駆け込み客の方が多い。それすらもえり好みしている方なので、一つでも顧客を失えばいろいろと面倒だ。財力の方は有り余っているのでどうでもいいが、同業者にいやみを言われるのだけは我慢し続ける自信があまり持てない。
貴族が『魔術に携わる者』を多数雇う事によって自らの財力を誇示するのと同時に、『魔術に携わる者』も契約者という名のパトロンを多く抱える事で自らの実力をアピールする。
実際に多くの顧客を抱えるには、それなりに実力が備わっていなければいけない。
ゆえに契約を自ら切るのではなく切られるというのは、要するにお前に金を出して雇うだけの価値が無いと言われたにも等しく、これはプライドをこれでもかと傷つけて行くだろう。
それに相手は一応、亡きクレスノーマの家族だ。
救いに来た相手を叩き潰すなど、愚行にもほどがある。
「ミーシャ、気にしないで」
「……ですが」
彼女が引っかかっているのは化け物という単語だ。
自分の主人がそのように言われて黙っていられないのが、ミーシャだ。まぁ、自分が仕えている相手が化け物などと罵られ、黙っているようでは『従者』として失格という気もする。
「化け物だなんて呼ばれるのには慣れているわよ。力を持たない者にとっては、たかが魔術でさえも恐ろしいものだわ。金の亡者といい勝負だと思えば、なんて事も無い言葉よ」
ふん、と鼻で笑うエル。大声で繰り広げられていた『話し合い』は、屋敷の外まで大音量で聞こえてきた。最初はひたすら姉妹の幸せを嘯いていたくせに、すぐにボロを出して金が遺産が財産が、と叫びあう大合唱。外で聞いていて、エルは笑い声を殺すのが大変だった。
クレスノーマには悪いが、育て方を間違えたとしか言いようが無い。あれが彼と血の繋がった子供達だと思うと、エルは正直頭を抱えたくなる。とはいえ、逃げるわけにも行かない。
屋敷に来た時に使う客間のソファに腰掛け、エルは息を吐き出す。
ため息というよりも諦めに似たそれは、扉を叩くノックの音で掻き消された。
「失礼します。お食事をお届けに参りました」
若い少女の声が聞こえる。お入りください、とエルの変わりにミーシャが答えた。
おそらくヨハンに頼んでいた食事が届いたのだろう。声の感じからしてまだ学生であってもおかしくは無いほど若い娘そうだったが、実際に見ると思ったよりも更に若い娘だった。
「レナと申します。五つの頃から、ここで働いております」
腰まで届く茶髪の娘――レナはそういって軽く頭を下げる。手には二人分の軽い食事が乗せられていて、おいしそうな匂いがエルのところまでふわりと漂ってきた。
彼女の衣服はどう見ても寝巻きで、どうやら就寝しかけているところだったらしい。
「ありがとう、もしかして休んでいたのを起こしてしまったかしら」
「いえ……明日はお昼からの仕事なので、本を読んでいようと思っていたんです。好きな作家さんの新作がやっと出て、お仕事だったんですけどこっそり並んで買いにいったんですよ」
えへへ、と少し照れた様子で話すレナ。その姿はまだまだ幼さが残っている。気さくで明るくて人当たりもいい。……ふと、意識をそばにいる自分のメイドへ向けた。
ここまで明るくなれとは言わないが、明るくなってくれたらと思わなくもない。何も現在別の用事を頼んでいる『執事』みたいに愛想を振りまけ、とは言わない。せめてもう少し口数を増やすかやわらかくなってくれれば。決して無理難題を押し付けてはいないとエルは思う。
「申し訳ありません……料理長はもう自宅へ戻ってしまっていて、屋敷に住み込んでいるのも私とヨハン様だけなんです。だから今すぐ用意できたのはこんなものしかなくって」
テーブルに並べられたのは、塩で軽く味をつけた野菜のスープ。
それから手のひらほどの小さいパンだった。
おそらく使用人用の食事の残りだろう。シンプルだかとてもおいしそうに見える。
「今はこれくらいがちょうどいいわ。ありがとう」
「とてもおいしそうです」
ミーシャもかすかに笑ってそういい、スプーンに手を伸ばす。先にパンを細かくちぎったかけらを一つ口に運んだエルは、緊張した面持ちでこちらを見ているレナに気付いた。
彼女は食事が口に合わなかったら、というのを考えているのだろう。まだパンしか食べてはいないが、スープを静かに口に運ぶミーシャの様子からして、かなりの美味に間違いない。
とはいえ、こうも見つめられたままでは、こちらも食べにくい。
エルは石像のように固まったまま、こちらを見ている彼女を見て言う。
「ねぇ、貴女はここに勤め始めてそれなりに長いんでしょう? じゃあ、もしも今から時間が取れそうなら、少し話を聞かせてちょうだい。わたし達の食事が終わるまででかまわないわ」
「え、あ、でも……」
「クレスノーマに子供がいない頃から、わたしはここへは来ていないの。だから彼らの名前がどういうものなのか、どういう人生を送ったのかも知らないのよ。その辺りを訊きたいわ」
あの様子ではいつヨハンがつかまるかわからない。それに内情に深くかかわっている彼が見ている世界とただのメイドが見ている世界は、同じものでも多少違って見えるはずだ。
何より、あの親族達がヨハン相手に弱みを見せるわけが無い。クレスノーマはヨハンを親友と呼んでいた。おそらく彼らにとってヨハンは敵かそれに等しい存在だろう。
見せるとしたら、抵抗もできない誰かの前で、つい気を緩めて……といった具合だ。
「そう、ですね。私も全部知っているってわけじゃないんです。五歳の頃からここにいますけれど基本的にお嬢様達の遊び相手で、働き始めたのはお嬢様がまだお小さかった頃ですね」
ちょうど先代様が亡くなった辺りで忙しくなって、とレナは言う。
先代、というのはおそらくクレスノーマの事だろう。あれは何年前だったか。雪も溶け始めて暖かくなってきた、久しぶりにクレスノーマに会いに行こうか、と思っていた頃だった。
ヨハンからの手紙で知って、一応葬儀に参列もしている。特に病気も煩わず、静かな眠りだったそうだ。最後までエルともう一度会いたい、と。会わなかった間にいろいろと話したい事がたまってしまったから、それを話しながら一緒に紅茶を飲みたいと笑っていたという。
まだ子供が幼い頃に病気で亡くなった妻を最後まで愛していた彼の事、きっとエルと彼女の思い出話でもしたかったのだろう。彼女の話ができる人間も、もうヨハンかエルしかいない。
何度か手紙を受け取りながら叶えられなかった事を、エルは今も悔やんでいる。
「……亡くなられた当主とその奥方は、よい方だったそうね」
「はい、すごくお優しくて、奥様も暖かい方でした」
仕事に真面目に取り組む新しい当主と、それを支える妻。それがレナが持った夫妻の印象だったという。夫妻は子供をとても愛していて、それはそれは幸せな家族に見えたそうだ。
しかし身内があの様子では、奥方はさぞかし大変だっただろうとエルは思う。きっと男児が生まれてこない事を、何かあるたびにネチネチと言っていたに違いない。少し前まで長女の息子と双子のどちらかを結婚させる、という話もあったそうだが……この騒ぎで消えたようだ。
ややこしい事になっている、とエルが思っていると。
「だいたいお前達はなぜ黙っている!」
そこへ聞こえたのは男の怒鳴り声。
先ほどエルを化け物と呼んだ声と同じだった。
小太りで愛想笑いもできなさそうな、典型的な『お貴族様』だったと記憶している。
確か今日は亡き当主の次男夫婦と長女親子が来ているという話だ。
おそらく、男女連れだったあの男が、次男……という事になるのだろう。
「ずいぶんと盛り上がっているようね」
「アレン様は亡くなられた旦那様に、とてもコンプレックスを持っておられましたから。あんな優しいだけで商才も何も持たない兄に、ラーヴィスレイドは任せておけない、と」
ふぅん、とエルは返してスープをすする。その間にも男の怒鳴り声は聞こえてくる。どうやらあの幼い姉妹に向けられているようで、見かねたヨハンが止めに入っているようだった。
しかし、ここまで聞こえるほどの大声で怒鳴られたら、どんな子供でも怯え竦んで声も何も出せるような状態にはならないだろうに。訊けば夫妻には子供はおらず、二人を養女にする事で家の全て手に入れようとしているらしい。最悪、姉の方だけでも、と考えているそうだ。
怒鳴るアレンとそれを止めようとするヨハン。
そこへ女が加わって、甲高い声でアレンと口喧嘩を始めた。
女の名はセシルといい、クレスノーマの長女だという。そういえば大広間の中央に場違いにもやけに着飾った、一瞬娼婦かと思うほどけばけばしい化粧の女がいた。あれがそうらしい。
彼女には双子とそう年が変わらない息子がいるらしいが、とてもそうは見えないというのがエルの正直な感想だった。売女でもあのような格好はしないだろう、おぞましい装飾の数々。
自分だったら人生から母親という存在を、完全に抹消したくなるほどだ。
すでに夜もかなり遅い時間のはずだか、いったいいつまで続けるのだろう。疲れているので食事をしたら少し休み、それからすぐに寝てしまいたいのだが。こうもうるさく言い争われてしまうと、眠気が去ってしまうばかりか気分的に疲れる。そろそろ静かにしてほしいのだが。
「そもそも貴様らがあいつを殺したりしなければこんな事にはならなかった! 口も利けない弟を殺すのはさぞかし容易かったろうな! この下賎な血を引く汚らわしい人殺しがっ」
また同じ男の声が響く。レナが気まずそうな顔でうつむいた。あんな内容の叫びを客人に聞かれたら、使用人だろうが誰だろうがうつむきたくもなる。遠くから聞こえる声は再びボソボソとしたものへと変わっていった。まるで波が行ったり来たりするように、音量が変化する。
――人殺し。
そのフレーズがやけにエルの中で反響していた。
流れからして言葉がぶつけられたのは、おそらくあの双子なのだろう。これまでに修羅場というのには何度か出くわしたが、幼い姪に向かって人殺しと叫ぶ叔父というのは初めてだ。
下賎の血、というのも聞き捨てならない。どういう事かとレナに訊けば、どうやら亡き当主の奥方は少し家柄がラーヴィスレイドより下なのだという。挙句、生まれたのは双子の女児のみとあって、劣った血を入れたせいだとアレンは日々、奥方を詰っていたのだという。
世も末だと呆れるしかない。クレスノーマの妻はエルの知人の娘だ。その家柄は普通よりは少し上という程度で、どう贔屓目に見てもラーヴィスレイドとはつり合うとはいえない。
彼は双子を侮辱すると同時に、自らも侮辱していると気付いていないのだ。
エルは心の中で薄く笑みを零してたくらむ。
明日、その事を言ってしまおうと。それはきっと楽しい光景に代わるはず。どさくさまぎれに双子の親権やら何やらを奪い去るには、ちょうどいいかもしれない。確かに血の繋がりというものは重要な要素だ。しかしそれ以上に育つ環境も、また大切なものだとエルは信じる。
でなければ『血の繋がった身内』に全てを壊され、それから『赤の他人』に育てられた自分の証明にはならない。間違いなく、彼らはあの姉妹を『壊す』だろう、跡形もなく。彼らの中に姉妹への愛など、一欠けらもない。断言してもいい。あれば人殺しなどと言えるものか。
「人殺し、ね。仮にも『魔女』を相手に化け物呼ばわりですものね。命知らずに礼儀知らずに恥知らず……クレスノーマと彼女がこんな教育をするはずがないもの。きっと学校で随分と素晴らしい教育を受けたのね。発言から、底の浅さと知識や知能の程度が知れるわ、ふふ」
「……」
静かに笑うエルと、無言のままのミーシャ。
レナといえば、複雑な表情で視線をさまよわせている。
「あぁ、気にしないで。こういう生業をしているとね、こういうのは日常だから。ちょっとやそっとの侮辱で怒っていたら、そのたびに死人を作らなきゃいけなくなってしまうわ」
それよりも、とエルは続ける。
気になったのは男の声が綴っていた言葉だ。
人殺し、という言葉をまだ幼い実の姪に向かってぶつけるなど。
とても正気の沙汰とは言いがたい。
誰か子供へ教育したのか知らないが、もう少しマシな人間を育てられなかったのか。あの世でも地獄でも天国でも、行けるのならば会いに行って、その辺りをぜひ尋ねたいくらいだ。
「――弟を殺した、とか言ってたけど。それは本当なの?」
「まさか! お嬢様達はそんな事をする子じゃありません!」
「じゃあ、あの二人に『弟』はいたのね。何かの暗喩ではなく『従弟』でもなく」
「はい、お二人には弟様がいらっしゃったんです。五つ下の。でもまだ言葉も話せない幼い頃に亡くなってしまわれてしまいました。お姉さんになれたと喜んでおられたのに……」
両親が外出中、姉妹のままごとに強制参加させられていた時に、ヨハンが気付いたらもう冷たくなっていたらしい。事件も事故の線も見えず、突然死という事で終わったそうだ。その頃から双子はおとなしく無口になり、当主夫妻も心配していたという。
幼い子供はどんな異変が起こるかなんて、専門家である医者でも予測できない。
それを姪が殺した、とする叔父叔母。
笑えない冗談だ。
そんな連中が彼女らを引き取ると言い張っているのだから、余計笑えない。
自分が出てきた意味は少しはあったとエルは思う。こんな連中に任せていたなら、確実に百年以内にこの一族は再び没落する事になる。それだけは何としてでも、阻止しなければ。
それからは話題を明るい方向へと持っていく。レナは仕事中に聞いたという話を、いろいろと話してくれた。最近のメイドはずいぶんおしゃべりだとエルは思う。
一通り話を聞き終わった頃には向こうも解散したらしく、怒鳴り声も何も聞こえてくる事は無かった。そしてちょうど完食してからになった食器を手にレナが去る。
残されたエルはミーシャが荷物から取り出した寝巻きに着替え、そのままベッドの中へと身体を沈めた。急な旅のせいだろう、身体はエルが思っていたよりずっと疲れていたらしい。
まるで引きずられるように、意識が底へ沈んでいった。