その婚約、解消する前に一度だけ本音でデートをしませんか
「君が苦しいなら、婚約を解消することも考えよう」
そう切り出したユスト様の膝の上で、革の手袋がくしゃりと握りつぶされた。
私はその強張った指先を見つめたまま、用意していた返事をすっかり失っていた。日曜日の朝から何度も頭の中で繰り返していたのは、両親が候補に挙げた婚礼の日取りへ、心からの喜びを込めて頷くための言葉だった。
ベレス伯爵家の娘である私と、リーデル伯爵家の嫡男であるユスト様が婚約を交わして3か月になる。家同士の紹介で顔を合わせた間柄とはいえ、私は彼に会える日を指折り数えて暮らしていた。
先月、散歩に誘われたときのことだ。領地から戻ったばかりの彼を気遣うつもりで、お疲れでしたらご無理はなさらないでくださいと手紙に書き添えたら、その日のうちに予定が取りやめになってしまった。それきり誘ってもらえなくなって、余計な遠慮を口にした自分をずっと悔やんでいた。
今日こそは、また一緒に出かけたいと素直に伝えるつもりだった。
ところが彼から結婚を負担に感じていないかと尋ねられ、私は動転して、お会いするたび緊張して上手にお話しできないのですと口走ってしまった。昨夜一生懸命に考えた話題も、彼の前に座ると頭から抜けてしまう。それを打ち明けて笑い合いたかったのに、喉が引きつって震えた声しか出なかった。
まさかその情けない一言が、婚約解消の話にまで届いてしまうとは思いもしなかった。
「私と会うのは、お嫌ですか」
喉の奥を押し開くようにして尋ねると、彼は視線を上げた。
「嫌なら、今日も来ていない」
「では、どうして」
「君が、いつも困ったように笑うからだ。今も」
言われて、自分の頬に指を当てた。引きつった筋肉が固まっていて、うまく動かない。触れた指先まで冷え切っていた。
泣いて引き止めたりしたら迷惑をかけてしまう。そうやって体面ばかり気にして、私はまた笑って誤魔化そうとしていたのだ。彼の手袋が、いっそう強く握り締められた。
私はこの人が好きだ。このまま帰したくない。
一度も本心を伝えないまま、物わかりのいい婚約者の顔をして終わるなんて御免だった。
「その婚約、解消する前に一度だけ本音でデートをしませんか」
彼の手がぴたりと止まった。
「今日、これから?」
「はい。私はまだ、あなたとしたいことがたくさんあります。今日だけは、遠慮を全部捨てて言ってみます」
勢いで口にしてしまうと急に気恥ずかしくなり、私はドレスのスカートを両手で握り込んだ。
「嫌なことは嫌とおっしゃってください。私も自分の口で伝えますから。……答えるのに時間がかかるときは、少し待っていただければ」
「待つ。出かけたい、君と」
私が言い終えるのを待たずに彼が立ち上がり、膝から滑り落ちた手袋を慌てて拾い上げた。
私もつられて立ち上がると、胸の奥で止まっていた息がようやく通った。
侍女を伴って街へ出た私たちが最初に向かったのは、川沿いにある菓子店だった。
馬車が止まり、ユスト様はいつもの礼儀正しさで先に降りて手を差し出してくれた。私の靴が石畳に着地した瞬間、彼は習慣通りに指をほどこうとする。
このあっけなく離される瞬間が寂しくて、以前はわざと裾を踏まないふりをしてゆっくり降りたこともあった。たった2段の踏み台で稼げる時間など、ほんの数秒にすぎない。
今日はその指を、離される前にしっかりとつかまえた。
「手をつないでください。馬車を降りたあとも」
彼が目を見開いて私を見る。ぽかんと開いた唇から言葉が出るまでの間に、耳の先がみるみる赤く染まっていった。
「ずっと、こうしたかった」
包み直された手は、普段の手袋越しに感じていたよりもずっと大きく、熱かった。指を絡めるように力を込めると、彼の手のひらが隙間なく重なり合ってくる。
「今まで離していたのは、どうしてですか」
「君が降りたあとも握っていたくて、いつも迷っていた。無理に触れて嫌がられたら困ると思って」
「私は、離されるたび寂しかったです」
彼は困ったように眉を下げ、繋いだ手元をしげしげと見つめた。
「それは……ひどい思い違いをさせていた」
「ですから、今日は離さないでください」
言えた。胸がすっと軽くなった。
嬉しくて少し体を寄せると、ユスト様も同じタイミングでこちらへ寄ってきた。最初の一歩で互いの靴先がぶつかり、2人揃って立ち止まってしまう。彼が小さく吹き出したのを見て、私も釣られて声を立てて笑った。
「まだ緊張する?」
今度は、取り繕わずに本音を口にできた。
「します。好きな方と手をつないでいますから」
自分で言いながら、耳の奥まで熱が駆け上がっていくのが分かった。ユスト様はその場に縫い止められたように立ち止まった。2回ほど瞬きをして、それから私の手を繋いだまま、空いた手で口元を覆った。
「僕もだ」
覆った指の隙間から、低く掠れた声が漏れ聞こえた。
「君が好きだ。だから今、上手く歩ける気がしない」
私は足元の石畳を見つめた。菓子店の扉まで、あと10歩ほどしかない。
あそこへ辿り着くだけで、私にとっても心臓が保たないような大仕事だった。
店の中庭に面した長椅子へ案内されると、ユスト様は向かいの席に腰を下ろしかけて、私の隣の空きスペースをじっと見た。
「そこへ座ってもいいだろうか」
私は抱えていた手提げを急いで膝へ引き寄せ、場所を空けた。隣に腰を下ろした彼の袖が触れると、反射的に背筋が伸びてしまう。彼も妙に姿勢を固くしていて、これでは優雅なお茶会というより作法の手ほどきを受けているようだ。
それでも、少しだけ隙間を詰めて座り直したのは、私のほうだった。
「杏の焼き菓子があるそうだ。食べてみたいと言っていたね」
「覚えていてくださったんですか」
「散歩に誘ったのは、ここへ連れてきたかったからだよ」
驚きのあまり、私は思わず彼の仕立てのいい上着の袖を掴んでいた。
「私、あの日も本当に行きたかったんです。ユスト様がお疲れだろうと勝手に遠慮してしまって」
「僕は、気が進まない口実として断られたのだとばかり思っていた」
彼はうなだれ、膝の上で両手を組み合わせた。
「今朝のことも、本当にすまない。君の本当の気持ちを確かめもしないで、解消だなんて言い出して」
「怖かったです。けれど私も、体面ばかり気にして何もお伝えしていませんでした」
注文を取りに来た給仕へ、私は名物の杏の焼き菓子と、彼が好む渋みの強い濃いお茶を頼んだ。ユスト様が目を丸くして私を見る。
「お砂糖はお入れになりませんよね」
「うん。……覚えていてくれたんだ」
さっきと同じ言葉を返し合って、私たちは顔を見合わせて笑った。
私ひとりが空回りしていたと思い込んでいた過去のお茶会を、彼もちゃんと大切に覚えていてくれたのだ。
「いつから、私のことを想ってくださっていたのですか」
ずっと聞きたかったけれど、恐ろしくて口にできなかった問いが自然とこぼれた。
ユスト様は卓上の木目をじっと見つめながら、最初に会った日、と静かに言った。
「果樹園の話をして、退屈させてしまったと思って途中でやめただろう。君は、接ぎ木した枝の話を最後まで聞きたいと言ってくれた」
「だって、1つの木に違う実がなるなんて不思議ですもの。もっと詳しく知りたかったんです」
「あのときから、君を連れてあちこち歩くことばかり考えていた」
運ばれてきた茶器の湯気の向こうで、彼がまっすぐに視線を上げた。
「本当は今日、婚礼の日を決めるのが楽しみで仕方なかったんだ。君と結婚したい」
私が手を伸ばすと、彼は迷わずそれを受け止めて握り締めてくれた。私は彼の灰色の瞳を見つめ返して頷いた。
「私も、ユスト様のお嫁さんになりたいです。婚約を解消するなんて絶対に嫌です」
彼が胸の奥から深い息を吐き出した。それまで呼吸を止めていたかのような張り詰め方だった。
彼は繋いだ手を持ち上げて自分の額に押し当て、それから噛み締めるように私を見た。空いた手でカップを取ろうとして器が小さく傾き、慌てて両手で支え直す。私はこぼれそうになった涙をまばたきで散らし、笑いながら手を添えた。
「まず、お茶をいただきましょうか」
「そうしよう。手は、このままでもいいか?」
私が頷くと、彼は器用に片手だけで器を持ち上げて口をつけた。
運ばれてきた杏の焼き菓子は、縁の焦げ目が香ばしく焼き上がっていた。
フォークで切り分けようとしたところで、ようやく2人とも手を離さなければ食べられない現実に直面した。食べ終えるまでですからね、と私が断りを入れると、ユスト様は真剣な面持ちで頷いた。
ひと口口に運んだ私を見て、彼の表情がふっと和らいだ。以前は目が合うと気まずそうに視線を逸らしていた人が、今日は目を逸らさずにじっと見つめてくる。
「そんなにおいしい?」
「はい。こちらの端のところが特に香ばしいです。召し上がってください」
私は彼のお皿へ、焼き色の濃い一片を切り分けて移した。私が大きめの実を口に運ぶと、彼は嬉しそうに目を細め、自分のお皿に残っていた杏の実までこちらへ寄越してきた。
「それでは、ユスト様の分がなくなってしまいます」
「君に食べてほしいんだ。甘いものを口に運んでいるとき、眉が下がるんだね」
そんな細かい癖まで見られていたのかと思うと、途端に気恥ずかしくなる。
慌てて眉間に指を伸ばすと、彼は私が引っ込めようとした手を空中で捕まえ、卓の上で優しく包み込んだ。
「そのままでいてほしい。見ていたいから」
皿の上にはまだ半分ほど菓子が残っている。これは、手を返してもらうまで食べ進めることができそうにない。
困ったような溜息を吐きながら、私も彼の指をぎゅっと握り返していた。
結局、お茶をもう1杯ずつお代わりして店を出た頃には、午後の日差しが傾き始めていた。
「夕食までは、まだ一緒にいてくださいますか」
川沿いの遊歩道へ足を踏み入れながら問いかけると、ユスト様は間を置かずに頷いた。
「帰したくなかった。もう少し歩こう」
初夏の川には小さな渡し舟が浮かび、岸壁に結ばれた太いロープが水面の揺れに合わせて張ったり緩んだりしている。
私はその舟を指差して、あれで向こう岸へ渡れるのでしょうか、と尋ねてみた。彼は船着き場の立て看板を確かめ、対岸には大きな書店もあると教えてくれた。
「挿絵の多い園芸の本を取り扱っている。接ぎ木の図解も載っているはずだ」
「見てみたいです」
「では……今日は戻る時刻が遅くなってしまうな。次に、朝から来ようか」
彼のほうから自然と次の約束を口にしてくれる。その事実があまりに嬉しくて頷くと、ユスト様は顔全体をほころばせて笑った。
少し先で道幅が広くなっても、私たちは肩が触れ合うほどの距離を保ったまま歩いた。数歩後ろをついてくる侍女へ目を向けると、彼女は日傘を持ち直し、心得たように小さく会釈した。
見守られているのは分かっているけれど、今は少しも離れたくなかった。
「ナディア」
唐突に名を呼ばれて、足が止まった。
それまではずっと、ナディア嬢と呼ばれていた。語尾の敬称が抜け落ちただけで、彼の声が直接耳元へ触れたような錯覚を覚える。
「こう呼んでも?」
「はい。私も、ユストとお呼びしたいです」
彼の唇が一度ぎゅっと結ばれた。何かを堪えるように待っていると、もう一度呼んでほしい、と掠れた声で請われた。
「ユスト」
改めて名を呼ぶと、彼はたまらないといった様子でうつむいてしまった。私の手を包む指だけが、愛おしそうにゆっくりと動いた。
私からも繋いだ手を少し揺らしてみせると、ユストは口元に柔らかな笑みを浮かべて顔を上げた。
西日に透けた彼の髪は、普段よりも淡い茶色に見える。初めて気づいたことを何気なく口にすると、ユストは私の髪も綺麗だと呟きながら、ためらいがちに手を伸ばしてきた。視線が絡み合い、私は自らほんの少し頭を傾けて寄せた。
風に乱れた前髪が耳の後ろへ払われ、指の背が頬をかすめる。彼はその手をすぐに引かず、親指の腹で耳の下をそっと撫でたあと、再び私の手を取り直した。
会話が途切れている間さえ、胸の中が忙しくて仕方がなかった。
邸へ戻ったとき、夕食の支度まではまだ十分な間があった。
私は侍女に庭で少し過ごすと伝えて、ユストを林檎の木の下に置かれた白いベンチへ誘った。青く若い実が葉の隙間に揺れていて、さっき川沿いで聞いた果樹園の話が思い出される。
隣へ腰を下ろしてから、私は片方の手袋を外した。
「あなたも、外していただけますか」
ユストは手首の留め具に指をかけたまま私を見つめた。私は手のひらを上に向けて差し出した。
「直接、触れてみたいんです」
彼が手袋を外す間、私は膝の上に置いた自分の手袋をそっと押さえ直した。つい数時間前までは、馬車を降りる数秒の接触を引き延ばそうとやきもきしていたのだ。その私が、今ではこんな図々しいお願いをしている。
差し出された素手へ指を重ねると、骨の節の硬さもじんわりとした体温も、布越しとはまるで比べものにならなかった。私が指先で彼の手のひらをなぞると、彼の肩が小さく跳ねた。
「くすぐったいですか」
「少し。だが、やめなくていい」
笑いながら指を絡め合わせる。彼も私の指の隙間へ自分の指を深く滑り込ませ、固く結んだ手を自分の膝の上へと引き寄せた。
普段の距離なら見上げるはずのシャツの襟元が、すぐ目の前にある。そこから視線を持ち上げると、彼はすでに熱のこもった瞳で私を見つめていた。
「ナディア。抱きしめてもいい?」
喉の奥で息が詰まった。
今日したいことは自分から一つずつ伝えるつもりでいた。しかし、彼から先に乞われることまで頭が回っていなかったのだ。
「少し、待ってください」
彼は静かに頷き、繋いだ手に優しく力を込めたまま待ってくれた。私は胸いっぱいに空気を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。ユストの上着の襟がわずかに歪んでいたので、空いた手でそっと整える。近づくための口実がどうしても欲しかった。
「もう、大丈夫です」
自分から肩を寄せると、力強い腕が背中へと回ってきた。
想像していたよりもずっと強く抱き寄せられ、私は彼の上着の布地をぎゅっと掴んだ。頬が胸板に押し当てられ、その奥でトクトクと速い鐘のように打ち鳴らされている鼓動が直に響いてくる。しばらく耳を澄ませてから、少し腕の力を緩めた彼へ、私はもう一度すがりつくように身を寄せた。
「もう少し、このままで」
「うん。僕も、ずっとこうしていたい」
呟きとともに、私の頭の上へ彼の顎がそっと重なった。
今日はずっと彼の顔を正面から見ていようと思っていたのに、こうして腕の中に収まってしまうと身動きが取れない。襟の生地が頬に触れて少しくすぐったく、息を吸うたびにユストの胸が上下する。そのすべてが愛おしくてたまらなかった。
「明日、目が覚めてもこの温もりを思い出すと思います」
「僕は、今夜眠る前から思い返すだろうな」
「ちゃんとお休みになってくださいね」
「君もね」
顔を見合わせて笑い合い、私は彼の肩口へ額を預けた。
お日様の匂いがした。初めて会った日に遠い席から聞いていた果樹園の話も、これからはこんなふうに寄り添いながら聞くことができるのだと確信した。
木漏れ日の影が芝生の上を長く伸ばし、邸の窓に燭台を灯す使用人の人影が映った。
そろそろ身だしなみを整えに戻らなければならない。そう分かった瞬間、言いそびれていた最後のお願いが急激に惜しくなった。
「ユスト、あの」
「うん?」
「口づけも、していただきたいです」
私の背中に添えられていた彼の手がぴくりと止まった。
私は彼の上着を握りしめたまま、勇気を振り絞って顔を上げた。言えたことには安堵したものの、ここから先の展開を思うと心臓が破裂しそうだ。
「ここで?」
「はい」
ユストは邸の窓のほうを一度気にするように見やり、それから覚悟を決めたように私へと向き直った。間近に迫ってくる端正な顔立ちを直視できなくなり、ぎゅっと目を閉じると、頬に温かい指先が触れた。
唇の上に、ごく短く、吸い付くような熱い感触が落ちてきた。
恐る恐る目を開けたとき、彼の顔はまだ吐息が触れ合うほどの位置にあった。灰色の瞳が私の唇から瞳へとゆっくり戻ってきて、私は何を言うつもりだったのか頭の中が真っ白になった。
上着を掴んでいた指を解こうとすると、ユストがその手の上から自分の手を重ねてきた。
「……大丈夫?」
私は小さく頷いてから、少しでも強がりたくて唇を開いた。
「次は、もう少し落ち着いて受けることができると思います」
口にしてから、自分から次の機会をねだってしまったことに気づいた。
ユストも同じことに気づいたのだろう。重ねられた手へぐっと力が込められた。
「また、してもいい?」
私は今度は目を逸らさず、彼の目を見て頷いた。
「帰られる前に」
約束を交わした瞬間、庭へ夕食の準備が整ったことを知らせる使用人の声が響き、私たちは弾かれたようにベンチから立ち上がった。
ベンチに落ちていた手袋を拾おうとして互いの手がぶつかり合う。ユストが私の分を拾い上げて手渡してくれたとき、さっき触れ合ったばかりの唇が悪戯っぽく笑ったので、私はお礼の言葉を絞り出すだけで精いっぱいだった。
夕食の席に着くと、母は私の紅潮した顔をじっと見つめ、それから隣に座るユストへ視線を移した。私たちが普段より隙間なく寄り添って座っていることに勘づいたのだろう。母は悪戯めいた笑みを浮かべたものの、無粋な詮索はせず、給仕へ水差しを渡した。
食事が進み、父が6週間後に控えた婚礼の話題を切り出したとき、私は膝の上で握りしめていた手を開いた。
「お父様。私、ユスト様と結婚したいです。このまま、ぜひ支度を進めてください」
父が私の決意に満ちた目をしっかりと見つめて頷いた。隣でユストも居住まいを正し、力強い声で言葉を重ねた。
「僕もナディアと結婚したいです。どうかよろしくお願いします」
同席していたリーデル伯爵が満足げに微笑み、父と杯を交わした。母は明日一番に仕立屋へ使いを出しましょうと言って、婚礼衣装に使うレースの選定について楽しそうに語り始めた。
私は相槌を打ちながら、隣のユストを盗み見た。視線に気づいた彼の口元が柔らかく緩む。家族の前でそんな甘い顔を向けられたら、こちらの口元まで緩んでしまう。
今朝までの私なら、彼の返事が簡潔すぎるだとか、こちらを見てくれないだとか、そんな些細なことばかりに怯えていただろう。今は母の話に耳を傾ける彼の横顔を眺めながら、玄関先で交わした約束のことで頭がいっぱいだった。
皿が下げられていくにつれて、約束の時間が近づく期待と、今日という日が終わってしまう名残惜しさが胸の中でせめぎ合っていた。
玄関ホールで両親への丁寧な挨拶を終えたユストを、私は庭に面した柱廊の影へ呼び止めた。迎えの馬車は門の内側で静かに待機しており、御者が馬の首元を優しく撫でているのが見える。
「お帰りになる前のお約束、まだ果たしていただいていません」
振り返った彼へ告げると、ユストは手に持っていた手袋を上着のポケットへと無造作に押し込んだ。
「忘れるはずがないだろう。夕食の間もずっと頭から離れなかった」
同じ気持ちでいてくれたことが可笑しくて、胸がくすぐったくなった。笑みを零しながら歩み寄ると、彼が大きな両手で私の両頬を包み込んできた。
今度は私も逃げずに顔を上げた。そっと触れ合わされた唇の温もりに吐息を漏らすと、腰を引き寄せる彼の腕に一段と力がこもる。私も彼の背中へ腕を回し、唇が離れたあともそのまま彼の胸元へ顔を埋めた。
昼間の怯えていた自分に教えてやりたい。
手をつないでほしいと、ちゃんと口に出してごらんと。あなたが想っている人は、帰りの馬車を待たせてしまうくらい、強い力で抱きしめ返してくれるのだから。
「次の日曜日も、お会いしたいです」
胸の中から見上げて頼むと、ユストは私の髪を愛おしそうに梳いた。
「朝から迎えに来る。川向こうの書店へ行こう。9時では早すぎるだろうか」
「楽しみで、もっと早く目が覚めてしまいます」
「では8時半にしよう」
「ユストの朝が早くなってしまいますけれど、大丈夫ですか」
彼は小さく笑って、額を私の額へとこつんと押し当ててきた。
「早く会いたいんだよ、ナディア」
私は彼の背中で指をきつく握りしめ、それから顔を上げた。
「では、8時半にお待ちしています。私も早く会いたいです」
名残惜しさに耐えかねてようやく腕を解くと、彼は私の手を取ったまま歩き出した。見送りは柱廊までのつもりだったのに、彼の手を引かれるまま、馬車のすぐ脇まで歩いてきてしまった。
乗り込むために一度離された手が、名残を惜しむようにもう一度戻ってきて私の頬へ触れた。そのせいで、お別れの挨拶を口にするのがまた少し遅れてしまった。
次の日曜日、私は8時を回る前から部屋の窓辺に張り付いて外の景色を眺めていた。
まだ早いですよ、と侍女に2度たしなめられ、3度目の注意を受ける前に、石畳を叩くリズミカルな馬車の車輪の音が聞こえてきた。
階段を駆け下りたところで、玄関扉を開けて入ってきたユストと鉢合わせになった。ドレスの襟元を整える暇もなく駆け寄ると、彼は私へ向けて両腕を広げてくれた。
「会いたかった」
私もです、と答えながらその胸へ飛び込んだ。彼は短く強く私を抱きしめたあと、少しだけ体を引いて私の顔を覗き込んできた。
「今日は最初から笑って迎えてくれると思っていた」
「先週も、たくさん笑いました」
「うん。だから、その笑顔をまた早く見たかったんだ」
私は彼の上着の袖口をぎゅっと掴んだ。顔が真っ赤になっている自覚はあったけれど、今度は下を向かずに笑っていられた。
出かける準備はとっくに整っていた。侍女が日傘を取りに戻るわずかな間に、ユストは私の手を自然な仕草で自分の腕へと導いた。
今日は川を渡って本を選び、帰り道にはまたあの店で杏の焼き菓子を食べよう。そう楽しげに語る彼へ、私は、果樹園にもいつか必ず連れていってください、と甘えるようにねだった。
「もちろん連れていく。実が熟す頃には、君も僕の家にいるのだから」
私は力強く頷いて、彼の腕へしっかりと体を寄り添わせた。婚礼までの5週間という日数が、待ち遠しくてたまらなくなった。
川沿いで馬車を降りたあとも、ユストは私の手を離さなかった。
私も、彼の指の隙間へ自分の指を深く滑り込ませた。
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