捨てられ眠り姫は、不眠症の冷酷騎士団長に拾われる〜「一生働かなくていい」と抱き枕として溺愛されているので、今さら元婚約者が泣きついてきても絶対に起きません!〜
冷たいオフィスのデスクで突っ伏したまま、彼女の前の人生は終わった。
連日の徹夜、鳴り止まない電話、終わりの見えないタスク。
「……もう、疲れた。ずっと、眠っていたい……」
それが、社畜として過労死した彼女の、最期の願いだった。
だから、リサリア・フォン・アルジェントという公爵令嬢として目を覚ました時、決めたのだ。
今世では絶対に働かない。ただひたすらに、静かな眠りを貪ろうと。
……なのに。すぐに、王太子の婚約者になった。
つまり、未来の王妃だ。
(ぜんっぜん嬉しくない!!)
王妃教育は激務だし、寝てたら怒られるし。
王太子の執務室では、愚痴を聞かされるし。
良いことなんて一つもない。
ただ、眠りたいだけなのに。
だから……こうなったのは願いが叶ったとも言える。
◯
ガタゴトと揺れる馬車の中で、リサリアはぼんやりと薄目を開けた。
外はすでに暗く、不気味な獣の遠吠えが聞こえる。辺境に広がる『死の森』だ。
本来なら、婚約者である王太子の地方視察に同行し、同じ馬車に乗っているはずだった。
しかし、途中の休憩で「お前は別の荷馬車に乗れ。常に微睡んでいるその顔を見るだけで苛立たしい」と冷たく言い放たれたのだ。
王太子にとって、リサリアはただの『飾りの人形』だった。
政略のために婚約したものの、夜会でも公務でも、隙あらばウトウトしている彼女をひどく嫌悪していた。
だが、王太子がどれほど冷たい言葉で罵倒しようと、側近たちが蔑むような目を向けようと、リサリアの心は常に凪いでいた。
悲しくもないし、悔しくもない。
(どうせ起きていると疲れるし、寝かせてくれるならなんでもいいや)
そんな、極端に能天気で、すべてを投げ出したような思考が彼女の根底にあったからだ。
『――ここで切り離せ。傾斜で馬車ごと森の奥へ落ちるように細工しろ』
『よろしいのですか?』
『構わん。ここは夜の死の森だ、魔物の餌食になるだろう。不運な落輪事故として処理すればいい。あの目障りな居眠り女がいなくなるなら、安いものだ』
外から、雨音に紛れて物騒な声が聞こえた気がした。
直後、ガクンと大きな衝撃があり、リサリアの乗る小さな馬車は街道から外れ、斜面を滑り落ちていく。
激しい揺れと、木々にぶつかる凄まじい音。
やがて馬車は完全に横転し、大きな音を立てて静止した。
「……んん……」
投げ出されたリサリアは、冷たい土とふかふかの苔の上で身を丸めた。
見捨てられたのだ。事故に見せかけて、暗い森の底に捨てられた。
普通ならパニックになり、恐怖で泣き叫ぶ状況だろう。
しかし、リサリアの脳裏に浮かんだのは、全く別の感情だった。
(……あ、馬車の揺れが止まった。静かだ……)
王太子の甲高い小言も聞こえない。無理やり起こしてくる意地悪な侍女もいない。
ひんやりとした森の空気は、火照った体を冷やしてくれて、思いのほか心地よかった。
(お城のベッドじゃないのは残念だけど……まあいいや。これでもう、誰にも邪魔されずに眠れる……)
命の危機よりも、睡眠欲。
前世のトラウマからくる圧倒的な『眠りへの執着』は、死の恐怖すらも軽く凌駕していた。
リサリアは、暗闇の奥から近づいてくる魔物の気配にも気にも留めず、ただ幸せそうな寝息を立て始めたのだった。
◯
その頃、『死の森』の奥深くでは、濃密な血の匂いと圧倒的な殺気が渦巻いていた。
「……チッ。次から次へと、鬱陶しい」
国最強の武力を持つ王属騎士団長、ゼルディアス・ヴァン・クロムウェル。
『氷の狂戦士』と恐れられる彼の美しい銀色の髪は魔物の返り血で汚れ、氷のように冷たい瞳の奥には、どす黒い苛立ちが渦巻いていた。
(頭が、割れるように痛い……)
五年間、強大な魔物を討伐した際に受けた『呪い』。
それ以来、ゼルディアスは一睡もできていない。
目を閉じても脳が焼き切れるような激痛に襲われ、常に神経が張り詰めた状態が続いている。限界をとっくに超えた精神を、強靭な魔力と気力だけで無理やり繋ぎ止めている状態だった。
眠れない苦痛を少しでも紛らわすため、彼は夜な夜なこうして危険な森へ入り、魔物を狩り続けていたのだ。
ふと、木々の隙間から異様な光景が目に飛び込んできた。
横転し、大破した貴族の馬車。
そしてその傍ら、冷たい土と苔の上に、豪奢なドレスを着た一人の令嬢が倒れていた。
その背後から、巨大な漆黒の狼が、ヨダレを垂らして彼女の細い首筋に狙いを定めている。
「……ッ」
ゼルディアスは舌打ちと共に地を蹴り、瞬きする間に狼の首を刎ね飛ばした。
ドスッ、と重い音を立てて魔物が崩れ落ちる。
間一髪だった。
ゼルディアスは剣の血振るいをし、無表情のまま倒れている令嬢を見下ろした。
「……おい。生きているか」
声をかけるが、返事はない。
微かに胸が上下している。息はあるようだ。呪いか毒でも受けているのか。
そう思い、ゼルディアスが彼女の華奢な肩に手を伸ばし、触れた――その瞬間だった。
「……なっ!?」
ビクン、とゼルディアスの屈強な体が大きく震えた。
触れた指先から、ありえないほど温かく、そして圧倒的な『浄化の力』が流れ込んできたのだ。
五年間、彼の脳と魂にこびりついて離れなかった『不眠の呪い』の黒い靄が、春の雪解けのように一瞬で消え去っていく。
代わりに押し寄せてきたのは、五年分の、暴力的なまでの『睡魔』だった。
「……くっ、なんだこれは……急激な、睡魔……!?」
五年間、どんな強い睡眠薬や魔法でもピクリともしなかった彼の脳が、甘く麻痺していく。立っていることすら困難なほどの強烈な眠りへの誘惑。
そのまま意識を手放しそうになるが、ゼルディアスは舌を強く噛み、血の味と鋭い痛みで無理やり意識を繋ぎ止めた。
(……ここで眠るわけにはいかない。ここは魔物の巣窟だ。俺が倒れれば、この令嬢が喰われる)
最強の騎士団長としての矜持が、崩れ落ちそうな体を支えさせた。
彼は震える腕で、苔の上でスヤスヤと眠る令嬢を軽々と抱き上げる。
「すぅ……すぅ……」
腕の中に収まった彼女から発せられる心地よい体温と、甘い香り。密着したことで、睡魔はさらに何倍にも跳ね上がる。限界をとうに超えたゼルディアスの理性が、悲鳴を上げていた。
「……少しの辛抱だ。頼むから、これ以上俺を狂わせるな……」
荒い息を吐きながら、彼は死に物狂いで駆け出した。
すぐ近くにあった岩穴に飛び込み、残された全魔力を振り絞って、入り口に強固な防衛結界を何重にも張り巡らせる。
外からの脅威を完全に遮断したことを確認し、彼女をそっと地面に降ろそうとした――が、できなかった。
限界だった。五年分の呪いの反動と、圧倒的な安らぎ。
何より、この温もりを一度手放してしまえば、二度と手に入らないのではないかという本能的な恐怖が彼を支配した。
「……もう、絶対に逃がさんぞ……」
ゼルディアスは彼女を腕の中にすっぽりと収めたまま、岩肌に背を預けて座り込んだ。
そして、終わらない砂漠で見つけた唯一のオアシスにすがりつくように、彼女の小さな体をガッチリと抱きしめる。
「んん……あったかい……」
寝ぼけて身をすり寄せてくる彼女の柔らかさに絶望的なまでの幸福を感じながら、最強の騎士は深い深い眠りの底へと落ちていったのだった。
◯
小鳥のさえずりと、葉擦れの音。そして、背中をすっぽりと包み込む異常なまでの温もり。
リサリアは心地よい微睡みの中で、ゆっくりと意識を浮上させた。
(……あれ? おかしいな。森の冷たい土の上って、こんなにふかふかで温かかったっけ……?)
まるで最高級の羽毛布団に包まれているような感覚。おまけに、背後には特大の湯たんぽまでぴったりと添えられている。前世の安アパートでも、王宮の冷たいベッドでも味わったことのない極上の寝心地だった。
「……んんっ」
もう少しこのままでいようと身をよじった瞬間。
ガシッ、と。
背後の特大湯たんぽが、信じられないほどの力でリサリアの腰を引き寄せた。
「……っ! どこへ行く気だ」
頭上から降ってきたのは、低く、酷く掠れた男の声だった。
バチッと目が覚めたリサリアが恐る恐る見上げると、そこには信じられないほど整った顔立ちの美丈夫がいた。
魔物の返り血に染まった銀色の髪。氷のように冷たく、美しい瞳。
(……えっ。嘘でしょ、この顔、一度だけ式典で見たことある……!)
リサリアの背筋が凍りついた。
間違いない。彼は王属騎士団長、ゼルディアス・ヴァン・クロムウェル。
『氷の狂戦士』と呼ばれ、敵はおろか味方でさえ震え上がるほどの威圧感を放つ、冷酷無比な最強の騎士だ。
“彼の前で無能な振る舞いをすれば、一瞬で首が飛ぶ”という恐ろしい噂は、居眠りばかりしていたリサリアの耳にも届いていた。
「ヒィッ……!!」
(なんでそんなヤバい人が、魔物の森で私を抱きしめて寝てるの!? まさか、このまま押しつぶす気!?)
激しい動揺とパニックに襲われ、リサリアはバタバタと腕の中でもがいた。
「わ、私はただの通りすがりの不法投棄された令嬢で……っ、お、お命だけはご勘弁を……!」
「……暴れるな。駄目だ、絶対に離さん」
「ひぃん!」
命乞いも虚しく、ゼルディアスはリサリアを逃さぬよう、さらにギュッと抱きしめてきた。
スンスン、と匂いを嗅ぐような仕草までしている。
冷酷無比なはずの騎士団長の、あまりにも予想外な行動に、リサリアの動揺は頂点に達した。
(なにこれ!? 狂戦士が大型犬みたいになってるんだけど!?)
状況が全く飲み込めないリサリアをよそに、ゼルディアスは自分自身の体に起きている信じられない変化に戦慄していた。
五年間、彼を蝕み続けていた『不眠の呪い』の気配が、欠片すら残っていない。
そして何より、この華奢な令嬢から発せられる体温と甘い香りが、ゼルディアスの渇ききった精神を深く満たしていた。
「お前は俺の命綱だ。一ミリたりとも離すつもりはない」
「い、命綱って……あの、私、これから辺境の古い修道院に行って、一生誰にも邪魔されずに寝て暮らす予定なんですけど……」
「修道院など行かせるか。そんな隙間風の吹く場所で、安眠できるはずがないだろう」
「いや、私は寝られればどこでもいいので……」
事実、今にも魔物に殺されそうな状況でも寝ていたリサリアである。
「眠るのが好きなのだな。なら……」
ゼルディアスはバッと顔を上げ、真剣な、しかしどこか狂気を孕んだ瞳でリサリアを見つめた。
「俺の砦へ来い。最高級の天蓋付きベッドと、専属の料理人、着心地の良いシルクの寝間着を用意しよう。お前は一切働く必要はない。一日中、好きなだけ寝ていていい」
「……えっ?」
「その代わり――毎晩、俺の隣で寝ろ。俺の抱き枕として、生涯俺にその安らぎを与え続けろ」
それは、冷酷無比と恐れられる最強騎士による、あまりにも強引で、しかしリサリアにとっては魅力すぎる『契約』の申し出だった。
(……え。ちょっと待って)
動揺でパニックになっていたリサリアの脳髄に、働かなくていい、最高級のベッド、というワードが突き刺さる。
過労死のトラウマを抱える元社畜にとって、それは恐怖をあっさりと塗り潰すほどの天啓だった。
「……ずっと寝てていいんですよね?」
「ああ。俺の命にかけて誓おう。誰にもお前の眠りは邪魔させないし、俺がすべてから守り抜く」
「やります!!」
こうして、理不尽に追放され、冷酷無比な騎士に怯えていたはずの令嬢は、自らの安眠のためにあっさりと警戒心を捨て、極楽ニート生活への切符を手に入れたのだった。
◯
国境を守る要衝、黒鉄の砦。
ここに駐屯する王属騎士団の面々は、朝から異常な緊張感に包まれていた。
「……なぁ、団長はまだ戻られないのか?」
「ああ。昨晩も『呪い』の発作が酷そうだったからな……。今頃、森の魔物は全滅してるんじゃねぇか?」
騎士たちがヒソヒソと囁き交わす。
彼らの上司、ゼルディアス・ヴァン・クロムウェルは、最強だが最恐の団長だ。五年前から続く不眠の呪いのせいで、ここ最近は常に殺気を撒き散らし、近づくことすら命がけだったのだ。
その時、砦の巨大な正門がゆっくりと開いた。
「だ、団長が帰還されたぞーっ!!」
見張りの兵の声に、騎士たちが一斉に整列する。いつものように、返り血を浴びて不機嫌極まりない団長が、魔物の首でも引きずって現れるのだと、全員が身構えた。
だが、現れたゼルディアスの姿に、砦中の時間が凍りついた。
「…………え?」
誰かが呆けた声を上げた。
整列していた数百人の騎士たちが、一斉に目玉を飛び出さんばかりに驚愕する。
そこには、返り血こそ浴びているものの、ここ五年で見たことがないほどスッキリとした、ツヤツヤの顔をしたゼルディアスが立っていた。目の下の死相のようなクマは綺麗さっぱり消え失せ、纏うオーラも氷のような殺気ではなく、どこか春の陽だまりのように穏やかだ。
そして何より。
その最強の腕の中には、ボロボロのドレスを着た、身元のわからない令嬢が、大事そうにお姫様抱っこで抱えられていた。
「だ、団長……? その方は……?」
恐る恐る声をかけたのは、副団長のギデオンだ。
ゼルディアスはギデオンを一瞥すると、人差し指を唇に当て、砦中に響き渡るような美声で、しかし酷く静かに囁いた。
「静かにしろ。俺の命綱が起きるだろう」
「い、命綱……?」
騎士たちの心の声が一致し、ギデオンだけが声を発した。
見れば、腕の中の令嬢は、ゼルディアスの胸に顔を埋め、すやすやと眠りについている。
(……あれ。この人、本当に『冷酷無比』なのかな?)
一瞬目を覚ましたリサリアは、ゼルディアスの腕の中でぼんやりと考えていた。
『氷の狂戦士』という噂の割には、抱き上げ方は驚くほど丁寧だし、部下に向けた「静かにしろ」という声も、私を起こさないための気遣いに満ちていた気がする。
(まぁ、どっちでもいいや。一生働かなくていいって言ったし、好きなだけ寝よう……)
リサリアは再び警戒心をゴミ箱に捨て、心地よい揺れに身を任せて二度寝をキメた。
ゼルディアスは、呆然と立ち尽くす部下たちを無視して、大股で砦の奥へと進む。向かう先は、団長専用の最上階の部屋だ。
「ギデオン。今すぐ俺の部屋のベッドに、最高級の羽毛布団とシルクのシーツを用意しろ。既存のものは硬すぎる、すべて捨てろ。あと、彼女が起きたら最高に消化に良くて美味い粥を作らせろ。腕利きの料理人を出せ。それから……」
「は、はいっ!? 団長、落ち着いてください! あの、その令嬢はいったい……」
「俺の妻だ。文句がある奴は前に出ろ、微塵切りにしてやる」
「「「「「「「「結婚したァァァァァァァッ!!???」」」」」」」」
砦中に、騎士たちの魂の叫びが木霊した。
昨晩、魔物討伐に行ったはずの団長が、朝戻ってきたら、ツヤツヤの顔で妻(爆睡)を連れてきたのだ。
驚くのも無理はない。
――数分後。
大急ぎで用意された、雲のようにふかふかのベッドに横たえられたリサリアは、人生で一番幸せな瞬間を迎えていた。
「……んあぁ……天国……」
シルクのシーツの肌触り、体が沈み込むような羽毛の柔らかさ。
前世のブラック企業時代のパイプ椅子や、公爵家の少し硬いベッドとは比べ物にならない。
ゼルディアスの私室には、つい先程までベッドはなかった。当然だ、眠れないのだから。
それが今や、部屋の面積の大部分をベッドが占めている。
「気に入ったか?」
傍らに座ったゼルディアスが、慈愛に満ちた表情で、リサリアの髪を優しく撫でる。
「はい……最高です……就職してよかった……」
「そうか。ならば、約束通り、好きなだけここで寝るといい。俺もお前の隣で、五年の遅れを取り戻すほど眠らせてもらう」
ゼルディアスはそう言うと、自分もドレスを脱いだリサリアの隣に滑り込み、ごく自然に彼女を抱き枕としてホールドした。
(……え? めっちゃ抱きついてくる。……まぁ、いっか。あったかいし)
リサリアは、最強の騎士団長に抱きしめられながら、秒速で深い深い眠りに落ちていった。
こうして、元社畜OLによる、異世界での『エクストリーム抱き枕ニート生活』が、本格的に始まったのである。
◯
辺境の『黒鉄の砦』での生活が始まって、一週間が経った。
「……んあぁ、今日も最高の朝……。二度寝しよ……」
最高級の羽毛布団に包まれ、リサリアは幸せに満ちた寝息を漏らす。
ここは天国だ。嫌味な王太子の声も、分厚い王妃教育のテキストもない。
ただふかふかのベッドでゴロゴロしているだけで、美味しいご飯が出てきて、砦の騎士たちからはなぜか“聖女様”と崇め奉られている。
なにやら、リサリアのおかげでゼルディアスの機嫌がいいらしい。
リサリアが来る前は、睡眠不足で常にイライラしていたのだから。
「おはよう、リサリア。今日もいい眠り様だ。今は夜だが」
「……ん……ゼルディアス様、おはようございます……すぅ……」
「はは、また寝るのか。いいぞ、そのまま俺の腕の中にいろ。俺も寝る」
冷酷無比な『氷の狂戦士』と恐れられる騎士団長ゼルディアスは、リサリアに対しては甘やかしの化身と化していた。
彼の体温と広い胸板は、前世の安アパートのペラペラな布団とは比べ物にならないほどの安心感を与えてくれる。
(最高の雇用主……いや、最高のベッドだね。一生ここでニートしよ……)
平和で、怠惰で、極上の日々。
ずっとこれが続けばいい。本気でそう思っていた。
「……ぁ……っ……」
隣から聞こえる苦しげな呻き声に、リサリアは浅い眠りの中で眉を寄せた。
いつもならガッチリと私をホールドして離さない太い腕が、小刻みに震えている。
微かに目を開けると、ゼルディアスが脂汗を浮かべ、ひどくうなされていた。
「……駄目だ……死なせるわけには……俺が、斬らねば……っ!」
悲痛な声だった。
五年間、彼を苛み続けた『不眠の呪い』自体は、既に消えている。
しかし、彼が眠れぬまま魔物を殺し続けた記憶は、深いトラウマとなって彼の魂にこびりついていたのだ。
限界を超えた精神で、味方を守るために剣を振るい続けた孤独な狂戦士。その深い傷が、今になって悪夢となって彼を苦しめている。
「……うぁっ……!」
ギリッと歯を食いしばり、苦痛に顔を歪めるゼルディアス。
普通ならここで飛び起きて、と声をかけるべき場面だろう。
だが、前世のブラック企業で心身ともにすり減らし、睡眠至上主義に行き着いたリサリアの思考回路は、少し違っていた。
(……この湯たんぽ、震えてて全然落ち着かない。これじゃあ、私もゆっくり眠れないじゃない)
安眠を脅かされるのは死活問題だ。
それに……毎日甘やかしてくれて、こんなにふかふかのベッドを与えてくれた大恩人が、寝苦しそうにしているのはなんだか無性に腹が立つ。
せっかくの安眠の時間を邪魔する悪夢なんて、全部追い出してやる。
「……んん……」
リサリアは目を閉じたまま、寝返りを打つようにしてゼルディアスの広い胸にすり寄った。
そして、彼の背中に腕を回し、ギュッと抱きしめ返す。
「……リサ、リア……?」
「……うるさいなぁ……こわいものは、もういないよ……」
寝ぼけた声で呟きながら、子供を寝かしつけるように、彼の背中をトントン、と一定のリズムで叩く。
「……あったかいお布団で、一緒にねんねしよ……よし、よし……」
ゼルディアスにゆっくり眠ってほしい。そうすれば自分も眠れるから。
その極めて自分勝手で、けれど純粋な安眠への祈りに呼応するように、リサリアの体からこれまで以上に強く、温かい浄化のオーラが溢れ出した。
それは、血と泥に塗れた悪夢の景色を、春の木漏れ日のように優しく塗り潰していく。
「あ……」
ゼルディアスの震えが、ピタリと止まった。
険しかった眉間のシワが解け、強張っていた全身からふっと力が抜ける。
「……すぅ……」
リサリアがさらに強く抱きついて寝息を立て始めると、彼もまた、何かに縋るように彼女の背中に腕を回し、今度こそ深く、穏やかな眠りの底へと落ちていった。
◯
翌朝。
目を覚ましたゼルディアスは、自分の胸の中で丸くなっている愛しい存在を見つめていた。
(……彼女が、俺の悪夢を祓ってくれたのか)
昨晩、完全に意識を手放していたはずの彼女が、無意識に自分を抱きしめ、背中を叩いてくれた感触が確かに残っている。
最初はただ安らぎを得るため、自分の利己的な理由でこの手を引いた。
だが、彼女は自分に本当の救いを与えてくれたのだ。
「……ああ、駄目だ。こんなに愛らしい寝顔があるだなんて」
ただの執着が、明確な熱を伴った深い愛情へと変わった瞬間だった。
ゼルディアスは、リサリアの額に、宝物に触れるようにそっと唇を落とした。
「んん……朝……?」
ちょうどその時、リサリアがゆっくりと瞼を開けた。
そして、寝ぼけ眼に映った景色に、心臓がトクン、と大きく跳ねた。
「おはよう、俺の可愛い眠り姫。昨日は、君に救われた」
そこには、恐ろしい『氷の狂戦士』の面影など微塵もない、あまりにも優しく、甘く、そしてどこか熱を帯びた瞳で微笑む最強騎士の姿があった。
朝日に照らされたその笑顔は、息を呑むほど美しかった。
(……あれ。この人、こんなに綺麗な顔で笑うんだ……)
ただの利害一致の「最高級のベッド」だと思っていた。
けれど今、彼の腕の中にいることが、何よりも心地よくて、胸の奥がくすぐったい。
「……おはようございます、ゼルディアス様」
「今日も一日、俺のそばでゆっくり眠るといい。君の安眠は、俺が一生かけて守り抜こう」
「……はいっ」
リサリアは、少しだけ赤くなった頬をごまかすように、再び彼の胸の中に顔を埋めた。
◯
王都、王宮の執務室。
王太子シーザーは、ズキズキと脳髄を割るような頭痛に顔を歪めながら、羽ペンを乱暴にインク壺に突っ込んだ。
「……計算が合わん。なぜ先月の三倍も処理に時間がかかっている」
苛立ちとともに吐き出された声は、ひどく掠れていた。
目の下には濃い隈が浮かび、完璧に撫でつけられていたはずの金髪も今は乱れている。
シーザーは優秀な王太子だ。政務処理能力は高く、常に冷静沈着。
だからこそ、ここ数週間の王宮内の異常な効率低下に誰よりも早く気づき、そして苦しめられていた。
文官たちが次々と謎の体調不良で倒れ、側近たちは些細なことで口論を繰り返す。
何より、シーザー自身が数日間まともに眠れておらず、慢性的な疲労と凄まじいストレスで胃に穴が開きそうだった。
「シーザー様ぁ……。またお仕事ですか? 私、新しいドレスのことでご相談が……」
「……下がれ、マリアンヌ。今は目障りだ」
執務室に入ってきた新たな婚約者……可憐な子爵令嬢を一瞥もせず、シーザーは冷酷な声で追い払った。
「えっ……でも、私のこと癒やしだって……」
「耳が聞こえんのか? 疲労で頭が割れそうなのだ。甲高い声で騒ぎ立てるな」
ぞっとするような冷たい視線を向けられ、男爵令嬢はヒッと喉を鳴らして逃げるように退室していった。
シーザーはため息をつき、こめかみを揉む。
彼女を愛していたわけではない。
ただ、常に自分の意見を肯定し、健気に振る舞う彼女の方が、どこでも居眠りをするリサリアより飾りとして有用だと計算しただけだった。
(……リサリア。そう、あの女だ)
シーザーは、明晰な頭脳でここ数週間の出来事を整理する。
この原因不明の疲労とストレスの蔓延。それが始まったのは、間違いなくリサリアを死の森で処理した翌日からだ。
かつて、彼がどれだけ厳しい言葉で詰っても、彼女は怒りも悲しみもせず、ただ静かに凪いだ瞳をしていた。そして、すぐにウトウトと微睡み始めた。
(……まさか。あの居眠りは、ただの怠惰ではなかったというのか?)
思い返せば、リサリアが執務室のソファで寝ている間、シーザーはどれだけ深夜まで仕事をしても全く疲れを感じなかった。
頭は冴え渡り、心は常に穏やかだった。
彼女がいたから自分が優秀に立ち回れていたわけではない。
だが、彼女の睡眠自体が、広範囲に及ぶ精神安定と疲労回復の魔術の類だったとしたら?
「……馬鹿な。私は、あの規格外の恩恵を自ら手放したというのか……?」
ギリッ、とシーザーは歯を食いしばる。
有能ゆえに、彼は自らの致命的な誤算に辿り着いてしまった。
あの女はただの人形ではない。国を裏から支えるほどの、歩く聖域だったのだ。
コンコン、と控えめなノックと共に、側近の一人が青ざめた顔で入室してきた。
「で、殿下。辺境の『黒鉄の砦』より報告が……。ゼルディアス騎士団長が、森で身元不明の令嬢を保護し、自らの妻として囲っていると……」
「……特徴は?」
「豪奢なドレスを着た、銀髪の……その、常に眠っている令嬢だと……」
その報告に、シーザーの冷たい瞳がスッと細められた。
死の森の斜面に落としたはずが、運良くあの狂戦士に拾われたというわけか。
「……なるほど」
シーザーは口元に冷酷な笑みを浮かべ、立ち上がった。
自分が捨てた女が、国最強の武力を持つ男の庇護下にある。普通なら警戒すべき状況だが、傲慢な王太子の計算は違った。
(あの女の価値は、ただ一つ。私の執務効率を上げ、安眠をもたらす『道具』であることだ)
騎士団長ごときが、王太子の所有物を勝手に囲うなど許されるはずがない。
リサリアに謝罪する気など毛頭ない。王太子の権威で捩じ伏せ、再び自分の足元で飼い殺しにしてやる。そのための強制力ならいくらでも用意できる。
「馬車の用意をしろ。黒鉄の砦へ向かう」
「で、殿下自らですか!?」
「ああ。私の便利な道具を、不敬な泥棒から取り返しに行く」
血走った目でそう宣言するシーザーは、まだ気づいていなかった。
自分が取り上げようとしている相手が、五年間溜め込んだ激重の愛と執着で眠り姫を溺愛している、国最強の狂戦士であるという絶望的な事実に。
◯
辺境の『黒鉄の砦』の空気が、ピリッと凍りついた。
「開けろ! 王太子の命である! 私の所有物であるリサリアを、今すぐ引き渡せ!」
砦の正門前でヒステリックに叫ぶのは、王太子シーザーだった。
目の下にはドス黒い隈を作り、頬はこけ、息を切らしている。かつての完璧で冷徹な貴公子の面影はどこにもなく、極度の疲労と不眠によって精神は限界に達していた。
周りを囲む騎士たちは、剣こそ抜かないものの、哀れなものを見るような冷ややかな視線を彼に向けている。
「……何の騒ぎだ」
地を這うような、恐ろしく冷たい声が響いた。
重厚な扉が開き、姿を現したのは騎士団長ゼルディアス。
その腕の中には、最高級のシルクのガウンに包まれ、彼の胸に顔を埋めて「すぅ、すぅ」と平和な寝息を立てるリサリアが、大事そうに抱き抱えられている。
シーザーは、目の前の光景に息を呑んだ。
五年間、呪いに苛まれ死神のような顔をしていたはずの狂戦士が、今は信じられないほど艶やかで、圧倒的な覇気を纏っている。
「ぜ、ゼルディアス! 貴様、王太子の婚約者を不当に囲うとは不敬極まりないぞ。その女は私の執務に必要な道具だ。さっさと返せ!」
王太子の権威を振りかざし、シーザーは手を伸ばした。
だが、次の瞬間。
「――気安く触れるな。万死に値するぞ」
砦の空間そのものが歪むような、絶対零度の殺気が爆発した。
「ひっ……!?」
それは、理性を失った狂戦士の怒りではない。己の『絶対的な聖域』を脅かす外敵に対する、冷徹で、静かで、圧倒的な暴力の具現化だった。
シーザーは目に見えない巨大な圧力に押し潰され、無様な音を立てて石畳に這いつくばった。息ができない。
全身の血が凍りつき、本能が“これ以上喋れば死ぬ”と警鐘を鳴らしている。
「道具、と言ったな。シーザー殿下」
見下ろすゼルディアスの瞳は、氷の刃のように冷酷だった。
「調査していないとでも思ったか? ……自分の手で最高の宝をドブに捨てておきながら、執務が回らなくなったからと拾いに来る。反吐が出るほど滑稽だな」
「あ……がっ……」
「彼女は俺の妻だ。二度と俺の領分に足を踏み入れるな。次に彼女の安眠を邪魔すれば、王太子であろうとこの場で首を刎ねる」
シーザーは一言も発することができないまま、じりじりと後ろに下がった。
自分はもう二度と、あの安らかな眠りを取り戻すことはできない。一生、この地獄のような疲労とストレスの中で生きていくしかないのだ。
その絶対的な絶望と恐怖に耐えきれず、シーザーは白目を剥いて完全に気絶した。
「……団長。こいつら、どうします?」
副団長のギデオンが、呆れ顔で倒れた王太子たちを指差す。
「王都へ送り返せ。ゴミを砦の前に放置するな」
ゼルディアスが冷たく言い放つ。
「……このような男に、今までリサリアの寝顔を見られていたのだと思うと……殺したくなる」
「すぐに片付けます!!」
ギデオンが慌てて、部下に指示を出す。
「……んん……なんか、うるさ……い……」
殺気を感じ取ったのか、腕の中のリサリアがモゾモゾと身じろぎし、寝ぼけ眼をこすりながら顔を上げた。
「あれ、なんか寒い……? 私の湯たんぽ……どこ……」
先ほどまで絶対零度の殺気を放っていたゼルディアスの表情が、春の雪解けのように一瞬で甘く、蕩けるようなものに変わった。
「すまない、リサリア。少し羽虫が騒いでいただけだ。もう追い払ったから、安心して眠るといい」
「ん……。ゼルディアス様、いい匂い……あったかい……」
リサリアは安心したように微笑むと、再び彼の首に腕を回し、コテンと寄りかかった。
そんな彼女の愛らしさに、ゼルディアスの胸の奥で、限界まで膨れ上がっていた愛おしさがついに決壊する。
彼はリサリアの体を優しく抱き直し、その耳元で、誰よりも甘く、熱を帯びた声で囁いた。
「リサリア。……ただの契約ではなく、俺の本当の妻になってくれないか」
「……え?」
「俺はもう、君を手放せない。君が生きる世界のすべてを俺が整える。どんな脅威からも君を守り、君が望む限り、永遠にその安らかな眠りを保証しよう。だから……一生、俺の腕の中で生きてほしい」
それは、国最強の騎士による、重すぎるほどの愛の誓い。
普通ならロマンチックなプロポーズに頬を染める場面だが、リサリアの社畜センサーは別の部分に激しく反応していた。
(えっ。永遠の安眠保証……? つまり、正真正銘、一生働かなくていい永久就職パスポート……!?)
「ぜひ一生隣で眠らせてください!!」
「……! ああ、俺の愛しい眠り姫」
食い気味に承諾したリサリアを、ゼルディアスは歓喜と共に強く抱きしめ、その柔らかい唇に、誓いのキスを落とした。
周囲の騎士たちから「おおおおおっ!」と割れんばかりの祝福の歓声が上がるが、リサリアにとっては心地よい子守唄でしかない。
(最高のベッドも、一生働かない権利も手に入れた。これからは最強の旦那様の腕の中で、ずっとずっと寝て暮らします!)
幸せな決意と共に、リサリアはゼルディアスの温かい胸の中で、この世界で一番平和な寝息を立て始めたのだった。
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私も寝てるだけで褒められたい……。
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