1-35 羊の執事
「ゴース!ねぇ、これ何!?」
わんぱく盛りのお坊ちゃまが、私のところへやってきた。手には、古びた瓶に入った、割れた黒い宝石のブローチ。それを、あぁなんて懐かしいと思いながらお坊ちゃまから受け取る。
「これはお守りですぞ。もう使われてしまったものですがな」
「そうなの?じゃあ、何で捨てないの?」
「うーん、そうですなぁ。思い出の品だから、でしょうか」
そうして瓶の埃をはらってから、もう一度椎の木の棚の奥にそれを戻した。
もうあれも、ずいぶん前のことだ。そう自然に思った自分に思わず笑う。本来は、自分にとってはほんの一瞬の出来事なのに。私も随分と人の世に染まったようだと、おかしな気持になった。
私が人間界に来たのは、もう千年以上も前のことだ。魔界で暇を持て余し腐りかけていた私に、榛色の目のあの男が言った。
「じゃあちょっと俺んとこに遊びに来いよ。大したもんはないけど、魔界暮らしのお前には物珍しいかもしれないだろ?」
そうして訪れた人間界。そこで私は、衝撃的なものを目撃した。
「離して!もう放っておいてよ!」
「ふざけんな、どこ行く気だよ」
「っ、どこだっていいでしょう!?」
「……嫌だ」
あの男は涙を浮かべて怒っている女を、後ろから羽交い締めにした。
「置いてくなよ」
「っ……!?」
「好きだよ、シェリー」
――雷で撃たれたようだった。なんだこれは。
わなわなと両手で口を塞ぎ、致命傷を受けたかのように地に膝をつく。体が熱い。胸が苦しい。これは、この気持ちは、何だ?魔界では味わったことのない感情に、全身が支配されていく。
言うなれば、そう――尊いと、祈りを捧げたくなるような。そんな、憧れや衝動にも似た、清々しく美しい気持ち。
もっと、欲しい。
私はあの男に全身全霊で縋った。
最初は「人の色恋沙汰のぞいてんじゃねぇ!」と真っ赤になって怒っていた男だったが。私が尊いという感情についてひたすら語り、ひれ伏し懇願し続けるのに根負けしたのか、はたまた人間界に連れてきてしまった責任を感じたのか。
私が人間界にいるための多くの制約を課した上で、末の王子だった男は私と契約を結んだ。
悪魔との契約。それが、初代スルンガルド家が、悪魔の一族と呼ばれた始まりだった。
それから、長い時を経た。子供の成長を学び、しがらみを生き抜く人生や、老いとの対話。そして、何年経っても見飽きない、恋の芽生え、すれ違い、愛の育み。私はいつしかスルンガルド家に執事として仕えることで、それを間近で見守りながら、心震えるやり取りが生まれるよう、小さな手助けをすることを生きがいとするようになった。そうして小さな手助けをするたびに、魔界で何度も捨ててしまいたいと思った千里眼が、人間界の美しい出来事を幾つも運んできてくれる。
スルンガルドの一族は、情に厚い一族だった。つまらなければ、契約を終えていつでも魔界へ帰っていいのに。何日も何日もその日々を見続け、千年の時を経ても、一向に帰りたいとは思わなかった。
「ねぇゴース!もしかしてこの絵姿って、ひいお祖父様とひいお祖母様の絵姿!?」
お坊ちゃまがぴょんぴょんと跳ねて、私の部屋に飾っていた絵姿を指さしている。そのお坊ちゃまの姿を朗らかに眺め、抱き上げて絵に近づけて差し上げてから、一緒にその絵姿を眺めた。
その絵姿は、通常の行儀よく佇む絵姿とは異なっていた。花嫁を抱き上げた数代前の公爵が、幸せそうにはしゃいでいる絵。花嫁もとても楽しそうに笑っている。その周りには、金の瞳の黒猫や懐かしい顔ぶれの者たちが集まっていて、みな飛び跳ねたり手を叩いたりして、随分と喜んでいた。
「そうですぞ。懐かしいですなぁ」
「みんな楽しそうだね」
「えぇ、ほんとうに」
その眩しい絵を、まだ柔らかな子供のお坊ちゃまを抱き上げながら眺める。
少し色褪せてきたその絵の中では、もう会うことのできない人間たちが、確かにあの日のように幸せな顔をしていた。
「ゴース?」
「なんですかな?」
「泣いてるの?」
「ほっほっほ、私の目からは涙は出ませんよ」
そうしてお坊ちゃまをおろして、まだ柔らかな黒髪を優しく撫でた。
「さて、そろそろおやつの時間ですかな?」
「うん!僕ゴースのフレンチトーストが食べたい!」
「ふふ……お好きですねぇ」
たまらずわしゃわしゃと少し乱暴にお坊ちゃまの黒髪を撫でてしまった。お坊ちゃまは、わぁ!と慌ててから、ぷうっと頬を膨らませた。柔らかな若草色の目が私を睨みつける。
「やめてよゴース!」
「ほほ、私としたことが。すみません、少し感傷に浸ってしまったようで」
「かんしょうって?」
「……昔の思い出に、心を揺さぶられるということでしょうか」
「難しいこと言わないでよ、ゴース」
お坊ちゃまはまたぷうっと頬を膨らませた。その可愛らしい姿を見て、心がほどけるように目を細める。
「さて、ではフレンチトーストを作りましょうか。ベーコンエッグもいりますか?」
「なんで!?おやつだよ!?」
「まぁまぁ、いいではないですか」
そうしてほっほっほと笑いながら、過去の面影を宿すお坊ちゃまの小さな手を引く。
感傷に浸るなど。私も随分と、この世界に染まったようだ。
「それで?先日お友達になったお嬢様とはまた遊ばれるのですか?」
「えっ、何でそれ知ってるのゴース!?」
「それはもちろん私は優秀な執事ですから」
「……お父様には言わない?」
「えぇ、もちろん内緒にします」
ぴっと指を一本立ててにこりと笑う。お坊ちゃまは、嬉しそうに頬を染めた。
「ありがとう!あのさ……じゃあ、お願いがあるんだけど……」
「ほう、なんですかな?」
「……お礼、あげたいんだけど。かわいいクッキーとか、つくれる?」
「もちろんですとも。綺麗な色のリボンをおつけしましょうね」
「うん!」
ぱぁ、と笑みを見せるお坊ちゃまと、何色のリボンにするかを小さな声で話し合う。
希望と未来に満ち溢れた小さな体。夢中で世界を見つめる、輝く瞳。
あぁ、きっと終わらない。
私はこの世界の美しさに魅入られて。柄にもない滑稽な羊の執事を、この先もずっと、演じ続けるのだろう。
―――おしまい―――
最後まで読んで頂きありがとうございました!
楽しんでいただけたでしょうか。
10作品目の本作、書くのにとても苦労しましたが、なんとか書き上げることができました。
ここまで読んでくださった皆様、応援して下さった読者様に本当に感謝です!
「面白かったよー!いい暇つぶしだったぜ!」と思って下さった神読者様も、
「なんかちょっと終わるの寂しぃぃぃ」と思って下さった女神のようなあなたも、
最後までお付き合い頂き本当にありがとうございました!
気が向いた方は、拍手代わりに☆いくつでもいいのでご評価頂けるととても嬉しいです!
落ち着いたら番外編も描こうと思います。
ぜひまたどこかでお会いしましょう!
ありがとうございました!