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1-11 刻印

 それは私がまだ八歳になったばかりの頃だった。確か、家族で久々に遊びに行こうって計画して。あの日、私はお父さんとお母さんと馬車で出かけたんだった。


 崖沿いの道。晴れていて、見晴らしは良かった。だから、何も心配はしていなかったのだけど。


 あとから聞いた話だと、上から大きな岩が落ちてきたそうだ。爆発するような衝撃。それがどんな大きさの岩だったのかは分からない。


 それでも生々しく記憶に残るのは、衝撃で開いた扉から見えた、切り立った崖と遥か下の森。馬車は、私たちを振り落とす勢いで激しく揺れ、お父様を放り出し、崖下に向かって大きく傾いた。


 馬車は、崖に生えた木に引っかかっていた。


「お母さん!!!」


 お母さんは、辛うじて外れかけたドアにしがみついていた。その足が、恐ろしいほど何もない高い場所で、ゆらゆらと揺れている。


「っ、リズ、」


「お母さん!ダメ、早く!!」


 必死でお母さんに手を伸ばす。でも、子供の私の小さな手が、届くわけはなくて。外れかけた蝶番が、ミシ、と嫌な音を立てた。


 がくんと馬車が揺れ、ドアがギィと音を立てて傾いていく。反対側でも、馬車を支えている木がミシミシと嫌な音を立てていた。


 ぐら、と馬車が傾く。お母さんは、私に向けた手をそっとしまうと、涙を浮かべて笑った。


「お、母さん……?」


「――生きて、リズ」


 瞬間、ばきん、とドアが外れた。


「お母さん!!!」


 伸ばした手は、宙を切った。大きく馬車が揺れ、お母さんの姿が見えなくなる。


「やだぁぁぁぁ!」


 その叫んだ声と同時だっただろうか。


 バキィ!と木の幹が折れる音がした。


 宙を浮いたような気がしたのは、ほんの一瞬だった。激しい音。痛み。身体が打ち付けられ、地面に転がる。


 少しして、静けさが戻ってきた。ヒュウ、という風音だけが聞こえて。私は、ゆっくりと目を開けた。


 最初に見えた空は、その日見た青空とは違っていた。見たことのない、暗く淀んだ赤い色の空。


 わけもわからず、辺りを見渡す。


 あちこちに散らばった、大破した馬車の破片。見たことのない怪しい形の植物。


「ここ、どこ……?」


「おい」


 ハッとして振り返る。


 そこには、私よりも小さな男の子が立っていた。


「お前、どこから来た」


「どこ、から……?」


「……ここは魔界だ」


 驚きで目を丸くする。魔界。聞いたことはあるけれど。お話の中でしか知らない世界にいるなんて、俄には信じられなかった。


 呆然と辺りを見渡す。それでも、目の前の見慣れない景色は、ここが魔界であることを信じさせるには十分なように思えた。


「なんで……魔界に……」


「……とにかく、その腕の怪我、手当てしないと」


 その時、背後からグルルルル……という声が聞こえた。


 切り立った崖。その下から、大きな白い狼が登ってきた。周りには何匹もの小さな狼。そして、一番大きな狼は、口に優しい小花柄の布がついた帽子を咥えていた。


「それ……お、母さん、の……」


 青くなって、よろよろと狼の方へ向かう。


「っ、待て!取り乱したらだめだ!」


 背後で男の子が焦ったように私を止めた。でも、そんな言葉は、私の耳には入らなくて。


 巨大な狼が、口に咥えていた帽子を降ろすのを現実味がないまま間近で見続ける。そして、震える手で、それを持ち上げた。


「お、お母、さんは……?」


 その狼は、グルル、と低い声で鳴くと、地を這うような人の言葉で私に言った。


『……この世界に落ちてきたのは、馬車の荷台とその帽子、そしてお前だけだ』


「わたし、だけ?」


『死者の念の籠もった魂は魔界への扉を開く。だが、死者の骸はこの世界へは渡らない。お前の母親がお前と同じ馬車に乗っていたのなら――恐らく、お前の母親の死んだ魂が、魔界への扉を開いたのだろう』


「う、そ……」


『真実はお前が人間界に戻らぬと分からんだろうな』


「やだ……やだぁ!!!」


 嘘だ。嘘だ嘘だ嘘だ。受け入れられないまま、帽子を抱きしめる。声を上げて泣くなんて、みっともない真似をするなと怒られそうだけど。


 でも、何度怒ってもいい。帰ってきて。焦燥にも似た気持ちが、強い悲しみと一緒に溢れ出す。


 暫くして、大きな狼はグルルルル、と低く喉を鳴らした。


『――脆弱な人間の小娘。泣き声も煩わしい。そんなに母親が恋しいのなら頭から喰ってやろう』


 ズシン、という足音が間近で聞こえる。涙に濡れたまま顔を上げると、息がかかるほど近くに、狼の牙があった。


『この魔界で悲しみに溺れ、憎しみに囚われれば、お前は魔の亡霊に成り果てる。その前に痛みもなく終わらせてやろう』


「そんなの嫌よ!!!」


 そう叫んで、狼の牙に頭突きをする勢いで立ち上がった。間近に見えた狼の金の目が、驚いたように見開かれる。その瞳に噛みつくように、しゃくり上げた声で叫ぶように言った。


「あなたに食べられて終わりでいいわけないじゃない!私は生きるわ!」


『……母親の元に行きたいんじゃないのか?』


「っ、お母、さんは……私に生きてって言ったもの!!」


 血と土で汚れた袖で、ぐいっと涙を拭く。食べられるわけにはいかない。でも、なぜか逃げるのは違う気がして。私は、自分よりも圧倒的に巨大な狼に正面から叫ぶように言った。


「涙は、元気になろうって頑張ってる証よ!」


 泣き虫な私が泣くたびに、頭を撫でて優しく言ってくれたお母さんの言葉。私を励ますお母さんの優しい顔が頭をよぎる。


「私は魔の亡霊なんかにはならないわ!こんなに号泣できるぐらい元気なんだから、あなたに喰われたって蘇ってやるわよ!!!」


 最後は狼に叫ぶように啖呵を切っていたように思う。狼はまさかこんな子供に真正面から歯向かわれるとは思っていなかったのだろう。きょとんと金の目をパチパチとして、次いでニヤリとその獰猛な口を歪めた。


『ほう……どうやって私の腹から蘇る?』


「えっ?えぇと……お、お腹で暴れまわって、沢山ジャンプして吐き出させるわ!」


『ふん、それは気持ちが悪そうだ』


 狼は更に面白そうにニヤリと口を歪めた。


 その獰猛な顔を眺めながら、もう一度帽子を抱きしめる。怪我をしているようで、左腕がズキズキと痛んだ。


 痛みに顔を歪めながら、この絶体絶命のピンチに、お父さんとお母さんならどうするだろうと考える。そう、二人ならきっと、ここで自分の事ばかりを考えたりしない。


 そうだ、冷静に。落ち着いた心で、本当のことを、きちんと見極めないと。


 私は、二人の娘で、領民を守る伯爵令嬢なんだから。


 狼は私の背丈の五倍はありそうだった。それでも、臆したらいけない。私はしっかりと背筋を伸ばして、狼に面と向かって勢いよく頭を下げた。


「ごめんなさい、狼さん。酷いこと言って。今までの、全部優しさだよね。ありがとう……お母さんの帽子も、届けてくれて」


 ぽつりとそう言うと、狼は笑っていた口を静かに閉じた。その金の瞳が私をじっと見下ろしている。


 少し足が震える。だけど、ちゃんと、言わないと。


「私たちのせいで、あなたの仲間に怪我をさせて、ごめんなさい」


 もう一度頭を下げた私を見て、狼は意外だとばかりに目を丸くした。足元には険しい顔をした小さい狼。恐ろしい姿だが、後ろ足の付け根から血を流していた。


 恐らく、私たちの馬車のせいだろう。怪我をさせてしまったのなら、謝らなければいけない。それだけでいいのか、分からないけれど。


「崖下から、わざわざ帽子を拾ってきてくれたんでしょう?それに、きっとこの場所で自分を見失ったら、魔の亡霊に成り果ててしまうのもほんとう。教えてくれて――優しくしてくれて、ありがとう、狼さん」


『……随分と、肝の座った人の子だ。私がお前の母親を喰ったとは思わないのか?』


「もしそうならわざわざ帽子を拾ってこないし、こんなお話なんてしないでもう私のこと食べてるはずじゃない」


『……ふん』


 狼はふいっと顔を背けて鼻で笑ってから、少しして横目で私を見下ろした。ほんの少し、時が経って。狼は、グルル、と唸り声を上げてから、低い声で私に言った。


『小娘。お前に三つ大事なことを教えてやろう』


 ズシン、と足音を立てて、狼が一歩私に近寄る。


『一つ。ここでは己の名を口にするな。名を言えば魔界と繋がり人の世に帰れなくなる。二つ。暫くここで生き永らえろ。じきに人の世がお前を呼び戻すだろう。三つ。お前が魔界に落ちてきたのは偶然の産物だ。私の息子が怪我をしたのは、お前の落ち度ではない』


 そうして、狼は大きな鉤爪のついた前足を持ち上げ、私に向けた。


『……これでも動かぬか。肝の据わった子供だ』


「ほ、ほんとは、足が震えてるけど……狼さん、優しいから」


『優しい、か。私から見れば、こんなものはただの年寄りの気まぐれだ』


 そう言って、大きな狼は私の胸元に大きな前足をつけた。一瞬感じた熱さはあっという間に過ぎ去り、じわりと何かが染み入るような感覚だけが残る。


 不思議に思っていると、狼は私に不敵な笑みを浮かべた。


『今ここでお前を喰うのはやめてやろう。その代わり、お前の胸に印を刻んだ。それはこの魔界ではお前を守るだろう。――ただ、お前が人の世に帰ってからは、異種の者として苦労するだろうな』


 服に手をかけ中をのぞく。そこには、複雑な模様で画かれた狼の足跡のような刻印が刻まれていた。


「魔界では守ってくれるのに、人の世界では嫌われるの?」


『人は己とは違う者を恐れる生き物だからな。特に、お前の国では生きづらいだろう』


 そう言うと、巨大な狼はグルルルル、と低く唸り声をあげた。


『人の世に帰り、母親の分まで生の喜びと苦しみを味わい尽くせ。その紋を通してお前の生き様は見えている。お前が絶望に染まり死を望んだ時には、改めて頭から喰ってやろう』


「ふふ、ありがとう、狼さん」


 そう言って感謝を述べる。恐ろしい姿だったけれど、なんだか私には優しい狼にしか感じられなかった。多分、私が世間知らずな子供だったからだろうけれど。


 そんな私を見て呆れたのか興味を失ったのか。狼は巨体を動かし私に背を向けると、ほんの少しだけ振り返った。


『……私の印を持つ者でも魔界で生き抜くのは難しい。そこの小僧にでも縋るんだな』


「小僧……?」


 そう言えば、と振り返る。側にいたのは、先ほど話しかけてくれた、私より頭一つ分小さい男の子だった。


 その男の子は、何とも言えない不機嫌そうな表情で私に言った。


「さっきの話の通り、名は名乗らないからな。とにかく崖上なんて危ないとこからはさっさと離れたいんだ。ついて来んならさっさとしろよ」


「あの、」


「うるさいな。早く来いって言ってるだろ」


 男の子は苛立つようにふいっと背を向けて歩き出した。その背中を慌てて追う。


 それが、小さなウィルとの出会いだった。




読んでいただいてありがとうございました!

なんと、こんな経緯で獣令嬢になったらしいです。

「えっ、なんか凄そうな奴から獣の刻印貰ってない?」と巨大な狼が気になった読者様も、

「黙れ小僧!お前にリズが◯✕△♨」と違う狼を連想してしまったお友達になれそうなあたなも、

リアクションブクマご評価ご感想なんでもいいので応援して下さると嬉しいです!

ぜひまた遊びに来てください!

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