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帰路

作者: 若井狼介

 叔父から知らせが来たことを、母は誠にも伝えた。


 その日は朝から冷えていた。目覚まし時計の規則的なアラームに起こされた誠が、心地よく温まった蒲団(ふとん)を抜け出し、背広に着替え始めた時にはもう、サッシの向こうは白くけぶっていた。冬の日の出が遅いとはいえ、日が射していて当たり前の時刻だ。今朝はぶ厚く敷き詰められた雲が空を覆い、降り始めた柔らかなぼたん雪が、ほのかな明かりを街に与えながら凍らせている。このぶんでは電車もバスも遅れるだろうと思い、急いで車に乗り込む。北国でもないのにとぼやいて難儀(なんぎ)しながら、いつもより遅く会社に着いた。どのフロアも天気の話題でもちっきりであった。午前中から短い会議があって、次に通常の業務をこなし、滞りなく昼の休憩に入る。外に出るのは億劫だから社員食堂を利用し、部屋に戻る途中に、誠はようやく携帯電話を手に取った。

「母さんからだ」

 着信履歴に母の携帯番号が二回並び、メッセージが録音されていることを知らせるアイコンが表示されている。しきりランプが点滅している。誠は何の気なしにキーを選択し、母の伝言を受け取った――。


 ――誠の母には、上に二人の兄弟がいた。何かの折に母が話して聞かせたところによれば、とある由緒正しい武門の本家にあたる彼の家は、その血の重みと誇りに見合うだけの暮らしぶりを、昭和三十年代の中頃まで維持していたらしい。昔は子宝にも恵まれ、子供らの中には人並み以上の才能を花開かせる者が目立った。母の一番上の兄は死ぬまで貴人であったと記さなくてはならない。二番目の兄は、高度成長期のフリーダムな追い風に夢を抱き、ベンチャービジネスに野心を燃やした。学生時分からめきめきと頭角を現し、キャンパスの仲間達を率いて建築業界で立身出世を果たすことに成功する。

 商売人には生来なり切れない、純粋で甘く真面目な男が、ほとばしる情熱を燃料にして船出を果たしたのだ。やがてバブルに翻弄(ほんろう)されて破綻し、誰にも何も言わないまま姿を消した。

 母の母親つまり誠の祖母は、ことこの下の息子を可愛がった。祖母はそして、孫の誠を(いた)く愛した。ある日いつものように家族の飯の支度をしていた祖母の、頭の血管が破れ、次の日には還らぬ人となった。昭和六十年のことである。

 畳十畳ぶんある広い床の間の、部屋の角から向かいの壁の四分の一まで幅のある、黒塗りの立派な仏壇の前に、北側の壁一面を覆い隠すだけの祭壇が組まれた。誠は二つになったばかりであった。水場に控えたまま出てこない母の言いつけもあって、彼は床の間で一人遊びをしている。客足はまばらであったのをいいことに、お気に入りのミニカーを絨毯(じゅうたん)に並べる。仏壇の飾り柱に施された彫刻の、剥がれかけた金箔(きんぱく)をつまんでみる。子供心ながら、仏壇の中の暗さを怖いと思った。だから彼は大好きな祖母に声をかけた。白木の棺の中から返事はない。何かがおかしいような気がしたときに、ひょいと誠を高く抱き上げてあやしてくれていたのは、二番目の叔父であった。

 誠の父親は、祖母の亡くなる前の年に早々と骨壷に収まっていた。病気がちで偏屈な祖父とは違う、叔父の黒々とした髭面(ひげづら)や腕力に驚いたものの、この日から誠は叔父を「おひげのおじちゃん」と呼んだ。

 やがて成人し、社会に出て自らも大人になった誠は、叔父の残像をくっきりとは結べないでいる。けれども叔父の背が高くて手足も長いようすや、笑顔のイメージを、今でも忘れないでいる。トレードマークの(ひげ)や、男臭い趣味の服にも、当時好んで吸っていた葉巻のにおいが染みていて、こればかりは苦手に感じたことも覚えている。懐かしい記憶が少しずつほどけていく。

 いつだったか、母が誠に、叔父を「(ひろ)ちゃん」と愛称で呼びながら語った。

「弘ちゃんはね、優しいから。あのね、お祖母ちゃんが死んで一番悲しかったの、本当は、弘ちゃんだったんだよ」

 当の本人は嫁と揉めて家庭を解消し、膨らんだ借金ごと姿を消した後であった。当然すぐには気持ちが収まるはずもない元の嫁は、一体誰のせいで自分が不幸なのかを誠の母に問うて責めた。恋しさが転じた憎さで裏切り者をなじるだけなじり、思いつく限りの言葉で罵って泣き明かした後、身代わりを別の異性に見出した。向こうがたの実家の非難や世間の詮索(せんさく)は祖父が受けて知らぬを通した。独り立ちすれば子も赤の他人同然であって、いなくなれば初めからいないに等しい。祖父の冷たい断言も当時の母のことも誠は知らない。それに事が波立ったのは一年二年の間であった。一区切りついてしまえば、後は何事もなかったように時間は流れ月日は過ぎ去っていく。


 ところが二十年以上も経った今日、叔父から連絡があったのだ。

 ぷつりと途絶えたが最後、自ら消息を絶った叔父は、誠の勤め先と同じ沿線にいた。誠が行き来する区間をやや外れた方角が叔父の生活圏であったのは、まったく偶然の一致である。叔父はとうに肉親にとって取り返しのつかない過去となり、劇的な出来事を願いこそすれ予期する者はいなかった。

 母は祖父が他界したの機に、大きいだけの敷地を売り払っていた。老朽化した二階家に買い手がつくはずはなく、痛んだ桐箪笥やら仏壇やら、処分出来る物は家屋と一緒にすべて処分し、後りのいくばくかで郊外に3DKの中古の分譲住宅を購入した。誠は就職を機に中心街に近いマンションに移っている。住む場所はてんで変わったが、母は不肖(ふしょう)の末息子を案じる素振りすら嫌った祖父の、「電話番号は変えるな」という遺言を守った。母がまだ眠っていた早朝、狭い家中にベルが鳴り響いた。飛び起きた母が思わず受話器を取ると、もしもしと言わないうちに先方が名乗り、苗字だけでなく母の名前を口にして尋ねたのだそうだ。聞き覚えのない男の声に母が警戒するより早く、相手は自分が叔父の仕事仲間であることを打ち明けた。貴女のお身内はどこそこの病院にいます。去年の年の暮れから風邪でもひいたような話をしはじめ、年が明けても治るようすがなかったので病院へ行けとすすめましたが、彼は笑ってはぐらかしてしまう。無理にでも診察を勧めたところ検査入院が決まりました。ところがそうなって、仕事を休んでベッドに横になった途端、日増しに良くありません。気掛かりに思う私どもが尋ねて、初めて彼の身の上を知り、何はなくとも連絡をと思ったのです。ざっとこれだけの内容を、受話器の向こうの男は怜悧(れいり)に、すまなそうに語った。

「弘ちゃん、肺と心臓がいけないんだって」

 ほんでも印鑑がないと色々手続き出来んらしいんだわ、体に(くだ)を刺し込まれているって。わからんけどとにかくそういうことだから。母の説明から心情を汲んだ誠は、明日にもすぐ見舞いに行こうと答えた。目の端に同僚の姿をみとめる。誠は携帯を切ってコートのポケットに入れながら、ショールームに降りていく同僚達と軽く談笑をして、自分は裏手の自動ドアへと別れた。とうに雪は止んでいたが、冷えきった外気が予想以上に肌を刺す。駐車場の側溝を、排ガスをあびた雪が溶けきらずに残っている。誠は車に乗り込むと、帰りのテールランプの流れに加わった。いつもの習慣から、何とはなしにつけたFMのボリュームを上げる。まだ温まらない車内で白い息を吐き、通り過ぎていく街並みを目に映している。

 夜のとばりは既に降りている。高く(そび)えるオフィスビルの沿線を抜け、ネオンが賑やかに踊る繁華街の人いきれを抜ければ、雑居ビルにシャッターの開かない店舗が目立つようになる。光に溢れた景色の端に、一つ、また一つと虫が食ったような空洞がちらつくのに気付く。朝晩の渋滞の具合ならさして変わらないし、デスクにいればメールやらファックスがひっきりなしに届くのだ。誠の生活は充実していると言っていい。けれども社会的な責任の所在がまだ自分にないか、光明ばかりが人間の生の本質だと喜ぶ一面的な人間でもない限りは、誰もが日々の生活の中の些細な予兆を感じ取っているものだ。誠は、あるのかないのかわからない誇りを誇りに思うからこそ出来ることから取り組み、つまらない不平を思いつかない。通りに張り出した木立と店舗兼マンションの間に隠れるようにして、赤い鳥居の(ほこら)が見える。人目につきやすい鳥居は薄汚れるたび新調するか、塗装の化粧を施すので、いつでも良い色をしている。パチンコ店の屋外スクリーンが放つ強烈な光線が、対岸のファッションビルのタイルの壁をぬめらせている。進行方向の斜め反対側の角には、つい先日まで季節ごとに鮮やかなのぼりがはためいていた気がする。いつからかのぼりは赤いコーンに変わった。工事中の立て看板しかない更地に、以前は何が建っていたものか、見慣れていたはずがとんと記憶にのぼらない。


 車は十字路にさし掛かった。誠はそのまま直進し、住宅街の手前で一旦エンジンを止めた。黄色いランプが点滅している。

 ――長い長い空白を経て、叔父が生きていることがわかった。まさかあの叔父が、生きていてくれたんだと誠は思った。けれども病院にいる。体が悪いのだという。しかし誠は、何が悪いものかと思った。懐かしい葉巻のにおいのする髭面の叔父が、白木の祭壇を背にして幼い甥に微笑みかけている。幼児を派手にあやしながら、長い睫毛の目を赤くしている。

「なのに何が悪いもんか」

 信号が変わった。(せき)を切ったようにヘッドライトの尾が流れ、無数の車が、それぞれの進む方角に向かって消えて行く。誠はハンドルを西に切った。歩道橋を二本見送って高架下のトンネルを潜り、なだらかな坂を下っていく。裏路地への入り口のU字を曲がると、あたりは急に暗くなった。冬の夜の住宅街は人気(ひとけ)をかき消してしまう。小さな公園の前にぽつんと立った街灯が、路面に冬枯れの木の影を浮かび上がらせている。明るいうちに子供達が作ったのであろうか、置き去りの雪だるまが見えた。しんとした道の両端の、家塀の切れ間から漏れる団らんの灯りを追い越して、誠は腹が減ったことを思い出し、ふと、叔父が手掛けた建物は、この街のどこかにまだ残っているだろうかと考えた。 

 きっとおじさんの建物が、必ずまだどこかにあるに違いない。

 彼は心の中で唱えて前を見つめ、対向車のいない郊外の一本道を進んで行く。

 その合間にもカーラジオはげらげらと笑い、(ちり)ひとつないような空には、街を照らす星や月すらなかった。

 

 

 

 

 

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― 新着の感想 ―
[一言] 皆さんがおっしゃるようにとても丁寧な描き方をされていて、引き込まれました。情景描写も素晴らしいと思います。どこか懐かしく感じるのは、伯父さんの姿が見えるほど丁寧な描写によるものだと思います。…
2010/04/24 15:56 退会済み
管理
[一言] 幼少期に抱いた思いは鮮明な記憶となって形に残る。誠はそんな記憶を回顧する。帰り道の情景がところどころで心情と重なり彼の心うちを読者に伝えてくれます。 やや、ん?と心情と情景が混ざりあって状況…
[一言] なんでもかんでも「良かったこと」に変換して納得しようとする人をたまに見かけると、絶対そんなことはないと反発する自分がいます。この作品は、そうした理不尽な結末に対する悔しさ、悲しさといったもの…
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