76.イドに蓋を
「……吸いたい」
と、ケイが小さく呟く。
それと同時に彼は、一瞬で僕の目の前に現れた。
大きく口を開けて噛み付いてくる彼を避け、僕は彼を見据えながら後退。
ケイは何故かその場で立ち止まっている。次の瞬間、彼は己の口を服の袖で拭うと同時に地面を蹴り、こちらに向かってきた。
見える。大丈夫。避けられる。
僕はすぐに足を動かし右側へと移動。その直後、僕が元いた場所をケイが物凄い速さで駆け抜けていった。
激しい衝撃音が廊下に鳴り響く。恐らく。真っ直ぐに進みすぎてケイが壁にぶつかったのだろう。
彼が怪我をしていないか心配で、僕は彼の行った先へと視線を向ける。
そこには、服はボロボロだが身体には傷ひとつないケイが立っていた。
「エイジ……お前意外と動けるのだな」
「……まあ、人並みにはな」
目を瞑りながら、ぶつぶつと謎の呪文を唱えるクティラがそれを中断して話しかけてくる。
しょうもないことで話しかけてこないで集中してほしいものだ。僕の体力がいつまで持つのかわからないんだから。
「……みんな……私を避けるよね……離れていくよね……悪いのは私だけどさ……しょうがないじゃん……私こういう生き物に生まれちゃったんだからさ……本能なんだからさ……仕方ないじゃん……抑えたくても抑えられないんだもん……これでも頑張ってるんだよ……うん……私頑張ってるよ……」
と、ケイが今にも泣きそうな声で呟きながら近づいてくる。
彼の心情を思うと、同情して少し辛い気分になる。
僕はあの苦しみを、血を吸いたくなる衝動を数日しか体験していない。それはつい最近半パイアになったからだ。
けれどケイはどうだ。彼は生まれもっての半パイアだと言っていた。
何年も、何年も何年も何年もあの苦しみに悶え足掻き耐えてきたのだろう。僕にはできそうにない。
実際ケイも出来ていない。彼は言っていた、何度も吸ったことがあると。
瞳孔が渦巻状にぐるぐるとしていて、全身をフラフラさせながら、狂気と歓喜に満ちた笑みを浮かべながら、悲しい雰囲気を纏うケイを見て思う。
もし僕が、僕も、人間の血を吸って人間の血の味を覚えてしまったならば。彼と同じように、欲を全面に出し醜く暴走する吸血鬼になってしまうのだろうか。
「……半端者なのだろうな、ケイは」
「……へ?」
と、右目だけを開けながらクティラが話しかけてくる。
いつものような楽しげでふざけた感じのある声色ではなく、真面目で、どこか威厳すら感じてしまう声色で、彼女は話を続ける。
「中途半端だ……ヴァンパイアとしての欲求と、人間としての倫理を同時に満たそうとするからああなるのだ。血を吸うのならばしっかりと、自分に必要な量を吸えば良いのに、人間としての心がそれを邪魔し、結果、中途半端に吸って中途半端に欲求を満たし中途半端に倫理観を保つ。しかもその問題を一人で抱え込む。それでは心が壊れかけるのも無理はない」
呆れたように、ため息をつきながら言うクティラ。
それだけ言うと、彼女は再び両目を閉じて、呪文らしき何かを呟き始めた。
「中途半端……か」
でもそれって仕方がないんじゃ、と僕は思う。
血を吸いたくなる衝動。あれは本当に恐ろしい。吸いたくて吸いたくてたまらなくなる。
最初から吸血鬼であるクティラには、人間に噛みつき血を吸うという選択肢は生まれた瞬間から当然のようにあるのだろう。だけど、人間にはそんな選択肢を選ぶ機会なんて普通はない。そも、提案すらされない。
する意味もないし、する必要性もないからだ。人生とは無縁の、異常な行動。
本来選ぶはずのない選択。悩む必要すらない選択。血を吸うか、否か。
それが他人からではなく、自分から提案されるのだ。吸おう吸おうと、人間に本来存在しない本能に催促されるのだ。
自分が自分じゃなくなるかのような感覚。なのに確かに、自分がそれを求めているとわかってしまう感覚。
自己矛盾に満ちた歪な欲情感情生存本能。相反する二人の自分が、もみくちゃに混ざり合う気持ち悪さ。
そのまま正気を保ち、自分を保ち、意思を保ち、信条を保つことなんて、きっと誰にも出来ない。
「……エイジくん……ごめんね……!」
と、ケイが呟いた瞬間、彼はまたしても僕の目の前に一瞬で現れた。
見えるとはいえ彼の動きは速い。油断しているとあっという間に近づかれる。
僕に向け両手を勢いよく伸ばすケイ。僕はそれを、身体を床につくほど低く下げ避ける。
掴むはずだった僕の身体に掴めず、手が空を切り体勢を崩すケイ。と同時に僕はすぐに彼を避けながら立ち上がり、彼を見据えながら後退していく。
「よくやったなエイジ……時間だ」
と、僕の肩の上に座るクティラが立ち上がり、ニヤリと笑みを浮かべ僕の頬をペチペチと叩いてくる。
「行けるのか……?」
「ああ……次にケイが近づいてきた時、ギリギリのところで避けてくれ。その後は私に任せろ」
「わかった」
拳を握りしめ、全身に力を入れ、僕はふぅと一息つく。
一体全体どんな作戦なのか、聞いていないからわからないけれど、なんだかんだ言ってクティラは頼りになる。
吸血鬼についての知識がない僕は彼女に縋るしかない。頼るしかない。だから、信頼するしかない。
「……来たぞッ!」
クティラが耳元で叫び、一瞬耳がキーンッと痛くなる。
と同時に目の前に現れたのはケイ。一瞬でも気を許すとすぐに近づかれる。本当に速い。
だけど僕には見えている。半パイアの僕には彼の動きがしっかりと見えている。ずっと見えている。
クティラの言う通りに、大きく避けるのではなく、最低限の動きで、紙一重で彼の攻撃を避ける。
と同時に、クティラがぴょんっと僕の上から飛び降り、ケイの肩に捕まる。
「さて……まあ大丈夫だとは思うが」
次の瞬間、クティラは一瞬だけ冷や汗をかき、直後、彼女はケイの首元に噛みついた。
「あ……ッ……!?」
ケイが驚きの声を上げる。と同時に、彼は全身の力が抜けたかのように、ゆっくりと地面に座り込み、ゆっくりと床へと倒れた。
「ふぅ……何とか大丈夫そうだな」
クティラが額の汗を拭いながらため息をつく。
そんな彼女を見ながら、僕はその場でしゃがみ、彼女の頬を何となくツンツンと突いた。
「なあ、何をしたんだ?」
「うむ……血を吸ったのだ、ケイの血をな。それもヴァンパイア細胞の多い血を。ケイが暴走しているのはヴァンパイアの本能から連なる食欲が爆発したからだ、それ故血を吸うことで人間部分を強め食欲を抑えたのだ。それと同時に魔法で変化させた私の牙から睡眠薬にも似た安定剤を打ち込んだというわけだ」
「へぇ……」
よくわからないが、血を吸って魔法を使って気絶させたらしい。何でもありだな、吸血鬼って。
と納得しかけたが、一つ疑問が浮かんだ。
「……クティラ、お前って今、半パイア状態なんだよな?」
「そうだが?」
「半パイアが半パイアの血を吸ったらやばいって……お前が言ってなかったか?」
「そうだ。だからこそ変身魔法の詠唱を唱え、私の身体を限りなくヴァンパイアに近い身体へと変えていたのだ」
「それでぶつぶつ呟いてたのか……」
疑問が解消したので、僕はクティラの頬を突くのを止め、立ち上がる。
と同時にクティラも浮かび上がり、僕の肩の上へと戻ってきた。
「とりあえずケイが起きるまで待とうではないか……起きたらまた暴走、なんてのもあり得るから、ツゴーイイナーは切らないでおくぞ」
「……わかった」
僕は床に倒れるケイを見て、小さくため息をつく。目立った怪我は無さそうだし、特に問題はなさそうだ。
ケイ、起きたら落ち着いてるといいけど──




