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38.絶対劣情飢餓哀楽

「すんすん……くんくん……はぁ……リシアちゃんの匂いしかしないよ……お風呂入っちゃうから……もう……」

「じゃあもう嗅ぐの終わりで……」

「いい匂いだからもうちょっとしたらね! はふぅ……」

「……変態」

 ソファーに座って、リシアの髪に顔を埋めるラルカを、リシアは少し目を細めて睨んでいた。

 僕はそんな彼女たちを見ながら、コップを手に取りお茶を一口飲んだ。

 ふと、時計を見てみる。現在時刻午後十時半。そこそこ遅い時間だ。

「なあリシア……帰らなくていいのか?」

 僕は気になっていたことをリシアに問う。すると彼女は、照れくさそうに笑いながら俯いた。

「うん……今日泊まることにしたから……」

「……リシアがいいならまあ、別にいいけど」

 再びコップを手に取り、最後の一口を僕は飲む。

 ふぅ、と息を吐いてから立ち上がり、コップを手に取り流し台へと向かう。

 明日洗えばいいかと思いコップをその辺に置く。

「……ぐ……!?」

 その時だった。胸が、心臓が急にドキンッと大きく高鳴った。

 息が、乱れた息が意思に反して溢れ出る。呼吸が定まらない。ほんの少し肺が苦しい。

 何が起きた、何が起きている。僕は辺りを見回し原因を探る。

 何も起きていない、変なことは起きていない。いつもと変わらない台所、それが逆に不安になる。

(こんなこと……以前にもあったような……!?)

 興奮している。全身が興奮している。何かに引き寄せられ、それを求めて暴れている。

 立っていられない。僕はゆっくりとその場に、膝を立てながら座り込んだ。

「くくく……エイジ、苦しそうだな」

 と、突然現れたクティラが空に浮かびながら、僕を見下ろし嘲笑ってきた。

 僕は顔を上げ彼女を睨みつける。その様子、今の僕に起きている異常事態をわかっている様子だ。

「無理もない……私も今気づいたのだからな。私ともあろうものが自身の欲求を抑えられそうにない……」

 顔を紅潮させ、クティラがニヤリと笑う。すると彼女は空を滑らかに移動し、いつも通り僕の肩の上に乗ってきた。

 そしてその小さな手で僕の頬に触れ、グイッと力を入れてきた。強制的に顔を動かされた僕の視線に入ってきたのは、リシアとサラとラルカの姿。

 リシアは少し不満そうにラルカを睨みつけ、ラルカは変態的な顔をしながらリシアの髪に顔を埋め、サラはリシアの髪を手に取り匂いを嗅いでいる。

 匂い嗅がれすぎだろ、リシア。

「見えるかあの三人が……我々ヴァンパイアにとってのご馳走だ。お前の身体に流れるヴァンパイアの血が今、それを欲しているのだ」

 淡々と、されど力強くクティラが言う。

 ニヤリと笑みを浮かべ僕を見て、クティラはビシッと三人を指差した。

「全員もれなく処女だ……!」

「しょ……じょ……!?」

 思い出した。この症状、僕は一度体験している。

 数日前、お風呂上がりのサラに欲情したあの日に、僕はサラの血を吸いたくて吸いたくて仕方がなかった。

 それと同じ状態なんだ。つまり今僕は、彼女たちに食欲を沸かせていることになる。

 それに気づいた瞬間、僕の体は意思に反して勝手に動き出していた。

 伸びる手が告げる。リシアに触れたいと。

 唇を舐める舌が告げる。歯を立てサラの首筋に噛みつきたいと。

 床を這う足が告げる。ラルカの透き通るように綺麗な、薄ピンクの二の腕に近づきたいと。

 吸いたい。

 吸わせろ。

 舐めさせろ。

 飲ませろ。

 得たい。

 食べたい。

 近づきたい。

「くそ……!」

 僕は必死に自分の腕を動かし、拳を握り、自身の頬を殴打した。

「なあエイジ……以前も聞いたが、何故血を吸うことを拒む?」

 クティラが呆れたような顔で僕を見てため息をついた。僕はそんな彼女に、唇を一度噛んでから答える。

「僕は……人間だからだ。人間の愛作エイジ……そのままでいたいから」

「……くだらん」

 はあ、とわざとらしく大きくため息をつくクティラ。

「結局はなんとなくダメだと思っているだけなのだろう? 自身のした事がない事、普通の人間ならしない事、それに嫌悪感を感じなんとなーく拒んでいるだけだお前は」

「は……?」

 僕のことを理解しているかのように語るクティラに、僕は少し苛立った。

 ムカつく。ムカつく。ムカつく。

「よく考えろエイジ……お前は半パイアといえどヴァンパイア。血を吸うことなど不思議ではない……ごく当たり前の行動なのだ。それ故、本能から連なる欲求に変なプライドで逆らおうとするのは愚かだぞ」

 ムカつく。ムカつく。ムカつく。

「……エイジ?」

 と、後ろから僕を呼ぶ声がした。

 乱れた息を悟られないように、無理矢理呼吸を整え、僕は振り返る。

 そこにいたのはリシアだった。心配するような顔で、僕を見ている。

「顔赤いよ……? 息も乱れてる……大丈夫?」

「う……ああ……大丈夫だ……」

 まずい。まずい。本当にまずい。かなりまずい。絶対にまずい。

 吸いたい。吸いたい。吸いたい。頭の中がそれでいっぱいになり始めた。

 小さくて薄ピンクの唇。艶やかに湿った長く綺麗な髪。大人っぽさも幼さも感じる天使のような顔。手の甲にほんの少し浮かんでいる綺麗な血管。細く長い魅力的な十本の指。光をも反射しそうな、白く美しい首筋。

 可愛い。可愛い。綺麗。綺麗。何より処女だ。処女なんだ。リシアは処女なんだ。

 可愛くて、綺麗で、処女だなんて。絶対に美味しいに決まっている。

──違う。そんなこと考えていない、考えたくなんてない。

 頭がおかしくなりそうだ。自分しかいないのに、自分だけが思考しているはずなのに、知らない誰かの、知っているけれど目を逸らしたい誰かの、本能が儘に動く思考が入り込んでくる。

「リシ……ア……」

 僕は精一杯に彼女の名を呼ぶ。すると彼女は驚いた顔で僕を見てきた。

「エイジ……!? 絶対変だよね!? とりあえず部屋行こ! 私が連れて行ってあげる!」

 すると彼女はその場にしゃがみ込み、ゆっくりと僕の手を取り、自らの肩に乗せながら僕を持ち上げた。

 ああ、香る。ものすごく香る。鼻が、彼女の甘く魅力的な匂いで満たされていく。

 すぐ目の前には、先ほど見た魅力的な首筋。

 僕は口を開け、そのまま彼女の首元に──

「……ッ!」

 噛み付くところだった。

 危なかった。本当に危なかった。あと少し、あとほんの少し自分を抑えるのに遅れていたら僕はきっと、リシアに噛みついていた。

「……っ……はぁ……!」

 息が苦しい。すぐ目の前にご馳走があるのに、辿り着けない苦しみ。

 僕は、僕は一体何がしたいんだ?

 こんなにも吸いたいと願っているのに、特に明確な理由もなくそれを拒んでいる。クティラの言う通りじゃないか。

 人間だから、人間だったから。それだけの理由で、自分の望みを全否定して見ないことにして理解せず得ようとせず我慢して、それが正しいと思ってしまっている。

「そんなに気になるのであれば、了承を得てから血を吸えばいいではないか。私はサラに血を貰う時、しっかり許可を得ている。それ故罪悪感など感じたことはない。今まで数多の人間から吸ってきたが、それらも許可を得たが故一度も気にしたことなどない」

 クティラがリシアに聞こえない程度の小さな声で言う。

 それは、僕と違って生まれもっての吸血鬼だからそう言う考えができるんじゃないか? と僕は疑問を抱く。

 けれどもう、何が何だかわからない。

 吸血鬼である僕と、人間である僕か複雑に混じり合って、思考が一定しない。

「ちょっとエイジ体調悪そうだから部屋に連れていくね!」

「あれま、エイジちゃんどうしたの?」

「え、救急車とか呼んだ方がいいのかな……?」

 処女の、処女三人の声が聞こえる。

 なんて魅力的な声。なんて魅力的な匂い。なんて魅力的な──

「……ダメだって……」

 否定する。脳裏に浮かぶ欲求を僕は否定する。

 ダメだ。本当にダメだ。これ以上はダメだ。頭がおかしくなりそうだ。

「一皮剥ける時が来たようだなエイジ……」

 クティラがそう呟く。

 と、いつのまにか僕は自分の部屋にたどり着いていたことに気づいた。

 リシアが心配そうに僕を見ながら、優しくゆっくりと丁寧にベッドまで連れて行ってくれた。

 何も言わずに、ただただ息を荒げて、彼女に頼って僕はベッドに座り込んだ。

「エイジ大丈夫? 病院行く? でも今のエイジって女の子状態だから戸籍とか色々なくて保険使えなさそうだよね……どうしようかな」

 キョロキョロと辺りを見回すリシア。乱れた髪から時折除くうなじがとても艶めかしい。

 じゃなくて、じゃなくて──

「リシアお姉ちゃん、エイジを落ち着かせたいか?」

 と、いつのまにか僕から離れたクティラがリシアの肩に乗りながら、彼女に話しかけていた。

 何を言うつもりだ。何を言おうとしている。

 なんとなく察している。こいつは、こいつは──

「クティラちゃん? 何か知ってるの?」

「当然だ。私はエイジと一心同体なのだからな……!」

 ニヤリと笑みを浮かべながら、クティラが僕をビシッと指差す。

「リシアお姉ちゃん。エイジは今、リシアお姉ちゃんの血を吸いたくて仕方がないのだ!」

「……え」

「……クソ……クティラ……!」

 余計なことを言いやがって。怒りが湧く。思わず拳をぎゅっと握りしめる。

 でも少しだけ、ほんの少しだけ感謝をしている。僕の伝えたいことを、代わりに伝えてくれたのだから。クティラも僕のことを考えて言ってくれたのだろう。

 感謝? 感謝ってなんだ。知られたくないのに、知られたくなかったのに、それを暴露されて感謝ってなんなんだ。

「エイジ……そっか……エイジって今ヴァンパイアだもんね……そか……」

 と、リシアが頬を赤く染めながら、僕に近づいてきた。

 なんだ? もしかして僕を殺すのか? ヴァンパイアハンターだから? 吸血鬼として目覚めつつある僕を殺すのか?

 リシアなら、リシアになら別に殺されてもいいかもしれない。優しくしてくれそうだし。

 もう、この苦しみを解放してくれるのなら。無限に襲いかかる矛盾による心的ストレスから解放してくれるなら──

「エイジ……苦しい? 辛い? よね……なんとなくわかる。エイジのそんな顔、私今まで見たことないもん」

 と、リシアは自らのパジャマのVネックを人差し指でそっと引っ張り、僕に首筋と胸元の柔肌を見せてきた。

 ふわっと香る甘い香り。目につく美しい透き通るような白肌。離せない、リシアから目を離せない。

「私……エイジなら別にいいよ……血を吸われても……。エイジなら……エイジだったら……エイジだから……」

「……リシ……ア?」

 彼女の発した意外な言葉に僕は驚き、喉が詰まり、言葉が詰まり、何も言えず、阿呆みたいに呆けて、固まってしまった。

 いいのか? 吸っても、吸っちゃってもいいのか?

 吸いたい。

 吸いたい。

 吸いたい。

──だけど。

「大丈夫だエイジ……恐れ慄くのは最初だけだ。一度吸えばわかるさ……ヴァンパイアが得られる喜びが如何に崇高で幸せなものなのかを、な」

 いつのまにか僕の肩の上に戻っていたクティラがそう囁く。

 僕はリシアを見る。彼女の顔を見る。

 軽く目を閉じて、少し震えながら、僕に身体を差し出している彼女。

 呆けてしまう、惚けてしまう。あまりの美しさに、尊さに、素敵さに、艶やかさに、エロさに──

「……エイジ?」

 そっと目を開け、リシアが僕を見てくる。

 彼女の目に僕はどう映っているのだろうか? ご馳走を目の前に待てをされた哀れな犬にでも見えているのだろうか。

 それとも、仲の良い幼馴染に食欲と劣情を沸かせる変態にでも見えているのだろうか。

 少なくともきっと、今の僕に良い印象は抱いてないはずだ。

 苦しい。苦しい。助けて欲しい。情けないけれど、助けて欲しい。

 リシアに、サラに、最悪クティラかラルカに。誰でも良いからこの渇きと飢えと欲求を何とかして欲しい。

 どうすれば、僕は一体全体どうすればいいんだ──

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