172.ぐちゃぐちゃになったあの日から、私はもう何もかも知らない、わからない
「……ティアラ。よしよし、だ」
お姉ちゃんの声が聞こえてきた。優しく、どこか凛々しく、素敵で、心地よい声色。
この声を聞くと私はとても安心する。私を大好きな人が、私を守ってくれる人がすぐ近くに居るんだって、本能で感じて察して安心できるから。
私はお姉ちゃんの手のひらがとても大好きだった。私のそれよりも大きくて、だけどとても柔らかくて、あまり温かくはないけれど確かに温もりを感じる手のひらが。
お姉ちゃんの手のひらが私の髪に、頭に触れるたびに。私は胸を高鳴らせていた。ドキドキと、お姉ちゃんに聞こえてしまうのではと心配になるほどに、大きく昂っていた。
お姉ちゃんが大好き。そう、私はお姉ちゃんが大好き。ずっと抱きしめていたいし、ずっと撫でられていたいし、ずっと一緒に居たい。
私はそんな激情を普段から抑えていなかった。お姉ちゃんなら受け止めてくれるから、受け入れてくれるから、そんな自信があったから。私は隠さず公にしながら、お姉ちゃんに愛を伝えていた。
だけどそれは間違いだったと、数年ほど前に気づいた、気づいてしまった。
お姉ちゃんはいつからか私を避けるようになった。上部では、見た目では、側から見れば普段から変わらないように見えるけれど、私にはわかった。
でもそれしかわからなかった。私には理由がわからなかった。想像つかないし推測できなかった。
絶対の自信があったからだ。お姉ちゃんは私のことが大好きだという、絶対の自信が。
だから信じたくなかった。だから私は、私自身に嘘をついて、お姉ちゃんにも嘘をついた。
気づいていないフリ。知らないフリ。察していないフリ。いつも通り。
本音で本心から愛し合っていた私たち姉妹はいつからか、嘘と誤魔化しで出来た偽りの仲良し姉妹へと変わっていた。
原因はわからない。ううん、わかっているけれど、わからない。知らない。気づいていない。
どうしても認めたくなかった、知りたくなかった。お姉ちゃんが私を避けているという事実を、お姉ちゃんが私を避け始めた真実を。
あの日から、真実に気づいてしまったあの日から、私の心は徐々に削られていった。
毎日毎日嘘をついて、毎日毎日騙されているフリをして、望んだ関係を保つように必死に演じて、心の奥底だけで嘆きを吐露して──
そんな毎日でも正直、私は幸せを感じていた。どんな理由があろうと、どんな理由だろうと、大好きなお姉ちゃんがそばにいてくれる事に変わりはないのだから。
嘘だっていい。辛くても苦しくてもいい。ずっとお姉ちゃんと居られれば私はそれで良かった。
──なのにお姉ちゃんは突然、家を出ていってしまった。
お姉ちゃんが家を飛び出して行った日、私はお姉ちゃんの使っていたベッドに倒れ込んで、一晩中泣いてしまった。
全身が冷たくなって、心臓がとても速く動いて、目尻が燃えるように熱くなって──
私のせいだ。私のせいだ。私のせいだ。自分を延々と罵り嫌悪し傷つけた。
それしか無かったから。それしかお姉ちゃんが不満を感じる要素が無かったから。
家族仲は基本良好。何不自由のない暮らし。だけどただ一点、お姉ちゃんは私を避けていた。
私が知っていたのはそれだけ。だからそれ以上の想像はできず、空想は思いつかず、理想なんて考えつかなくて、妄想に囚われて、真相には辿り着けないから、幻想を信じ続けた。
色々な噂が飛び交った。父との不仲、母との不仲、誘拐、その他諸々。
みんなわかっていない。私以上にわかっていない。お姉ちゃんのことを何も知らない。
お姉ちゃんは私を嫌っていたんだから、お姉ちゃんは私を避けていたのだから、お姉ちゃんが家から出る理由なんて、それしかないじゃん。
そうわかっているけれど、そう理解しているけれど、私はそれを信じたくなかった。だから自分に嘘をついて、自分を騙して、その事実を無かったことにしようとした。
だけど、色々な推測を色々な人から聞こえてくる度に、私の胸はズキンズキンと痛んでいった。
知っている事実。抱えている悩み。打ち解けられない悩み。信じたくない真実。理解したくない動機。わからないフリをした感情。
ずっと好きだから、ずっと大好きだったから、ずっと一緒だったから。それなのにしっかりとした理由がわからなくて、それを残したまま居なくなってしまったお姉ちゃんを、私は初めて恨んだ。
教えてくれればいいのに。そしたら私、そこを直したのに。延々と、延々と、私はお姉ちゃんに向け恨み節を呟いた。
ちゃんと教えてよ。どうして教えてくれないの。なんで私はわからないの。
疑問を解決しようとする度に、それに対する答えが疑問しか浮かばなくて、またその問いを解決するために疑問を浮かべ、それを解決するためにまた疑問点が上がる。
私の頭の中を疑問符が支配し始める。何もかもにはてなマークが語尾に付く。
知りたくないのに知りたがるから、頭がぐちゃぐちゃになっていった。
否定されるのが怖かった。初めて気づいた時からそうだった。私はお姉ちゃんが大好きだったし、お姉ちゃんも私が大好きだと思っていたから、信じていたから、そんな関係でずっと居たかったから。だから知りたくて知りたくて、だけど、その欲求とは正反対に何もわからないままを望んだ。
それでもやっぱり知りたかった。戻りたかったから、そのままでいるために知らないことを選んだけれど、それを維持するために私は正反対の行動を取った。
お姉ちゃんの居場所はわかっていた。お姉ちゃんの魔力は常に感じていたから、どれだけ遠くに居てもすぐに居場所を把握できたから。
覚悟を決めて、意を決して、固唾を飲んで、涙を拭って、仮面を被って。私はお姉ちゃんの元へと向かった。怖かったけれど、頑張って勇気を出して。
そして、お姉ちゃんに久しぶりに会えた時、私の胸はズキンと痛むと同時に、ドキドキと高鳴り始めた。
やっと会えた、また一緒にいられるかも、そんな希望的観測。それと、お姉ちゃんと話すことによって、必死に取り繕ってきた私の理想の幻想が砕けてしまうのではないかと言う、ネガティブな想像が私の脳裏に浮かんだからだ。
会いたかったけど、会いたくなかった。会えてよかったけど、会えない方がよかった。
どうして好きな人に会えたのにこんなに苦しまなければならないんだろう。好きだからダメなのかな、大好きだから嫌なのかな。
それなら私、こんなに嫌な気持ちになるなら私、お姉ちゃんの事好きにならない方が良かったのかも。
お姉ちゃんの事が大嫌いだったら、大好きなお姉ちゃんの事を嫌わずに済んだのに。
だけど、好きという気持ちを抱きながら過ごしたお姉ちゃんとの日々は楽しくて、嬉しくて、幸せで──
本当にそれが好きで、そんな日々を私と暮らしてくれるお姉ちゃんが心の底から大好きで──
私の理想のお姉ちゃんで居て欲しかった。なのに、なのに私が知ろうとしたから、選択を間違えてお姉ちゃんの好きな私になろうとしたから、お姉ちゃんは私の考える素敵で優しい大好きなお姉ちゃんじゃなくなっ──
*
「あ……えっと……サティラちゃん、起きた?」
「……リシア……お姉さん……?」
「サティラ……否……ティアラ。話があるのだ……私と来てくれるか……?」
「……お姉ちゃん……ふにゃ……うん……いいよ……聞く……だからちゃんと話してよね……お姉ちゃん……」
「……うむ、約束する」




