137.全国津々浦々の乙女が抱く複雑で難解な楽しくも苦しいけれどきっと自分を成長させ人生を彩ってくれる複雑な感情。それこそが──
午後九時半。私は、クティラちゃんを膝に乗せながらソファーに座り、スマホをいじっていた。
お兄ちゃんはリビングに居ない。お風呂に入っているからだ。正直居ても居なくてもいいけど。クティラちゃんがいるから寂しくないし。
「なるほどな……うむうむ」
まるで幼子のように足をパタパタとさせながら、絵本でも読むかのように両手で本を持ち、相槌を打つかのようにぶつぶつと呟きながら、クティラちゃんは本を読んでいる。
私はそんなクティラちゃんが何となく可愛く見えて、何となく撫でてあげた。
私の撫で撫でにクティラちゃんは特に反応する事なく、嫌がるそぶりも見せずに、そのまま受け入れてくれた。ので、私は遠慮せずに彼女を撫で続ける。
「えっへへ……」
つい笑い声が漏れてしまった。だって嬉しいし、楽しいんだもん。
クティラちゃんってお兄ちゃん相手には常に強気だけど、私相手だと意外と素直に甘えてくれるのでそこがとっても可愛い。まるで妹が出来たみたい。
私はいつも可愛がられる側だったから、余計にクティラちゃんが愛おしく思える。
「……サラ、少し撫ですぎではないか?」
と。クティラちゃんが持っていた本を閉じると同時に、私を見上げるようにしながら言った。
「あ、嫌だった?」
私は少し首を傾げながら、ほんの少しだけ申し訳ない気持ちを込めながら彼女に問う。
するとクティラちゃんは長く綺麗な髪と顔を横にブンブンと振り、私の問いにジェスチャー付きで答える。
「否、嫌ではないぞ? ただ、珍しいなと思っただけだ。撫で撫ではよくしてくるが……今の所最長記録だ、今回の撫で撫で」
「へ? あはは……私、そんなに撫でてた?」
私が改めて問うと、クティラちゃんは可愛らしく私の目を見ながら、力強く頷いた。
「ふふふ……言いたいことはそれだけだ、サラ。引き続き思う存分記録を伸ばすといい」
と。いつも通り自信満々なドヤ顔を浮かべながら言うと、クティラちゃんは私から顔を逸らし、本を開いてそちらに視線を向けた。
ので、私も改めてスマホを持ち直し、そっちに視線を向ける。
もちろん、クティラちゃんを撫でながら。
「……む……なるほど……そういう解釈もあるのか……いやしかし……ふむふむ……」
「……あ、可愛い。でもちょっと遠い……お兄ちゃんに勝ってきてもらおうかな……」
「……ほう……む……うむぅ……むぅ……ん……なるほどな……」
「……へー……ふーん……ん……へぇ……」
「……素晴らしいな……だが……ふむ……なに…?」
「……かわ……てかメロい……いいなー……」
お互い会話をするように、されど相手は意識せずに、けれど誰かに話しかけるように。私とクティラちゃんは独り言を呟き続ける。
何でだろう。別にする必要はないのに、つい独り言を呟いてしまう。
もしかしたら、心の底では誰かと共有したい、そう思っているから呟いてしまっているのかもしれない。気になるような言葉、匂わせにも感じる呟き、それを声に発して、すぐ近くにいる誰かに興味を持ってもらおう。そう思って、独り言を呟いているのかも。
私はスマホから目を逸らしクティラちゃんを見る。彼女は、本と睨めっこをしていた。
思わず私はため息をつきそうになった。自分のバカさ加減に。
クティラちゃんが発しているのは集中してるが故の独り言だ。きっと彼女は、本と真っ直ぐに向き合って、著者の一言一句を真正面から受け取り、本を通して著者と会話をしているのだ。
私みたいに、構ってほしい欲を変にカッコつけて、中途半端に誤魔化しながら呟いている独り言とは違う。
(……暇、だなぁ)
私はスマホを置いて、両手を使ってクティラちゃんの頭を撫で始めた。
(さっきは居なくてもいいとか言っちゃったけど……お兄ちゃん、早くお風呂から出ないかな)
お兄ちゃんの顔を思い浮かべながら、私は耐えきれず、思わずため息をついてしまった。
寂しがりやの自分に呆れて。どこまでもブラコンシスコンな私に呆れて。結局誰かと一緒じゃないと生きていけない自分に呆れて。しょうもない構ってちゃんな私に呆れて。
(暇だよ……暇暇暇)
私はクティラちゃんを撫でる、撫で続ける。気づいて、構って、お話したいよ、と。愛のままに、我が儘に、私はクティラちゃんを傷付けないようにひたすら撫で続ける。ついでに、愛しさと切なさと心強さも込めておこうかな。
「んみゃめぇぇぇ……」
「へ?」
突然。クティラちゃんが変な鳴き声を出した。私はそれに反応してビックリして、勢いよく彼女の頭から手を離してしまう。
するとクティラちゃんは先ほど同様、上目遣いで見上げるように私を見てくる。
「ど、どうしたのかなクティラちゃん……」
私は思わず彼女の問いかける。するとクティラちゃんは、珍しく頬を膨らませ、怒っているかのような表情を浮かべた。
そして、私をじっと見つめて数秒後。彼女はゆっくりと口を開いた。
「いくら何でも撫ですぎだサラ……! 頭上からトキメキと微笑みがばら撒かれている気分だったぞ……!」
「それどんな気分……じゃなくて。ご、ごめんねクティラちゃん……!」
私はすぐに両手を合わせて、勢いよく顔を頷かせ謝る。
それでもクティラちゃんは表情を変えず、ぷくっとカエルのように頬を膨らませながら私を睨みつけてくる。
仕草や見た目だけでなく、起こり方にも幼さを感じて、私はつい笑いそうになる。必死に我慢するけど。
「全く……撫でるのはいいが、撫ですぎは厳禁だ。何事もやりすぎては、己の身を滅ぼすだけなのだぞ?」
(な……撫で撫でのしすぎで身を滅ぼすことはないと思うけどなぁ)
私は苦笑いをしながら、もう一度クティラちゃんに謝る。
すると今度は許してくれたのか。ふぅと一息つくと、クティラちゃんは再び本を開きそれへ視線を向き直った。
ので、私はもう一度クティラちゃんの頭の上に手を置き、撫で撫でを再開した。
今度は怒られないように。慎重に、丁寧に、気をつけて、しっかりと、安全に、確実に、優しく。
「……ん? 珍しいな……クティラがサラの上に居るなんて」
と。後ろから突然、お兄ちゃんの声が聞こえてきた。
私はそれに反応して、思わず振り返る。すると当然だけど、お兄ちゃんと目がバッチシ合った。
風呂上がりのお兄ちゃんは色々と濡れていて、ちょっとだけ色っぽい。ほんの少しだけ、ほんのちょっとだけ、一瞬だけそう見えた。
お兄ちゃんが見つめてくる。私を、お兄ちゃんを見つめている私を見つめてくる。
じっと見つめる。じっと見つめてくる。じっと見つめてしまう。じっと見つめられている。
「……お兄ちゃんのバカッ!」
私はなんだか恥ずかしくなってきて、ついお兄ちゃんを罵倒してしまい、すぐに彼から顔を背けた。
「え……えぇ?」
お兄ちゃんの困惑した声が聞こえてきた。当たり前だ。何もしてないのに急に罵倒され、そっぽを向かれたのだからそんな声が出てしまうのも無理はない。
(ご……ごめんなさいお兄ちゃん)
素直に謝れない私は、心の中だけで彼に謝る。私に非があるのにどうして謝れないんだろう。私はそんな自分が嫌に感じて、小さなため息をつい、ついてしまった。
「な、なあサラ……僕、何か悪いことしたか?」
と。お兄ちゃんが私の目の前にやってきて、首を傾げながら聞いてきた。
私は恥ずかしさを誤魔化すように、俯きながらも少しだけ顔を上げて、お兄ちゃんの目を見て言った。
「お……乙女心は複雑なの! お兄ちゃん!」
「そうだぞエイジ。乙女心は複雑なのだ」
「……そうか、乙女心は複雑なのか」
お兄ちゃんの呟きを最後に。しばらくの間、リビングは沈黙に包まれた。




