127.彼女はニンファマニア……
「……今なんて言ったの愛作くん? 私になんて言ったの? 私に何を聞いたの? ねぇ……?」
(……雰囲気が変わった。図星だったのか? だとしたら彼女はなんで……こんな事をしようとしているんだ……?)
咲畑さんが小さな声でぶつぶつと呟き始める。先ほどまでの露骨なまでにアピールしていたエッチな女の子らしさは全くなく、瞳孔からもハートマークと光が消え、それはぐるぐると渦巻いている。
彼女は僕の顔から離れ、片手で自らのこめかみを爪を突き立てるように押さえ始めた。
「……なに……なんなの……なんも知らないくせに……知ってるわけ……きも……くそ……ううん……違う……あは……っ♡」
ぶつぶつと何かを呟いた後、咲畑さんの雰囲気が戻った。ニヤリと笑みを浮かべながら、可愛らしい笑い声を出す彼女は再び、自分の顔を僕の顔へと近づけてきた。
「ごめんね愛作くん……もうっ、愛作くん急に萎えるようなこと言うからちょっとビックリしちゃった♡」
と。彼女は先ほどまでの調子を取り戻し、目に光を宿し瞳孔の奥にハートマークを瞬かせながら僕の顎に人差し指でちょんっと触れ、悪戯っぽく笑いながら言う。
さっきまでならドキドキしていた仕草。胸がときめいていた可愛いらしく艶やかな仕草。けど今は、それを見ても落ち着いていられる。
だって知ってしまったから。気づいてしまったから。彼女は何かしらの理由で、僕を嫌々襲っていると言うことに。
僕が何も言わずにいると、咲畑さんは少し目を見開き驚くように僕を見てから、急いで僕に触れていた手をどかす。
数秒後。彼女は笑みを浮かべながら、僕に右手の親指と人差し指を見せつけてきた。
「ほら見て……私の指に纏わりついているこの粘液……。親指と人差し指の間を繋ぐえっちな橋……。童貞の愛作くんでもこれが何かわかるよね……。ね、目を逸らさないでちゃんと見て♡ 私があなたに興奮して欲情して発情して劣情を抱いている証拠なんだから……♡」
「……咲畑さん」
僕は彼女に何かを言おうとした。けど、言葉が出なかった。
どうすれば、何を言えば彼女を止められるのか思い浮かばない。こんな時にクティラが居てくれれば──
(いや……ダメだ。クティラに頼ってばっかじゃ……)
僕は拳をギュッと握りしめた。覚悟を決めるため、意を決するため。
正直咲畑さんの事は何もわからないから、彼女を宥める言葉は思いつかないし思い浮かばない。そもそもどうしてこんな事をしようとしているのかもわからない。
わかっているのはただ一つ。これも推測に過ぎないけれど、それでも貴重な判断材料だ。
咲畑さんは今、無理をしている。自分の意思に反する事をしている。
血を吸いたい吸血鬼の本能と、吸いたくない人間の倫理観の狭間で揺れ苦しんでいたケイと全く同じ目をしていたのだから、きっとそうに違いない。
そんな彼女の心を軽くする、彼女の心を救う優しくて的確な都合のいい言葉を僕は今、彼女に伝えなければいけない。
そうでなければ咲畑さんはこのまま僕を襲い、そして僕は童貞を奪われて死ぬことになる。それだけは絶対に避けなければ。
(……クソ。自分の助かりたい欲が強いのと、咲畑さんの事を何も知らないから……全然いい言葉が思いつかない……!)
何も思い浮かばない。どれだけ考えても、彼女にかけるべき言葉が見つからない。
「見て……もうぐしょぐしょだよ? 我慢できないなぁ……したいなぁ……愛作くんもそうでしょ……♡」
咲畑さんが制服を脱ぎ始めた。まずは上、慣れた手つきであっという間に下着だけの姿へと早替わりする。
一度舌で唇をペロリと舐めてから、彼女は僕をじっと見つめながら、己の下着に手をかける。
──これ以上はダメだ。
僕はそう思った瞬間、思わず手を伸ばし彼女の腕を掴んでしまった。
「あ、愛作くん……?」
戸惑うような声、信じられないと言った声で咲畑さんが僕の名前を呼ぶ。
それを聞いた僕は、少し恥ずかしいけど咲畑さんの目をじっと見ながら──
「咲畑さん……その、もうやめよう? よくわからないけどさ……本当はしたくないんだよね? 僕と」
感情のままに、何も考えずに、自分の素直な気持ちを彼女に率直に伝えることにした。
「へ……へ……な、何言ってるのかな!? したくなかったらこんな行動起こすわけ──」
「誤魔化してもなんとなくわかるよ……今の君の目、僕の友達にそっくりだから。気持ちではしたくないのに……やらなきゃいけないと強い力で無理矢理促されている時の友達に……」
──そして、きっと僕にも似ている。
「……は……なに……なんなの……何が言いたいのか全然わかんないんだけど……?」
「えっと……つまりその……。咲畑さん、本当は僕と……その……アレをする気、ないよね? したいとは思ってないよね? 要するにその……しなくちゃいけない理由があるから、仕方なく僕としようとしているんじゃないかって……僕は思うんだ」
「……なにそれ」
「その……どういう事情があってどんな理由があるかわからないけど、したくないならしなくてもいいと思うんだよ。特にこの……その……セッ……ってさ……好きな人とやるもの……じゃん……? もっと自分を大切にして欲しいっていうか……」
「なにそれ……」
「だからその……えっと……僕に手伝えることがあったら手伝うからさ。抗ってみない……? 咲畑さんの抱える問題に……」
「なにそれって言ってるじゃんッッッ!!」
「イタ……ッ!?」
パンっと、静かな空き教室に響く頬を弾く音。その直後、僕の頬にジリジリと痛みがやってくる。
地雷を踏んでしまったのか、僕の言葉が気に食わなかったのか。咲畑さんは怒号を上げながら、僕の頬を思いっきり引っ叩いてきた。
「いるよね……たまにいるよね……アイツも……! アイツもアイツもアイツもそうだった! 女の子の気持ちも考えないで無責任に優しい言葉を投げかける最低最悪なクズ男がッッッ!!!」
目を見開き血走らせ、咲畑さんが僕を睨みつけてくる。
あまりの迫力に僕は思わずビクッとなる。が、彼女から目を離さない。
やっぱり彼女は同じだ。あの時のケイと同じだ。
己の気持ちと本能の乖離に苦しんでいるんだ。それがどんな気持ちなのかはわからないけれど、本質は同じはずだ。
「無駄に偉そうに説教してくるおっさん……! 変に倫理観ちゃんとしてるキモオタ……! 自分の立場と私の立場を理解していて説得してくるクソ教師……! みんなそうだ……最初はそうだ……私がいいよって言ってるのに、しようよって誘ってるのに……それで喜んでるくせに……ぃ! 変に理性的で自分の欲求に素直に従わないクソ共……!」
息を乱しながら、己の額に手を当てながら咲畑さんは叫び続ける。
僕に向かって叫んでいるのか、見えない誰かに向かって叫んでいるのか。誰にも何にも視線を合わせずに彼女は叫び続ける。
「それで結果本番をしないならいいよ……でも結局誘惑に負けてするんだからさぁ……!? 無駄に期待させて無駄に望みを見せて無駄に時間を浪費するだけなのにさぁ……!? あーもぅ……やだ……頭おかしくなる……」
突如、低く濁った怒鳴り声から一転、弱々しい声で小さく弱音を吐く咲畑さん。
その直後、僕をその大きくて綺麗な瞳で睨みつけてきた。
「……ねぇ、愛作くん」
そして、咲畑さんはハッキリと聞こえる綺麗な声で、僕の名前を呼んだ。
数秒の沈黙。僕たちは見つめ合う。お互い何も言わずに、ただただじっと。
何も言えない、何を言えばいいのかわからない、何か言っても良いのか判断ができない。
僕はただ、黙っていることしかできなかった。
さらに数秒後。咲畑さんが、ゆっくりと小さな唇を動かし始めた。
「……愛作くんってさ、普通にクズ男だよね。私のことわかってるよ風にさ、優しい言葉をかけて……味方だよってアピールしてきて……なにそれ? アニメの主人公気取り? 人のトラウマ掘り下げて……俺がお前と一緒にいてやるとか言って女の子をキュンっとさせる系のクズ? そういう男が私……一番嫌いなんだよ……気持ち悪い……本当に気持ち悪い……人の弱みに漬け込んで、土足で偉そうに踏み込んできて、自分の存在を相手に刻み込んでやろうっていう図々しさが気持ち悪い……」
呆れたように、自身を嘲るように、咲畑さんは言う。
つい先程までの彼女とは同一人物と思えないほどネガティブな雰囲気。これが本当の咲畑咲なのだろうか。
「あーもういいや……なんかどうでもいいや……早く終わらせよ……本当は本当にほんの少しだけ興奮していたから……堪能してみたかったけど……なんか、いいや……」
すぐ近くにいる僕に聞こえないほどに、小さな声で咲畑さんが何かを呟く。
その直後、彼女の全身にどこからか現れた黒いオーラが纏わり付いた。
「な……!?」
咲畑さんに纏わる黒いオーラはやがて、彼女の背中に集まっていき、羽のようなものを形成する。
そして、それと同時に咲畑さんがニヤリと、どこか悲しげな笑みを浮かべながら僕を見つめ──
「あは……♡ 私ね、人間じゃないんだぁ……信じられないかもだけど私、サキュバスって言う種族なんだよ……♡」
と、彼女は妖艶な笑みを浮かべながら言った。
「……じゃあ、童貞貰うから……♡」
僕を見つめる大きな瞳には、その瞳孔の中心には、ピンク色の小さなハートマークが浮かんでいた。




