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「はじめー?あんた宛に手紙が届いてるわよ?」
そんな母親の声で目が覚めた。久々の快晴もあってか、僕の目覚めはいつもより良かった。されども、することはいつもと変わらない。いつもの如く体を布団から引き剥がし、寝巻から制服へと着替える。
ただ、今までと違ったことは僕は自分の手首から先がないことである。「は?さっきは腕が消えたとか言ってたじゃないか」とツッコミを入れたくなるのは分かるが、まあそれは表現の問題だ。そもそも肩から手にかけてを総じて腕と呼ぶのだし嘘は言っていないから許してほしい。
しかしまあ、目には見えないというのに、ものを触っている感触があるのはなんとも不思議な感覚だ。視覚的には、目に見えない何者かに勝手に学ランが着せられているといった感じであるのだ。認知的不協和とはこのことを言うのだろうか。中々に気味が悪い。
とはいうものの、目には見えないというのにボタンをはめるのに何の苦労もなかった。まあ、これに関しては目を閉じて身支度を整えるのと変わりはないのでわざわざ言うべきでもないことだろうが、それにしても変な感覚である。
「はじめー?まだ寝てるのー?」
再度、階下からの母親からの間延びした呼び声でふと我に返った。
こうしてはいられない。母さんに僕の腕を見られては世話ないからだ。
僕は一週間で一度開くかどうかの箪笥を漁り、奥底で眠っていた古ぼけた薄手の黒い手袋を取り出し、そして装着した。
うん。多少は怪しまれるだろうが、これで僕が透明人間もどきであることはバレることはないだろう。最悪、僕が世代遅れの中二病を発症したと思われるぐらいで済むに違いない。
――しかしまあ、今になってこれが必要になるとはね。
「今行くー」
僕はそう返してリビングへと向かった。
因みに、一応、学校ではピアノをやっていると言って押し切るつもりだ。幸い学校に僕を詳しく知る人間はいないし、僕の嘘に気づくことはないと言っていい。信じるかは別として。
「母さんはもう出るから戸締りよろしくね。後洗い物も!」
「分かってるよ」
「あと、朝ごはんと手紙は机の上に置いといたから!それじゃ!」
「手紙?」
そんな僕の疑問は意にも介さず、母さんは風の如く外に飛び出していった。漫画であればグルグル足で描かれそうな勢いだ。僕も大人になればああやって時間に追われる日々を過ごすのだろうか。そんな母親を見送りつつ僕は思いを馳せる。ああ、世知辛い、世知辛い。
そうは言うけれども、世間一般的な高校生もまた時間に縛られて生きている生き物だ。かくいう僕もあくまで世間一般という枠組みからは外れていないわけで、今日もまた始業時間までに学校へと赴かなければならない。しかもどうやら今日は手紙まで付いているらしい。悠長する余裕は今日の僕にはない。
「いただきます」
まずは卵をホカホカのご飯の上に割り落とし、醤油をかけたうえでかき混ぜる。行儀が良いとは言えないがこれが一番早い。テレビでも卵の流動性はピカ一だと言っていたし。
そして、最期はみそ汁で流し込んで僕の朝ごはんは終了だ。タイムはおよそ三分と言った所だろうか。中々のペースだった。
「ご馳走様でした」
食器を台所へ持っていき食洗器へ放り込む。勿論、予め水につけてある他の食器も忘れない。
「少量、三十分っと。よし、スタート!」
唸りをあげて稼働し始める我が家の十年選手の食洗器を尻目に、僕はソファーでほっと一息つき、そしてテーブルの上に置かれた一通の手紙に目を落とした。
宛名は確かに僕の名前が書いてはあるが、肝心の差出人の名前が見当たらない。もっとも、あったところで意味のないことなのだろうが、しかしそれでも、母さんから余計な詮索をされないだけめっけもんである。往々にして母親という生き物はお節介焼きなのだ。
以下本文。
『何故、私が五月七日一君の住所を知っているか疑問に思ってるでしょうから、まず初めに言っておきましょう。話は簡単で、先生に聞いたらすぐに教えてくれました。十年前ならいざ知らず、このご時世に、こんな杜撰なセキュリティ管理には呆れたものですが、なあそれは良しとしておきましょう。私に利があったのですから。
それでは本題に入りましょうか。透明になってしまったあなたの腕のことです。
私がこんなことになってしまったのは、中学二年生の頃でした。ある日、家で飼っている柴犬のノブナガが透明になってしまったのが始まりです。母親も父親も同様に透明となってしまいました。私が愛用していた文房具もです。幸い三名は元通りになりましたが、文房具はずっと透明なままでした。もっとも私がなくしただけで、どこか私の知らない場所で元通りになっているのかもしれませんけれど。生憎それを確かめるだけの手段を私は持ち合わせていませんでした。因みに、私が銀髪なのはその現象の現れです。ほら、髪は女の命というでしょう?
話を戻して、これらの結果から私が導き出した結論はこうです。私の意識をトリガーとして、私に意識されたあらゆる物体は透明になってしまう。そして、その状態が戻るのは生物だけ。もっと言うと細胞が入れ替わるかどうかでしょうか。まあ、この二つに大した違いはないのでしょうけれど。
そして極めつけは、対象を直視することでよりその効果は顕著になるということです。
中学時代のクラスメイトの何人かの姿は薄くはなっていましたが、問題になるほどではなく、少し色白になる程度で済みました。前者と後者の違いを考えると、そう考える方が適切でしょうから。もしかすると距離が関係しているのかもしれませんけど。こんな感じで、私が得た結果からはこの二つのいずれかに限定するだけで精一杯でした。とは言え、これだけわかれば十分でしょう。
長々と書いてはしまいましたが、一つ確実に言えることは五月七日君のその腕はいずれ元通りになるということです。という訳で、これからは私を気にすることなくどうぞ普通に学校生活を送ってください。
P.S.主犯格の私が言うことではないかもしれませんが、私の連絡先を記載しております。何かあったらどうぞ連絡してください。そして、決して直接私と会話しようなんて変な気はおこさないようにだけ念を押しておきます。あなたが真の透明人間になりたいなら話は別ですけれどね』
以上本文。
やはり、と言っては何だが、しかしやはり、差出人は不知火愛だった。差出人もなければ、本名すら、何処にも書かれていないが、しかしこれだけ文字が薄ければそれ以外に断定のしようがないだろう。それに昨日の一件を知っている人は、やはり僕と彼女しかいないわけでもあるのだ。
裏返してみると、勿論消印は押されていない。そりゃあ、昨日の今日だしそれは当たり前なのだが、ということは彼女は昨日のうちに僕の家を調べ上げ、この手紙を書き上げ、僕に差し上げたということになる。
――いや、最後のだけは修正しておこう。今の僕はそこまで偉い人間でもないのだから。謙譲語を使われるほど、僕は立派な人間じゃあない。
こんなものメール、ないしはLINEで済ませればいいとは思ったが、よくよく考えてみれば僕は彼女の連絡先を知らないし、それはこの手紙がありありと証明してくれている。
僕は、手に持つ手紙をテーブルの上に戻した。
取りあえず、だ。僕の腕が戻るならば何の問題もない。むしろ貴重な体験をさせてくれてありがとうとこちらからお礼をしたいほどである。一つだけ問題点を挙げるとするならば、この黒い手袋だけだし、ピアノのために手袋をする人間なんて、創作物の世界でしか聞いたことはないが、まあ創作物にあるということは現実でもあるということだろう。ならば、僕は突如ピアノに目覚めて、手袋をして学校に行こうが何の問題もないはずである。幸いにして僕が通う学校はそこらへんに関しては寛容だし。勉強さえできれば、コミュニティを著しく乱すようなことがなければ基本お好きにどうぞのポリシーである。
しかしまあ、事情は置いておいて僕は初めて異性の連絡先を教えてもらったという側面が無きにしも非ずな訳で。むしろ、そういう側面の方が得てして重大なような気がする。彼女の身の上を考えれば、嬉しいという感情が不謹慎であるのは重々承知なのだが、しかしそれでも心が踊るというのは高校生男子なら避けられないことなのだろう。ある種の生理現象と言ってもいいかもしれない。
『連絡ありがとう。僕の方は問題ないから気にしないで。それより僕に手伝えることはないかな?ほら、僕にも非があるわけだし』
そしてこれが、僕が異性に初めて送ったメールである。別に何も嘘は言っていない。助けを求められたら、多分僕は見境なく助けるだろう。一度に二度も初めての経験をさせてくれたのだから、極めて正当なお返しである。
そもそもとして、僕の性質上こんな面白いものに興味が湧かない方があり得ない。むしろちゃんと相手の確認を取ったことを褒めてほしいものだ。以前の僕ならば相手の立場や感情など無視して、自分の好奇心を満たすだろうから。そしてやたらめったらに場をかき乱すだけかき乱すだろうから。
僕は、カバンを背負いドアを開ける。あまり晴れの日は好きではないけれど、しかし今の僕の感情にはピッタリなんだろう。得てして、晴れの転機は晴れやかな心の比喩として描かれるらしい。
入学して早一ヶ月、少々気怠くなりつつあったバス停から続く学校への長い坂も、何ならスキップで駆け上がりそうなほどに僕は舞い上がっていた。