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 不知火愛(しらぬいあい)は入学して一週間が過ぎる頃には、すでに「高嶺の花」なんて敬称でクラスメイトから、或いは学年全体から実しやかに囁かれるほどに、孤高の存在という認識をされていた。

 まるで、彼女だけ別世界にいるように、休み時間はおろか授業中でさえ虚空を見つめるばかりで口数はもはや寡黙の域を超えていた。彼女の隣の席であるこの僕も、彼女の口から五十音全ての発音を聞いたかどうか定かではないほどに。

 まあ、これに関しては、責められるようなことではないだろう。例え僕でないにしても、どんなに彼女の席に近かろうと、そんな程度の関係性では叶わないに違いないのだから。授業中に彼女が当てられるのは黒板に何か書くときぐらいのもので、彼女の言葉を聞くことは叶わないし、授業外の時間は即座に教室から出て行くし、せめてものクラス内ディスカッションですら彼女に意見を求めようなどという命知らずは現れることはない。無視されて自信を無くすという一択しかないのだから。自ら死地に赴く命知らずはいないということなのだろう。まあ、当たり前のことではあるけれども。

 そんな全く授業を受けていない風の、授業中ですら黒板の方を全く見ず、どこか心ここにあらずの彼女ではあるが、別に学力が低いわけではない。むしろ、成績はかなりいいようで、つい最近行われた実力テストでは堂々のトップテン入りを果たしたようだ。因みにこの学校はトップテンのみ堂々と張り出されるので、それに乗った時は中々に悦に浸れるらしい。まあ、そうは言っても、彼女には関係のない話なのだろうが。そもそも、順位なんてものに興味はないのは間違いない。仮にそうだとすれば、普通に授業には参加するだろうから。

 話は逸れたが、彼女の容姿もまた彼女のその異端さを正当化させる大きな要因だろう。いや、むしろその容姿ゆえの立ち振る舞いなのかもしれない。

 そう思わせるほどに彼女の容姿は人智を越えていた。彼女の顔だけに注視するならば、彼女はあくまで日本人顔の範疇に収まる目鼻立ちをしているし、それだけなら「百年に一人の」や「千年に一人の」なんて呼称で、毎年メディア業界を席巻する美少女たちが、彼女の美貌を前に、平伏する程度で済むのだろうが、彼女の腰まで流れる日本人離れした銀髪によって次元の違う美しさを彼女に与えていた。

 これではひれ伏すどころか、むしろ心酔してしまうほどである。眩いばかりのなんて言葉で度々美しさは修飾されるけれども、彼女の美しさは心を奪われるほどの一段また違った美しさなのだ。

 源氏物語で読んだが、ゆゆしき美しさとは彼女のような人間を言うのかもしれない。もっとも、ゆゆしくなるのはこちら側だと予め断っておくけれども。少し手を触れただけで崩れそうなのに、こちらの心を奪ってしまうほどの強さを兼ね備えた、非常に不安定なのに、不思議とこれ以上もないだろうと断言できる均整の取れた美しさが彼女にはあった。

 そして、それ以外に――美しさ以外に、彼女の特徴をあげるとすれば彼女の筆箱にバイオリンのキーホルダーがついていたぐらいのものである。しかし、これぐらいの特徴ならば年頃の女子高校生であれば当たり前みたいなものである。

 それが特徴になってしまうほどに彼女の美しさは次元が違ったということだ。

 おっと、美しさ以外の特徴を挙げるつもりが、美しさを称賛してしまった。失敗、失敗。

 とまあこんな風に美しさ以外に論じようとしたところで、全ては美しさに帰結されるというなんとも馬鹿げた話ではあるが、彼女が美しいのだからしょうがない。と、そう言わざるを得ないのもまた言い逃れできない事実である。

 さて、散々言葉を尽くして彼女の美しさについて述べてきたけれども、僕が見たところ、彼女には人間らしい欠点が恐らく一つだけ存在していた。

 それはある日、最初で最後の彼女が落としたプリントを僕が拾った時のことだった。

 そのプリントに書かれた彼女の文字は薄かったのだ。

 本来ならば何も目くじらを立てるようなことではないかもしれない。字が薄い人間なんて男女と問わず大多数とはいかないまでも、多くの人数がいるだろうし、事実そのことで彼女が何らか注意を受けたということはないようである。正直、読むのが不可能とまではいかない薄さではあった。マーク式ならいざ知らず、普通の記述式であれば何事もなく採点されるだろう濃さではあった。

 だが、彼女の使うシャープペンシルは5Bのものだった。ここまで特殊なシャープペンシルを使っているというのに、彼女の書く文字は薄かった。注力して書けば薄くは書けるものの、そんな非効率な手段を彼女が取るはずもないだろう。そんな非効率な手段を取る人間が碌に授業を聞かずにテストで高得点を取れる訳がないからだ。もっとも、高校一年の範囲全てを既に網羅していると言われればそこまでではあるが、しかしそんな人間が彼女のような高校生活を送るとは考えづらい。

 そして、その異常な彼女の文字の薄さは何もそのプリントに限った話ではなかった。返却されるプリントを盗み見たところ、やっぱり彼女の書く文字は薄かったし、しかも僕が確認した全ての文字がそうだった。一言一句全てが、やはり薄かった。

 そうは言うけれども、全部が全部均一な薄さではなく、所々5B本来のポテンシャルを発揮したものや、HBで書いたものよりも遥かに薄い文字なんかが見られた。そうなるとこれはわざとなんだろうか。深窓の令嬢を気取る彼女にも中々人間らしいところもあるのかもしれない。ともするとこれは欠点ではなくむしろ長所と呼べるのだろうか。先に述べたように、これも美しさを助長しかねない。どうやら前言撤回した方がよさそうだ。

 さて、ここいらで総括としよう。

 彼女はあらゆる人間とねじれの位置に存在していて、彼女と何かしらの関係を持とうとしてもそれはどだい無理な話で、ただ彼女と自分はすむ世界が違うのだという現実を突きつけられるだけ。そんな幻想を抱くことが端から間違いである。

 彼女を学校での姿を知る者なら誰だって思っていたことではあるだろうが。僕も御多分に漏れずそう思っていた。


 その時までは。


 まあ、こんな長話をしておいて彼女と僕は無関係です。なんていう話がある訳もなく、それは五月に入り勉強もやや本格化し始めた頃に起こった。初めて移動教室で授業があった僕が、階段を上る途中で目の前から不知火愛その人が降ってきたのだ。

 階段にバナナの皮なんてものは落ちていないし、床は結露もしていない。彼女を押し倒した人間もおらず、彼女はなにも階段の途中でバク宙などという暴挙に出た訳でもない。転ぶ要素などないはずだが、それでも彼女は僕の目の前に降ってきた。彼女の下着(パンツ)を見られるかもしれないなんて言う馬鹿げた妄想を抱いた僕に天罰が下ったのかもしれない。こう言うと「なに天罰なんて言ってるんだ!むしろご褒美じゃないか!」なんてお怒りの声が聞こえてきそうではあるが、少なくとも僕にはそれが天罰としか思えなかった。下心に対する罪悪感があったからかもしれないが、しかしそれよりもよほど重大なことが僕の身に起こったからである。


 僕の腕は、彼女に触れた瞬間から即座に色を失い、そして――透明となった。


 仮に僕が避けたとしても彼女が身を翻し、後頭部を強打するなんてことはなかったかもしれない。そもそもとして彼女の体育の成績は優秀なようだし。が、しかし僕は前から足を滑らせてきたらしい女の子に手を差し伸べるという至極当たり前な、むしろ条件反射と言ってもいい行動を躊躇うだけの余裕はなかった。

 それ故に僕は、僕のこの行動が間違いだったとは思わない。そもそも、人を助けて透明人間になるなんて絵空事をこの刹那で思い至り、彼女の身体能力に命運を任せるという結論に至れる人間がこの世にいるだろうか。少なくとも、日本が誇るスーパーコンピューター『富岳』ですらそんな結論には至れないだろう。

 さて、透明人間と言えば聞こえは良いけれども、僕は腕から先が透明なだけの透明人間崩れだし、そんな僕に悔し涙を流すようなナイスガイは到底存在しないだろう。我こそはという人がいるならぜひ名乗りをあげてほしいものだ。しかも、もとの姿に自由に戻る訳でもないのから。

 つまるところ、僕の透明になった両腕はその日はおろか、しばらくの間、僕の目から認識されることはなかった。

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