王狼の籠手
「ただいまー……ああ、自然と職場を帰る場所認定している自分の頭が恨めしい……」
なんで人間は過酷な環境であっても順応してしまえるんだろうか。一ヶ月に休みが数日しかない職場なんて爆発炎上しろと思えこそ帰ってきたいとなんて思うわけないのに。
どっこいしょ、と荷物を適当に置いて仕事机のイスに体を投げ出すようにして座る。うむ、やっぱり揺れないイスとは良いものだ。馬車は揺れるから腰と尻にくる。僕はまだ二十一歳だけど三日も馬車で揺られてるとさすがにね。
強い風を正面から受け続けたら顔の筋肉ってこんな形になるんだぁうふふふふ、なんて現実逃避をせざるを得なかった飛竜便に比べたら馬車での帰り道は精神的にとてもありがたかった。それでもくるものはくるので体はバッキバキになっているんだけども。
「えーっと、室長は所長のとこに呼ばれてて、マーポルとチグサは馬車の返却、と。じゃあもうしばらくはダラけてても大丈夫かー」
気を抜くときには全力で抜く、それが上手く生きるコツなんだよ。いつもやる気全開じゃあ早死にするだけだね、やる気や死ぬ気は出すべき時に出すべきであって今はその時じゃない。
「というわけで不肖このサイクス、全力を以てサボらせていただ……」
「サイ兄ー! おっかえりぃー!!」
バン! と音を鳴らして勢いよく扉が開いた瞬間、僕はこれから自分がゆっくりできなくなることを悟り、また数瞬後に来るであろう衝撃と痛みを覚悟した。
「やーっ!」
「やー、じゃなぐおえっ!!」
僕に向かって駆け寄り躊躇なく飛び込んできたそれをモロに横っ腹にくらって椅子から転げ落ち、机の上にあった資料なんかを撒き散らす。クッソこいつ、あとで誰がこの飛び散った資料を片付けると思ってんだ……!
「えへへへへ。サイ兄、久しぶりだね!」
ゴロゴロと床の上を数回転して仰向けで止まった僕の上で満面の笑顔を見せているのは、頭のてっぺんでピコピコしている耳にブンブン振り回されてるふさふさの尻尾、そして透き通るような白く長い髪の少女。キシリール子爵の一件で子爵領に向かう僕らとすれ違いで王都に戻っていた彼女だ。
「……そうだね、二週間ぶりくらいだね。再会を祝してお説教してあげるから早くどいてくれるかな、フゥラ」
僕からマウントポジションをとってニコニコ笑っている彼女を痛みと怒りに震える手で引き剥がして立ち上がると、このたわけた狼人の少女はそれでもまだしがみついてくるので再度引き剥がして隣の机からイスを引いて座らせる。
本当に説教が始まるとは思ってなかったのか、イスの上できょとんとしている彼女に大きく大きくため息を吐く。
「あのねフゥラ。僕に対して突撃するなって、ずっといってるよね。室長なら蚊が止まったくらいの気持ちで受け止めてくれるかもしれないけど、僕はそうじゃないんだ。さっきのだって骨が折れててもおかしくなかったんだし、それに……」
ズキズキと痛む脇腹のおかげで言葉がとめどなく流れ出てくる。ぶっちゃけこの説教もいったい何回やったのか思い出せないくらい同じようなことを彼女はしているし、そのつど僕の体のどこかが痛みに苦しんでいるので回を重ねるごとにイライラは募るばかり。
そんな僕のお説教攻撃に顔を伏せていたフゥラが僕の顔を窺うように、おずおずと小さな声で聞いてくる。
「ね、ねぇサイ兄、怒ってる?」
「怒ってる」
毅然と言い放つ。むしろこの状況で僕が怒っていないと思うのなら、人の気持ちを慮る能力に欠如があると僕は思う。何でもかんでも人の顔色を気にしてりゃいいってもんでもないけれど、多少なりとも人の気持ちを理解できないようでは人間社会で生きていくのは難しい。
「お片づけ手伝ったらゆるしてくれる?」
「それはやって当然。許す理由にはならないね」
自分がした悪いことに対して償いをするという考えを持つのは良いことだ。でもそれだけで許してもらえると思ってはいけない。君は今、大切なことを忘れている。
それは大人でも忘れることが多いことだけど、だからこそまだ十三歳のフゥラには忘れないでいて欲しい。彼女が間違ってもアホとクズみたいなどうしようもない大人にはなって欲しくないし。
そのことに気がつくまで許さないという意思を込めた沈黙が続き、やがてフゥラはどうしたらいいのか分からないといった具合に悲しげな表情でか細い声を上げた。
「あぅ、うぅぅ……ごめんなさい」
そう、そうだ。それなんだ。
悪いことをしたらまずは謝る。それができない人間のなんて多いことか。
「いいよ、許す。ごめんなさいが言えない人は最低なんだよ? まったく派手に散らかしてもう……」
「でもサイ兄。サイ兄も悪いことした時ごめんなさいってあんまり言わないよね?」
……チッ、これだから中途半端に頭のいい猪口才なガキは嫌いなんだ。僕が自分のことを棚上げしてるのに勘づきやがって。おとなしくそのまましおらしくしておけばいいものを……。
「ふっ……何を言ってるんだか。僕は悪いことなんてしたことないからね、ごめんなさいなんて言葉を使う必要がないのさ」
「ほぉーお、後輩からの緊急連絡をブッチしたことは悪いことには入らないんだねぇ。さすがは筆記試験満点合格者様の言うことは勉強になるわぁ」
突然背後から聞こえてきた女性の声に一瞬で背筋が凍りつく。
ヤベェ。そうだよ、フゥラは基本的に研究所内での単独行動を禁止されているから誰かと一緒のはずなんだ。そして編纂室のメンバーが全員出払っている状況でフゥラの面倒を見れる人なんて一人しかいない。
「ど、どうもデリラ姐さん……」
震える声であいさつをしながら振り向くと、そこには褐色の肌に煙管を咥えて煙を吹かす姉御が仁王立ちしていた。
古代術式研究室をまとめる女傑、デリラ・ペィジン。年齢不詳のダークエルフにして元マーポルの上司。そして学術研究所において我らがダグラス・バック室長と並び武闘派で鳴らすヤバい人だ。
「その件は僕というよりダグラス室長の方に責任もがががががが!?」
「アンタは本当に口が回る子だねぇ。だから潰してあげるわ」
ダメダメダメダメ! そ、それ以上は右と左の頬っぺたが内側でくっついちゃうううううう!?
「ひゅいあへん! ごべんばざい、ひゅるひへふははい!!」
恥も外聞もプライドも投げ捨てた全力の謝罪。情けない? バカ言ってんじゃないよ、絶対的捕食者を前に丸腰で挑み打ち勝ったことがある者だけが僕を罵倒せよ!
「清々しいほどに情けないねぇアンタは……はいよ」
呆れた声と共にぱっと頬から手が離された。あ、ちなみに絶対的捕食者そのものからの罵倒は甘んじて受け入れます。
「痛てててて……いきなりひどくないですか、姐さん」
「平然と子どもに嘘を吐くクズをとっちめるのが大人の仕事で、バカがバカなこと言ってたら諫めてやるのがアタシら上の仕事さね」
ふぅー、と煙草の煙を顔に吹きつけられる。この煙草は各種の薬草やら魔草やらをブレンドして作られたものなので香りもよく身体に悪いどころか大いに有益であるのだが、それでも煙いものは煙い。
「うえっほ、げほ……待ってください、クズはマーポルであって僕ではないです」
「大丈夫だよ、アンタらみんなバカでアホでクズでマヌケなのは周知の事実だから」
何ということだろう、僕の知らぬ間にとんだ風評被害が流れている。他はともかく、明朗快活品行方正に日々を過ごしている僕に対してあまりにも無体な仕打ちではないか。
まあそれはそうとして、姐さんが来てくれたのならちょうどいい。留守とフゥラを預かってもらったお礼に買ってきたお土産を渡しちゃおう。
「姐さん、こちらが今回のお礼を込めたお土産です。チグサが選びました」
「ありがとう、もらっておくよ。アンタらはこういうところは抜け目ないんだよねぇ」
「お褒めいただき恐悦至極。フゥラがご迷惑かけたりしませんでしたか?」
フゥラは緊急事態を除き、研究所内での単独行動を禁止されている。それというのも彼女は強すぎるからだ。
狼人に極稀に生まれる特異個体である銀狼。通常時でも飛び抜けて強靭な肉体は剣を素手で受け止め、完全装備の兵士を鎧が原形をとどめないほどに殴り倒すことができる。そして興奮すると全身に魔力が充填され、白い体毛は銀に輝き魔法ですら生半可なものは通じなくなってしまう。
そんな天性の強者であるフゥラは流行り病で肉親を含めた一族を失い、人恋しさにフラフラしてたところをたまたまフィールドワークに来ていた研究所職員に保護された。その後しばらくしてから大問題を引き起こし、それ以降は所内での行動に大きな制限を受けている。
そもそも彼女が編纂室に所属しているのも何かあった場合にダグラス室長がすぐに鎮圧するためだ。チグサとマーポルも二人揃えば時間稼ぎ程度にはやれるし。え? 僕? やだなあ、僕が興奮状態のフゥラと戦ったら2秒で犬のエサになるよ。
「心配しなさんな、ウチのふぬけ共はビビってたけど大人しいもんだったよ。ああサイクス、アンタはあとでちょっとツラ貸しな」
「お土産だけじゃ足りませんでしたかね?」
「いきなり子守りも増えたんだから報酬の上乗せは当然だろうよ。ちょいと面倒な案件があってね、ここしばらく進展が何もないんだ。いつもみたいにきっかけだけでもいいから見つけておくれよ」
「わかりました、では他のメンバーが戻ってきたらそちらに向かいますよ」
人材の貸し借りなんて日常茶飯事だし、姐さんの頼みなら室長も嫌とは言わないだろう。そのあいだ僕の仕事は積まれていくわけだけど、まあそれは仕方ないからマーポルに押し付けよう。
助かるよ、と言い残して姐さんは行ってしまった。見た感じは普段通りだったけど、進展の無い仕事ほど辛いものはない。ホント辛いんだよね、あのただひたすら突起の無いデカい壁を見上げ続けてるみたいな感覚……。
「サイ兄」
フゥラがくいっと僕の服の裾を引っ張る。その声にはどこか不安そうな響きが含まれていた。
「フゥのせいでサイ兄のお仕事増えちゃった……?」
「なに言ってんの、そんなわけないよ」
デリラ姐さんがフゥラを預かることになったのは緊急事態として王都に送り返したマーポルとチグサが原因だし、それだって元をたどれば筋肉ダルマ室長が比翼連理の筆記具のチェックを忘れていたからだ。
つまるところフゥラはなにも悪くないし、僕も何も悪くない。……あれ、じゃあなんで僕は仕事が増えてるんだろう? ダメだ、冷静になったら腹立ってきた。
「とにかく、フゥラは悪くない。室長が帰ってきたら思う存分遊んでもらうといい。今回ばかりは室長も強く出れないだろうし、その間に僕は増えた仕事を終わらせて来るよ」