装備点検とリックの熱
細くたなびく霞雲を赤橙色に彩りながら、西空で燃える夕日がゆっくりと地平線に沈んでいく。
春から夏にかけて、英国の日照時間は日毎に延びる。午後七時を過ぎても陽光の残滓が薄れぬロンドンの街路は、今頃、一仕事終えた人々で賑わっていることであろう。一日の本番はこれからとばかりに盛り上がる繁華街の喧騒がこの街外れまで届いてきそうだった。
昨日、ひょんなことから拾ったヘファイストスの技術者が目を覚ましてから丸一日が経とうとしていた。
相も変わらず内容の分からない講義を聴き終え、私はテキスト類を小脇に抱えて一人で寄宿舎に戻っていた。途中、図書室に寄って暫く自主学習していたので、書籍の中には図書室から借りてきた物も含まれている。エリザは講義が終わるなり、博士達の件について情報を集めてくると言って教室を飛び出して行ってしまったため、今傍にはいない。
「……ん」
橙から群青色へ移り変わる空の色を窓から取り込み、昏いオレンジに染まる女子棟の廊下を足早に歩いていると、どこかの談話室の賑わいが聞こえた。
放課後の夕食前の時間帯は、男子棟と女子棟にそれぞれ一つと共有棟にもいくつか設けられている談話室がいつも混雑する。授業から解放された生徒達はそこで取り留めも無い雑談に興じて親交を深めるのだ。食事の前のすきっ腹を用意された紅茶で宥めながら。
悲しいかな、どこかしらのグループが常に開いている歓談の席に私は招かれたことがない。もっとも仮に参加したとして、邪険にされるようなことはなくとも、場の空気を固くするのが目に見えているので自分から混ぜて貰おうとも思わなかったが。
まさにその談話室に赴くのであろう跳ねるような足取りの集団とすれ違う。私よりも二つか、三つ年下の少女たちは揃って唇をほころばせて楽しげにお喋りしていた。
彼女らのはしゃぐ様子に思わず私も夢想する。私もあと六割り増しくらいで愛想が良くて積極的だったら、あんな風に賑やかな友達グループを作れていたのか、……なんてな。
益体も無い考えを振り払って、私は自室の扉を開いた。
「リック、いるか? ちょっと報告があるんだけ、ど…………………………なんだそれ」
奥に声を投げつつ入室した私の視界に奇妙な光景が映った。
寄宿舎の部屋は、入ってすぐに通路があり、左の壁にバスルーム、右の壁にワードローブにそれぞれ繋がるドアが設置されている。そして、通路を直進した先がベッドの置かれたメインルームなのだが、今その広い空間を見慣れない小型物体がうろついていた。
譬えるならば、頭部の無いブリキの人形か。高さ十センチ、直径三センチくらいの金属製の円筒に細い手足が付いたような造形の人形が、妙に滑らかな動きでチョロチョロと室内を歩き回っている。くすんだ銀色の小人の数は十を超えるだろう。
何だ、アレ。あんなの私の部屋に存在していたろうか。
自分の部屋だというのに奥に進むのに二の足を踏んでしまっていると、
「お疲れさま」
部屋の奥から私を労うリックの声がした。
メインルームの壁際に置かれた二つの机。未だ私の知物がうずたかく積み上がっているのとは別の机に向かっていた赤毛の少年は、首だけ捻って此方へ笑いかけてきた。額の包帯はもう取れている。手にはピンセットのような繊細な工作器具が握られ、昨日は使われなかった彼の神理機関が腰の右後ろで細く蒸気を噴きながら動いている。――そして、彼が腰掛ける椅子を囲むように正体不明の人形集団は半円を作っていた。
おっかなびっくり足を踏み入れた私にリックは眉を顰めた。私の視線を追って、「ああ、これ?」と、合点がいったように足元に控えていた人形を拾い上げる。
「驚かせちゃったかな。こいつらは俺の仕事を手伝ってくれるアイテムだよ」
「アイテム?」
鸚鵡返しに問う私へ、リックは銀の人形を掌に載せて見せてきた。
「第一技研製八十七式魔導ゴーレム。作業をしていて、手が足りない時は便利なんだ」
説明に合わせて、玩具めいたデザインのゴーレムはリックの掌の上でお辞儀に似たポーズをとる。顔を近づけてよくよく見れば、小枝のような華奢な腕の先には細かいながらも立派な五指が付いていて、複雑な作業にも耐えられそうだった。
聞いた事がある。魔導ゴーレム。蒸気ではなく術式によって駆動する半自立式の機械で、金属操作に長けた系統の代入者が用いるという。目の前の物を持ち上げる、銃を構えて撃つなどのプリセットされた一つの行為だけを実行するタイプと、膨大な数のプログラムを随時組み合わせることで自由自在に活動させることが可能なタイプの二種類があり、目の前のゴーレムは後者に当たるものと思われた。
しかし、だとすると凄いものである。
涼しい顔のリックの腰で静かに運転するヘファイストスの神理機関。十二は下らない数の全てを、彼はそれを通じてマニュアルで操作していることになる。普通の代入者は多くても三つのゴーレムを動かすのが限界だと以前講義で習った。単純計算でも四倍以上のタスクを一人でこなすとは、並大抵の処理能力ではない。
伊達に国内有数の研究機関で助手を務めていたわけではないということか、と私は感嘆の眼差しで少年の手に乗る人形をとくと眺めた。
「手の届きにくい狭い場所の作業とかに向いてそうだな」
「いやいや、こう見えて結構重いものも持てるんだよ」
「そりゃ凄いな。確かに便利だ。しかし……、こんなもの一体何処から?」
「え、初めから持ってたよ。――ほら」
今朝までは確実に存在してなかったゴーレム群の出所に私が疑問を呈すると、リックは当たり前のように言って、机の脇から軽金属のトランクを持ち上げた。昨日襲われていた時も大事そうに抱えていたそれのロックを外してパカリと開く。
トランクの中は雑多な工具類が収められていたものの、やけに空いたスペースが目立っていた。その空っぽの場所は入っていたものが全部外に出た結果に見えた。
私の印象を裏付けるように、トランクが開かれた途端、部屋中に散らばった人形らがわらわらと大挙して布が敷かれた箱の中に次々と飛び込んでいった。トランクが隙間なく埋め尽されたところで少年が腰の機関のスイッチを切ると、手足を揃えたゴーレム達は直前までの生き生きとした様子が幻だったかのように一斉に停止した。彼ら全てがぴったり収まるそのサイズ。成程、トランクの中身はリックの仕事道具だったようだ。
「しまっちゃって良かったのか? 使ってたんじゃ」
「仕事は丁度終わったところだったから、もういいんだ。それより、君はゴーレム達の事を知らなかったようだけど、俺が寝てる間に中を検めなかったのかい?」
トランクの蓋を閉じつつリックは不思議そうに首を傾げる。境遇の分からない人間を拾ったのだからトランクくらい当然開けて調べてあるものと思ってた、と顔に書いてある少年へ、私は指先で頬を掻きつつ応える。
「エリザは調べてたみたいだけどな。私は遠慮したんだ」
「どうしてまた?」
「あいつが大したものは無かったって言ってたし。それに、苦手なんだよ。人の持ち物を勝手に漁るのは」
何となく気恥ずかしくて若干目を逸らしながら述懐すると、リックは一瞬呆気にとられたように目を瞬かせてから目尻を弛ませて噴き出した。
「ふ、あははっ」
「なんだよ、そんな笑うことか」
「ははは、ごめん。そうだね、笑うようなことじゃなかった。ただ……君が思ったよりもさらに良い人だったから。なんか可笑しくて」
「……何だそりゃ」
良い人。エリザ以外に口にしないような好意的な評価に戸惑いを覚える。久しく聞かなかったその手の言葉へどう反応を返せばいいのか。咄嗟に判断できなくて、結局私はトークテーマを変えることで逃げを打った。
「で、今し方終わった仕事ってのは――、ああ、頼んでたやつか。もう終わったのか?」
目線を横に移し机の上に横たえられている品々に焦点を合わせる。少年の工具類以外に目立つものが二つ。黒漆の鞘に納められた三尺三寸の刀と、エリスの代入者用に調整された神理機関。それらは出掛ける前に預けておいた自分の装備だった。
当然のことながら講義に出ている間、私はリックを護衛できない。軍の代入者が常時詰めている学院内なら危険はないと思われたが、念のためリックには私の部屋から外に出ないようにお願いすることにした。洗面所とトイレは部屋に付いているし、食事は予め手配しておいたため篭る分には不自由ないはずだった。
それでも缶詰めになってしまう彼に、気晴らしになるかとお願いしたのが武装の整備だった。外部に受注する手間を省きたいという私の都合も含まれた頼みに、技研でも金属加工と機関の設計/製作を担当しているという彼は二つ返事で引き受けてくれた。……まさかこの半日程度で工程を完了するとは思っていなかったが。
「まあね。出来栄えの確認をお願いできるかい」
ヘファイストスの少年は打刀を両手で握って私へ差し出した。
「了解」
抱えていた書籍を机に乗せて、空いた両手で刀を受け取る。
英国では珍しい反りのある片刃の刀剣。両手剣に比べれば軽めの手応えが腕に伝わる。表面に漆を塗った木の鞘と、細い帯状の布が幾重にも巻かれた柄の感触が手に馴染む。
水平にした刀を顔の前まで持ち上げ、私は鞘から刀身を半分だけ引き出した。
冷たく濡れる細身の刃が眼前に姿を現す。サーベルとも異なる、砥ぎ上げられた刃は艶のある鋼色。側面には〝刃紋〟と呼ぶらしい切っ先よりも濃い色合いの模様が散っている。私の顔を映す鏡のような刀身は、「人を斬る」という機能に特化したが故の美しさを湛えていた。アフガンで随分酷使したため鈍っていた刃は完全に輝きを取り戻していた。
「これは……見事としか言いようがないな。一日足らずで刃が甦ってる。私の知る最高の職人に勝るとも劣らない腕だよ」
思わず溜め息を漏らすと、リックは誇らしげに胸を張って歯を見せた。
「有難う。仕事を褒められるのは技術屋への最高の報酬だ」
刀身の見分を続ける私に、さらにリックは付け加える。
「良い剣だね、それは。でも形状はあまり見ないタイプだし、何より刃の質が異常だ。何処の誰が作った剣なんだい」
ささやかな畏敬の念を滲ませて彼は私の得物を評する。私がいつも装備の点検を頼んでいる職人も最初にこれを見せた時は興味津々だったな、と思いつつ苦笑混じりに答えた。
「まず一つ注釈を加えさせてもらうなら、こいつは欧州の剣じゃないよ。これは刀だ」
「カタナ?」
「そ、刀。これ自体は無銘だから制作者の名前は分からないけど、出所は分かる。日本っていう極東の島国の武器だよ」
「極東の…………ああ、いわゆるサムライソードだね! 噂に聞いたことはあっても現物を見るのは初めてだ! 凄いな。硬度の異なる二種類の鉄をくっつけてる……のかな。俺の知らない技術も含まれてるみたいだし。一回作ってるところを生で見てみたいね」
「いいんじゃないか、行ってみれば。シルクロードの先まで行く覚悟があればな」
「あはは……。遠いなぁ極東かぁ」
職人の本能か、リックは奇抜なおもちゃを与えられた子供のように目を輝かしてカタナの詳細に食いついた。本心から金属工作が好きなのだという熱意がひしひしと伝わる。私も、所縁のある国の武器に興味を持ってもらえて悪い気はしなかった。
私が軽口を叩けば、リックもはにかみながら応じる。異国の刀剣についてと話題は物騒ながら、エリザ相手以外では久々に興じる雑談に私の頬は知らず弛んでいた。
チンッと音を立てて刀身を鞘に戻す。愛用の得物を腰のベルトに吊り、もう一つの装備である神理機関に手を伸ばした。
「そんじゃこっちの完成度も期待していいんだな」
「お気に召すかは分からないけど、出来る限りはやったよ。一旦全部ばらして、各パーツを磨いてまた組み直したんだ。ああ、術式は変更していないから安心して」
そう言って口元を綻ばせる少年。勿論冗談だろう。
代入者の魔術とは、匣に取り入れられた命素が各種プログラムによって形を変えたものだ。そのためのコードは解析機関を用いて作成され、パンチカードに書き起こされ、インストーラを介して神理機関に記憶させられる。その複雑さは人の手に負えるものではなく、解析機関の手を借りずに変更できるものじゃない。
「あとは、摩耗した部品を交換したくらいかな」
「部品の交換? 私の機関の部品ってどこかに余ってたっけ?」
「いや、自作だよ。端材程度の機械部品はいつもトランクに詰めててね。それを君の機関に合うように調節したんだ。君の命素のデータを朝方に貰っておいて良かったよ」
「マジですか……」
解析機関は数字、神理機関は命素といった違いはあれ、入力されたナニカを加工し出力するという意味では両者の構造は似通っていると言われる。どちらも無数の歯車のとんでもなく精密な組み合わせによってその演算システムを成り立たせている。
そんな精密機械の極みみたいな神理機関を一日で分解して組み直すとか、交換用の部品をその場で生み出すとか。サラッと言っているが並の腕前で可能なことではない。高度な加工技術に加え、機関そのものの設計に関する深い造形が必要とされる技能だ。
しかも刀の砥ぎ直しと並行して行ってそれなのだ。想像以上。私達が拾った少年は一流の技術者だったようだ。
兵士としてではなく、技師として命素の力を使う錬度に内心で舌を巻いていると、リックが「そうそう」と言って不思議そうな顔でこちらを見上げた。
「君の神理機関を触ってて疑問だったんだけどさ」
「何だ?」
「それ、エリス二級の汎用エンジンだよね。多少の追加調整こそされてるけど、特級の代入者が使うには貧弱過ぎる。どうして君はそんなものを?」
「あー……」
グサリ、とクリティカルなポイントを不意に突かれて私は返答に窮した。
そりゃそうだ。彼ほどの技術者なら当然気付くし、当然疑問に思う。必然とも言えるこの質問を予期してなかったなんて、我ながら想像力欠如も甚だしかった。
命素の波長は人によって千差万別。理想としては全ての神理機関を個々人に合わせてオーダーメイドするのが望ましい。けれども現実は資材も時間も労働力も有限だ。故に二級以下の代入者の機関は系統毎に同一の規格で製作し、使用者が決まった段階で細部の調整だけを行い対応するのが通例になっている。逆に、一級以上の出力の持ち主の機関は最大限の力が発揮できるようにと専用品を一から作るのが基本だ。
だが私の持つエンジンは二級用。実際の出力のはるか下の規格だ。力を制限する欠点こそあれ、決して利点にはならない装備。そんな足手まといを使っていれば不審に思われるのも致し方ない。
どう言ったものかと素早く思考を巡らせる。センチメンタルなものから、プラグマティックなものまで、咄嗟に頭に浮かんだ解答例を胸の中で試す眇めつ引っ繰り返す。別に複雑な事情とかは存在しないのだけど……。
自分の微妙な感情を言語化することを面倒がった私は、結局、一番シンプルな説明を選んだ。
「こき使われていても私は学院生だからな。一級以上の神理機関所持の許可は正式に入隊してからじゃないと下りない。私に許されてるのはその機関が限度なんだよ。――あ、お前は別だぞ。研究員はまた別枠で支給されるんだろ」
自分は一級の機関を渡されていると言いたげなリックに先手を打つ。軍の内実に詳しくないらしい彼は「そんなものか」と何処か釈然としない様子ながら頷いた。その様子を見て思いついた問いを、話題を逸らす意味も込めて舌に乗せる。
「なんだよ、不安か?」
「え?」
「二級のエンジンを使う私が護衛だと不安か?」
これでイエスと答えられたら、それはそれで実力不足と言われてるようで悲しいなぁ、なんて考えつつ放ったクエスチョンを椅子に腰かけた少年はあっさりと一蹴する。
「不安……はないよ。君の上司は君がそれを用いることを把握してるんだろう? その上で適任と判断したなら、君には二級の機関を持ってなお十分な力を持ってるってことだ。それに朧げではあるけれど俺は路地裏で君の実力の片鱗を眼にした。素の肉体強化だけであんなに軽やかに動ける魔導士は見たことが無い。特級だと知らなくても、俺は君を強いと思ってるよ」
だから信頼してる、と衒いも無く投げ返された言葉はあまりに直球で、寧ろ質問した側の私が困ってしまう程だった。
「そこまで買われると逆にプレッシャーがかかるな……。まあ、命令を受けてしまった以上、期待に応えられるよう努力はするけど――――あっ、護衛と言えば」
そこで私は漸く、自習を切り上げて部屋に戻った理由を思い出す。そうだった。先程図書館で本ページを捲っている最中、サリヴァン少佐から私達二人宛てに言伝が届けられたのだ。そのことをリックに教えてやろうと帰ってきたはいいが、いきなりのゴーレム登場などで今の今まですっかり失念してしまっていた。
「そういえばお前に伝えなきゃいけない事があるんだった」
「伝えなきゃならない事?」
「ああ、喜べ、っていうのは少し違うかもだけど。お前の要望が通ったそうだ。博士達が利用してた建物調べに行ってもいいってよ」
「本当かい!?」
瞬間、少年の目の色が変わった。
がたっと音を立てて立ち上がり、踏み込んで顔を近づけてくるリックの姿で視界が埋められる。間近に迫った少年の顔は今日話したどの話題の時よりも興奮し、高揚していた。
「いつだい。建物にはいつから入れるんだ?」
数秒前とはまるで別人。最早問い詰めるような勢いで訊いてくる少年の声に含まれる切迫した響きに、私は彼が穏やかな佇まいの下に押さえ込んでいた感情を悟った。
昨日この部屋で話し合っていた際に窺わせたのと同種の張り詰め具合。きっとこの年上の少年は、今日一日ずっと制止を振り切ってでも捜査に出掛けたいのを必死に堪えていたのだ。居ても立っても居られなくて、此処に篭ることすら苦痛で。
気晴らしになれば? とんでもない。異様な早さで達成された武装の整備はそれに没頭しなければやっていられなかったため。別の何かに専心することで逸る心を忘れようとしたからこそのあの速度だったのだ。
そうしてギリギリまで溜め込まれた焦りが私の一言で決壊した。だからこそのこの豹変なのだ。
「……話はもうついてるみたいだから、その気になれば今からでも可能だってさ」
宥めるように前に出した両手で肩を軽く押さえて言うと、少年は焦燥に焼かれる赤銅の虹彩をほっとしたように震わせた。そして一層勢い込んで身を乗り出す。
「なら行こう。今すぐにだっ」
「……まあ待てって」
リックの剣幕に若干気圧されながらも、私は肩に置いた手に力を入れリックを後ろに下がらせる。ついでに加減した足払いもかけて無理やりに椅子に座り直させた。ドサリと腰を下ろした彼はそれでもじっとしていられないように左手で膝頭を握り締めた。そんな様子を見て、私は額に手を当てて溜息を吐く。
「行くのは構わないけど。その前にまずは落ち着け」
「落ち着いてるって!」
「落ち着いてる奴はそんな噛み付かない。動揺してるようじゃ外出させられないぞ。第一、出るにしたって準備があるし、夕食だってまだじゃないか」
小言めいた台詞は得意ではないが、視野狭窄気味になっている人間を連れ出す方が怖い。
引き受けたからには任務はこなす。日暮れ時から調査に出向くのも別にいい。けど、襲撃が懸念される案件に、こんな頭に血が上った者を参加させるのはダメだ。危険過ぎる。私にとっても、リックにとっても。
「準備は必要ないよ。トランクを持っていけば事足りる。食事だって空腹じゃないから大丈夫だ。それよりも――」
「リック」
何故此処までという思いが過ぎるが。いずれにせよ少年が切羽詰まっていることに気が付かなかったのは私のミスだ。
だから私はミスに対応するため、反駁する少年の声を努めて冷静な口調で遮った。
「それはお前の都合だ。私にだって準備や腹ごしらえをする権利はある。そもそも、私同伴じゃないとお前は現場に立ち入れない。それを忘れるな」
高圧的な物言いは好きではないけれど、上がった血を下げさせる効果は大きかった。
切って捨てるような私の言葉に、リックは横っ面をはたかれたようにはっと目を見開いた。視線を下に落とし数秒俯く。やがて、「うがー」と呻いて右手で髪をぐしゃぐしゃと掻き回すと彼は顔を上げた。そこにはダダ漏れになっていた焦燥の色はなかった。
「……ゴメン」と悄然として彼は頭を下げた。
「君の言う通り、俺は取り乱してたみたいだ。君の都合も考えないなんて。……えっと、自分ではもう落ち着いたと思うんだけど、どうかな」
取り繕っているだけだとしても先刻までの穏やかさを取り戻した顔に微笑む。
「ああ、落ち着いてない自覚が出来たなら大丈夫だ」
昨日から会話をした感じ、リックは元来他人を優先することができるタイプの人間だ。私の事を持ち出して話をしたのは、彼の熱を冷ます上での最善だったろう。
「私も別に今から行くことには反対してない。ただ突っ走られると困るって話」
「うっ……面目ないです」
「いいよ。さて、それじゃあ支度するか。装備の類は……、私は整備が済んだばかりだしお前もすぐに用意ができるんだよな。なら夕食だけど……」
食堂から持ってくるか、いっそ市内に出てから現地調達するか。悩みながらざっと室内を見渡していた私の目が一点で止まる。
反対側の壁際設置された二つのベッドの間のサイドテーブル上。そこに銀の覆いがかけられた皿が置かれていた。私にはそれが部屋に届けてくれるよう食堂の方にお願いした食事の器にしか見えなかった。しかし食べ終わった器は部屋の前に出しておけば回収されるはずだったが。
まさか、と思い近付いて覆いを取ってみると、皿には肉と野菜を挟んだ大振りなサンドイッチが幾つか載っていた。間違いなく食堂の調理師謹製の品である。
「……なあリック、これお前の昼用に手配した食事だよな」
「まあ……、そうだね」
「食べなかったのか?」
「あんまり食欲無くて……」
あはは、とバツが悪そうに笑うリックへ、私は呆れ半分心配半分の視線を向ける。
「食べないと体が持たないぞ。これから結構動くかもしれないんだからな?」
「分かってるさ。……折角作って貰ったんだからな。全部喉を通るかは分からないけど」
細く見える身体が実は鍛えられていることを昨日担いだ私は知っている。結構ガッチリしていたから小食ではない筈。とすれば、やはり精神的な重圧が原因か。一人で食べ切らせるのは難しそうでもある。なら残りは……。
腰を上げのろのろとベッドの方に歩み寄る彼を見て、私の頭にある提案が思い浮かんだ。
「なら二人で分けよう」
「へ?」と理解が追いつかず目を丸くするリック。半開きになったその口の中へ手に取ったサンドイッチを突っ込む。
「ふぐっ!?」
「お前の言う通り作って貰ったものを残すのは忍びない。幸か不幸か、私も今そんなに空腹じゃないんだ。なら二人で半分ずつ消費するというのはどうだろう」
目を白黒させるリックへにやりと笑い掛け、私も自分のベッドに腰を下ろし、一切れ取ったサンドイッチに齧り付く。出来立てから大分時間を置かれていたため、葉物野菜はしんなりし、パンもパサついてしまっていたが、具材それぞれに丁寧に施された下味が食材本来の味を引き出していて思ったよりも美味しく食べられた。
皿の上のサンドイッチは偶数個だったからピッタリ分け合えた。半分こする案にリックも賛成したようで、対面のベッドに座って神妙な顔で口に入れられたそれを咀嚼していた。これで最低限のエネルギー補給はさせられそうだ。
やれやれ、と向かいのリックに聞こえないように小さく呟く。
こうと決めたら猪突猛進の少年の手綱を引く事と並行しての護衛任務。これは報酬にプラスして座学の点数を受け取っても尚、割に合わない重労働かもしれない。
だとしても仕事は仕事。やり遂げねばならない。それに――
(心配って程じゃないけど、こいつは放っておけないからな)
さっき詰め寄られた時に間近で震えていた双眸を思い出して、私は歳上の男性に懐くには少々おかしな感想を零した。