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ディファレンス・ウィザード  作者: 薙原 優
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調査依頼とバイロン卿

「……言っとくけど、うっかり反発するなよ。この中にいる人は私達なんかとは違ってガチの軍人だからな。超怖いぞ」

「わ、分かってるよ」

 時刻は二十時を回ったところ。リックに頭を下げられてからおおよそ一時間後、私たち三人は場所を寄宿舎から隣の校舎に映し、三階の一室の前に立っていた。

 軍の人間との折衝を依頼された私とエリザは、短い相談の後、その頼みを引き受けることにした。国内有数の碩学の失踪絡みで、その上他国の部隊が関わっているともなれば一生徒の采配でどうこうなる案件じゃない。元々、最後は教師陣に投げるつもりだったこともあり、上に話すべきというのは私達共通の意見だった。成り行きとはいえ拾ってしまった相手だ。上に要望を通すくらいまでなら付き合おうということだ。

 そうと決まればと、教官として学院に籍を置く軍の人間にアポイントを取ると「一時間後に来い」と返事があったので、私達は空き時間のうちに食事と打ち合わせを済ませ、約束の時間の少し前に寄宿舎の外に出た。

 日はすっかり落ちていて、薄く雲がかかった空は深い藍色に染まっていた。

 寄宿舎と校舎の間の距離は百メートルも無い。私達はガス灯に照らされた石畳を踏んで学院校舎へ向かった。

 最新の建築技術とデザイン理論をもとに建てられたという校舎は、煉瓦と漆喰と鋼鉄で形作られ、無機質なそれは学び舎というより何処か要塞じみている。昼間は沢山の生徒でごった返す校内も夜になれば静かなもので、正面玄関をくぐった私達は誰にも会うことなく、三階の廊下の突き当りにある部屋の前に辿り着いたのだった。

 それぞれの教官に与えられた執務室の一つ。扉の脇に掛けられたプレートには『ウィリアム・サリヴァン』とだけ彫られていた。

「んじゃ、入るぞ」

 姿勢を正して扉をノックする。中からの応えを聞いて扉を開き、入室した。

「失礼します、サリヴァン少佐。西園アンナ少尉です」

「エリザベス・レンフィールド准尉です」

「ん、よく来たな。ニシゾノ少尉、レンフィールド准尉」

 横一列に並び、びしりと敬礼をした私達へ、部屋の主は鷹揚に頷いて応じた。

 部屋でまず目に入るのは大きな書棚だった。扉の向かい側と右側の壁の一面を床から天井まである書棚が覆い、隙間なくぎっしり本が詰め込まれている。左手の壁には休憩用の小部屋への扉。

 そして中央にアンティークの事務机が鎮座し、部屋の主は固そうな椅子に腰掛けて、ランタンの明かりを頼りに書類整理を行っていた。

 ブラウンの髪を短く刈り、生真面目そうな顔に眼鏡を掛けた軍服姿の男性。一見堅物の将校のようで、中身は外見以上に堅物の将校。彼こそが学院の実技教官の一人にして、陸軍教導隊所属の士官、そして私の直属の上司。ウィリアム・サリヴァン少佐である。

 教導隊とは、字句通り軍務学校への教育支援を任務とする部隊だ。この学院で言えば、生徒の訓練を指導し、全員を〝使える〟代入者にすることが仕事といえる。

 博士らの捜索に直接携わる部隊ではないものの、生徒の範たるべく精鋭が集められる特性上、教導隊の面々は色々な方面に顔が利く。まずは少佐に事情を理解してもらって、そこから調査を担当している部隊に話を通してもらおうという腹積もりだった。

 サリヴァン少佐は作業の手を止めると、眼鏡の奥の視線を横に滑らせて、私達より一歩下がった位置で立っている少年を捉えた。

「そちらが例の少年かね?」

「はい。彼が第一研究所所属のリック・カートライト研究員です」

 緊張の面持ちを見せるリックを少佐に紹介する。

 事のあらましはアポイントを取った際、スクロールに記して気送管――圧縮空気によって小物を移動させる管――で送ってあった。仕事の早い少佐の事だ、きっちり目を通していることだろう。

 大まかな事情を知る少佐は早速本題に入る。

「カートライト研究員。君はリーナ・アドコック、マット・スモールウッド両博士の捜索に関わりたいそうだな」

「は、はいっ」肩が強張ったまま、リックは気圧され気味に返事した。

 少佐は机の端に置かれていた円筒形のカプセルを手に取り、中から巻かれた紙を取り出して視線を走らせた。あれは私達が送ったスクロールだ。

「君の、君らの主張は読ませてもらった。大変興味深い。カートライト君にかけられた脅しと詳細不明の代入者の存在。それらより、二人は未だロンドンにいる可能性が高いとする推論は、私としても頷ける点は多い」

「じゃ、じゃあ!」

「しかしだ」

 勢い込んで前のめりになるリックを、サリヴァン少佐は鋭く細めた目で制する。そして校則を読み上げる教師の如き口調でバッサリと、

「だからといって、君を協力者として捜索部隊に迎えるに足る理由とは思えないな」

「えっ……」

「当事者に近い君や、情報部に出入りできるレンフィールド准尉はさも知って当然のように事件の話をしているが、本来この失踪事件は機密事項なのだよ。博士達は国際的にも有名な研究者だ。その喪失が知れ渡ることは英国の権勢に陰りを齎しかねない。故に、捜査状況を知る者は可能な限り少なくしたいのが上の考えだ」

「でも……、俺はもう先生たちが居なくなったことを知ってます。それならば情報を貰えてもいいのではっ」

「だからこそ、だ。失踪が事実であると知ってる君に、軍が何処まで掴み、何処まで掴めてないかを教える訳にはいかない。うっかり外に漏れれば、その情報に信憑性を与えてしまうからな」

「他に漏らすなんて、そんなことは……!」

 リックは憤り半分動揺半分といった奥歯を噛み締めるが、少佐は涼しげな表情のまま眉一つ動かさない。

 予想はしていたが、この二人は相性が悪い。リックが情報漏洩するような男でないのは会ったばかりの私でも分かるが、サリヴァン少佐は感情論が通用しづらい論理家、初対面の人間を信用するほど甘い人物ではない。彼を動かすのに必要なのは徹底した理屈。対してリックは筋の通った思考ができる癖に、少々直情的だ。それでは少佐は攻略できない。

 まったく。すんなりいかないことは予想していたから、うっかり反発するな、と忠告していたというのに。

「簡易報告書にも書きましたが」

 場が沸騰する前に、エリザが助け舟を出す。

「件の家屋は既に軍の調査を受けているにもかかわらず、敵はカートライト研究員が近付くのを嫌いました。彼ならば新たな情報を引き出せる可能性があります」

「そうだな……」

 優秀な情報員であるエリザの言葉になら少佐も耳を貸そうと思ったのか、顎を撫でつつ数秒考え込む。しかし、すぐに首を横に振った。

「根拠が薄弱だ。可能性があることは認めるが、それは一研究員が軍の捜査員でも見つけられなかったものを見つけられる可能性に比べれば小さい」

「ですが、彼が襲撃されたことは事実です」私も口添えしてみるが、

「だから可能性は認めると言っている」と、あっさり切り返されてしまう。

 私とエリザは一緒になって唇を引き締める。手詰まりか。

 情報漏洩のリスクと新発見のチャンスを天秤にかけ、リスクの方を重視する。

 私達の主張が間違っているとは思わないが、少佐の言うこともまた正論だった。元より、部外者を立ち入らせろという方が横車を押しているのだ。反対されても仕方ない。

「南欧訛りの代入者については問題視すべきだな。両博士の居所に心当たりがあるかもしれない。カートライト研究員を再び狙うことも無いとは言い切れぬし、護衛を付ける必要はありそうだ」

 スクロールの記述を眼で追いながら、彼はそうやって話を畳もうとする。

 何かしら反論材料を見つけなければ、この話は此処で終わりになってしまう。それではリックの収まりがつかないに違いない。逸る心が激発して、単身イーストエンドまで突撃されては事だ。

 うまい説得の方法はないだろうかと、思案していると、

「そう咎め立てずともいいじゃろう、サリヴァン君」

 不意に救いの声が降ってきた。

 風雨に長い年月晒されていた巨木のような、深みのあるしわがれた声。それは私達の左側から聞こえてきた。反射的にそちらに視線をやったところで――、私とエリザ、そしてリックまでもが五割増しで姿勢を正す光景が飛び込んできた。

 てっきり無人と思っていた左の隣室の扉が開かれ、いつの間にか一人の老人が姿を現していた。いや、この方を老人呼ばわりは不敬だったかもしれない。

 皺が刻まれながらも、若い頃はさぞ浮名を流したのだろうと思わせる整った容貌。長めの白髪を後ろで束ね、ゆったりとしたローブを羽織った姿が乏しい灯りの中に浮かび上がる様は、古い伝説に謳われる魔法使いのようだ。腰に吊るされているのは金で装飾された神理機関。

 姿を見せた人物はこの学院のトップ、バイロン卿であった。

「いらっしゃったのですか、学院長」

 想定すらしていなかった人物の登場に、私は驚きのあまり声が多少上ずってしまう。

 学院長バイロンは好々爺の笑みを浮かべて応じた。

「うむ、いらっしゃったとも。外部の客人が面白い話を持ち込んだと耳にしたゆえ。つい好奇心に負けて盗み聞きを敢行してたわけだ。……しかし、こうして直に君と対面するのも随分と久々だ。相変わらず可憐じゃのぅ、アンナ君」

「そちらも……、年甲斐もなく歯の浮くような台詞を述べられるのは相変わらずですね」

 些か無礼な私の物言いも白髪の翁は呵々と笑って流した。彼は足音も立てずに私達の横に寄る。その一挙一動が洗練された貴族のものだった。

 バイロン卿の名を知らぬ人間は英国には存在しない。リーナ、マット博士らも有名人であるが、彼の有名度は一段上だ。

 ジョージ・ゴードン・バイロン。

 歴史ある男爵家に生を受け、若き日は欧州漫遊と詩作に精を出し、数多の女性と関係を持った。その中にはかの《プログラムの女王》の母親も存在する。ギリシャ遠征時に熱病で死にかけるも、のちに復調し英国に帰還。急進派の代表として政界に進出し、科学技術の発展に尽力する。

 命素が発見されて以降は第一世代の代入者として術式開発に協力し、女王陛下より《円卓の十二騎士》の称号を賜った。また、嘗ては英国首相の座まで上り詰めたこともある。

 つまりは、武力においても権力においてもこの国の頂点に立った男だ。

 齢九十を超えて未だ壮健。いわば英国の生ける伝説の一つだ。とうに一線を退き、この学院で後進の育成に努めているが、その影響力は今も絶大で、現役の政府高官ですら彼の威光には逆らえないと聞く。

 目配りの利く人物だから、何れはこの件も聞きつけるだろうと思っていたがもう把握していたとは、驚愕の一言だ。

「……バイロン卿、あくまで話を聞いてるだけとのことでしたが」

 隣の部屋から出て来てしまった学園の長へ、サリヴァン少佐が不機嫌そうに指先でコツコツと事務机を叩いて言った。教導隊からの派遣という立場であり、学院に雇われているわけではないため、一応上司であっても少佐は学院長に対して割と容赦がない。

「ああ、すまんかったの。しかし、我慢しきれんでなぁ」

 立場上部下となる男の冷たい態度も飄々と躱して、バイロン卿は右手を持ち上げ、度肝を抜かれて固まったままのリックを指し示した。

「のうサリヴァン君。この少年の望みを叶えてやることはそんなに難しいかな?」

「何ですって?」

 まさかバイロン卿の側がそんな提案をすると思わなかったのか、少佐はらしくもなくきょとんとした顔を晒す。その気持ちは私達とて同じだった。

「いやな、少年の希望は博士達が潜伏していたという空き家を調べる事だけじゃろ? 何も調査記録全てを閲覧させろとは言っておらん。なら、そこまで目くじらを立てることもあるまい。調べさせてみて何か出れば良し、出なくても我々に殆ど損はない」

「……情報は与えずに許可だけ与えるということですか」

 問い返す少佐に、卿は我が意を得たりとばかりに微笑んで机の前へ大きく踏み出した。

「その通り。良いではないか、敬愛する師を心配して何とか足取りを掴もうとする健気な少年の心意気! 吾輩の創作意欲も大いに刺激されるというものよ」

 政治家に祀り上げられる前は名の知れた詩人だったという卿は、歌劇の一節か、詩吟を朗読するかのように大袈裟な身振りで語り上げる。

 彼が本当にリックの行動に感じ入っているのかは分からない。バイロン卿の気紛れはよく知られている。その場の思い付きで突拍子もない提案をしたり、気が向いたからというだけで諸国を漫遊したりするのもザラだとか。

 だがその面倒な性質が、この場ではいい方向に働いている。

 卿が何事か語っている間に、私たち三人は高速でアイコンタクトをして一斉に頷いた。

「バイロン卿の言われる通り、ほんの少しだけリックに許可を出してくれればいいんです」

「ええ。所感ですが、カートライト研究員は信用のおける人物だと思いますよ」

「お願いします。先生たちが居た場所に俺を入らせてください」

 この機を逃すまじと、私、エリザ、リックの順に次々と言い募る。私自身は、別にリックが博士らの行方を追おうと追えまいとどちらでも構わないのだが、請け負った手前、交渉に失敗したらイマイチ後味が悪いため精一杯願い出る。

 このパフォーマンスも少佐には効果はないのだが、狙い目はもう一方の人物だった。

「見たまえよ、サリヴァン君。この少年少女らの懸命なさまを。機密保持も結構じゃが、彼らの願いを無碍にするのは悪かろう」

 よし、と内心でガッツポーズ。うまいことバイロン卿が乗って来てくれた。

「何らなら、吾輩から情報部に話をつけてやっても良いぞ? どうするかの」

 そして、卿の鶴の一声で決着だった。

 バイロンの名をもってすればどんな部署だろうと容易く話がつくだろう。しかしそれは通常の指示系統を外れた、裏技まがいの手段だ。軍規を重んじるサリヴァン少佐にとって愉快なことではない。

 どちらにせよ承諾するしかないのならば。にやりと笑うバイロン卿の顔を眺めること十数秒、少佐は限界まで右手で顔を覆いつつ溜息を吐いた。

「……分かりました。現場を監視してる部隊へ、彼らの立ち入りを伝達しておきます。それでよろしいのでしょう」

「うむ、よろしいとも」

 ついに折れたサリヴァン少佐と皺を深くするバイロン卿。

 目的へ一歩前進できたのが嬉しいのだろう。リックがぐっと左の拳を強く握るのが視界の端に映った。私も、一仕事終えたような達成感に頬を緩める。午前中に始まった妙な成り行きもこれで終了。そう考えると、肩の荷を下ろしたような安堵があった。

 卿の登場などのイレギュラーはあったものの、これにて取次は成功だ。調査してみて収穫があるかは、後はリックの頑張り次第。何が何でも自分の手で二人の居場所を掴みたいわけでもない私はここでお役御免だ。込み入った裏のありそうな失踪事件への興味は、いずれ真相が解き明かされた時にエリザにでも教えてもらって満たすとしよう。

 私だって学業が忙しい。厄介そうな事件に時間を取られている暇はないのだ。

「――ただし」

 一応話が決着したことで、自然と弛んでしまった私達の空気を引き締めるように、サリヴァン少佐が声を張った。

「調査の申請はしておくが、今すぐという訳にはいかない。早くとも明日の午後以降になるだろう。そこは分かっていてくれたまえ」

「は、はいっ」とリックは気を付けの姿勢で返事する。

 サリヴァン少佐はリックの返事に満足したように背もたれに体重をかけると、「では今後についてだ」と、実際的な話題に入った。一度決まってしまえば、もう異を唱えることの無い思考の切り替えの早さは尊敬に値する。

「先ほども言ったように、カートライト君には念のため護衛をつけて様子を見る事にしようと思うのだが、構いはしないな? 護衛となる者はこれから選抜するとして……」

「でしたら、教官。今ここに丁度いい人物がいるかと思われます」

 少佐が言葉を途切れさせたタイミングで、エリザが口を開いた。彼女が上官の発言に割り込むのは珍しい。

「丁度いい人物とは誰だね、レンフィールド准尉?」

「はい。護衛として十分な腕前を持ち、護衛対象ともすでに面識を持ち、尚且つ今現在特別な任務についてない代入者です」

「うげっ!?」

 思わず変な声が喉の奥から押し出された。

 嫌な予感がする、どころの話じゃない。この部屋にいる人間は五人。護衛対象であるリックを除外すると四人。その中で後方支援型の代入者であるエリザは荒事用の人材ではなく、サリヴァン少佐は日々の業務に忙殺されていて時間が無い。バイロン卿にしてもそれは同様。というか卿に護衛をしろと指示できるわけがない。

 考えたくないが、消去法の必然でエリザの示唆した人物は限定される。

 執務室内の全員の視線が、同じ結論を得て動く。少佐が「なるほど」と呟き、バイロン卿も愉快そうに肩を揺らし、リックまでもが納得したように手を打った。

「……私、ですか」

 皆の視線にさらされて、私はげんなりした表情を隠すことも無く言った。

「そうだな。謂われてみると君が適任だ、少尉」

「一応、小官は任務を終えたばかりで暫く要請を受けない身の筈です」

「君の主張は正しい。しかし、危険度の不明なこの件を任せられる実力者は全員何らかの任務を担当していて忙しい。彼らの予定を調整するよりも、今手の空いている君に頼む方がはるかに楽なのだ」

 私の弱弱しい抵抗も、現実的な反論の前に呆気なく力尽きる。

 せめて護衛の対象であるリックが、「まだ学生の代入者など信用できない」と文句をつけてくれないものかと一縷の望みを託したが、リックは一切の不安なく信頼の眼差しをこちらに向けていた。

 ……あ、ハイ。そういえば、彼には私が特級の命素出力だって教えてしまってましたね。

(おのれエリザ)

 目線だけを動かして隣の少女を睨みつける。エリザは正面を見たまま涼しい顔で私の怒気を受け流した。自己紹介の時点で嵌められていたことを今になって悟る。彼女はこの手の不可思議な事件に目が無い。私をだしに事件に関わろうという魂胆なのだろう。

「急とはいえだ、正式な任務として依頼はする。特別手当も含め、相応の給与を支払おう」

「……手当は倍増しでお願いしますよ?」

 仕事を押し付けられるのは諦めたので、私は首を竦めて、せいぜい条件を吊り上げる方向に切り替えた。

「うむ、よかろう。幸運なことに学院の予算にも軍の予算にもまだ余裕がある故な」

 冗談めかして言うバイロン卿に恭しく頭を下げつつも、内心で若干肩を落とす。

 やれやれ、ここにきて新たな仕事か……。

 東方の戦地での活動が終わりやっと穏やかに日々を過ごせるかと思えば、またしても荒事を背負わされてしまった。しかも今度は何が潜むか分からない不透明な案件と来たものだ。場所がロンドンなのがせめてもの救いだが、その程度のプラス材料で零に出来るほど小さいマイナスではない。

 連続した任務は考えるだけで気が重くなる。てっきり下ろしたとばかり思った荷物を再び背負わされたような展開に疲労感を濃くしていると、サリヴァン少佐が細かい部分を詰めているのが耳に入った。

「今日はもう遅い。カートライト研究員には学院に泊まって貰うのが良いだろう。ただ……、確か寄宿舎の男子棟には今空き室が無かったな。どこか別の場所に部屋を用意させるとしよう」

「あ、それなら、カートライト研究員は既にニシゾノ少尉の部屋に逗留しておりますのでそのまま継続してもらえばよろしいかと」

「うげっ!?」

 またしても放り込まれたエリザの提案に、次はリックが潰れた蛙のような奇声を発した。

「む、女子棟にか。公序良俗的に好ましいことではないが。……少尉はどうなのかね」

「あぁ、別に構いませんよ」

 憂鬱な今後に半ば思考を割きながら私は返事をする。リックが愕然とした顔でこっちを振り向いた気がするが今はそれどころではなかった。

 そも、アフガンの前線では一つの天蓋の下で男女が雑魚寝することだって少なくなかった。同衾しろというのではなし、オタオタすることじゃない。

 貞操の危機だという指摘を否定はしないが、私はこれまで、最悪手足を焼き落とされるリスクを負ってまで代入者の夜這いに挑戦する豪傑にはお目に掛かったことが無い。

「……そうか、ならそれでいいだろう」

 そういった感覚を理解する少佐もあっさりと許可を出した。再びリックが素っ頓狂な声を上げる。エリザやバイロン卿が噴き出しそうなのを必死で堪えている理由は――、察しがついたが触れずにおいた。

 その後は幾つか小さな確認をして解散する流れとなった。

 時刻は二十一時にならないくらいだったが、特にやることもなかったので、私達はそれぞれの自室に戻り――当然リックは私の部屋だ――早めに休むことにした。

 シャワーを浴び、寝る支度を整える。昼間散々寝てしまったせいか全く眠気が湧いてなさそうなリックを尻目に私は先に床に就いた。日付が越える頃には彼も微睡むくらいはできるだろうと思って。

 そして翌朝。私は、眼の下に濃い隈を刻んだリックの顔に対面することとなる。

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