謎の代入者と少年
エリザと一緒に正門を出た私は、遮るものの無い朝日を浴びながら伸びをして、午前中特有の澄んだ空気を肺に取り込んだ。工場の煤煙などによってロンドンの空はいつでも霞がかかったようにぼやけているのだが、この辺りはまだ空がよく見える。
「北の原っぱの方に行くか?」
「そっちも実習でうるさくなるわ。街に出ましょう」
「了解」
ロンディニウム学院はロンドンの郊外と市街地の境目あたりに位置している。
広大な敷地を堅固な塀がぐるりと囲み、南に面した正門の奥に、鉄骨と煉瓦で作られた威圧感のある校舎が建つ。校舎の東側に併設されているのは、向かい合う男子棟と女子棟を共有棟が繋ぐコの字の形をした寄宿舎。敷地の北側には演習場として学院が所有する森と平野が広がり、その向こうは郊外の村落に至る。
反対に、正門から真南に延びる道は都市部に繋がっている。この道を真っ直ぐ南下した先に、世界最大の都市の中心があるのだ。
私とエリザは連れ立ってその道を歩いた。のどかな様式だった通りが、段々と密度の高い都市部の町並みに変わっていく中、私達はポツリポツリとここ一ヶ月ほどの近況を報告し合った。
情報技術系に才能を示していたエリザがついに軍の情報通信部に出入りさせてもらえるようになったこと。交際していた人物と最近疎遠になったらしいこと。コヴェントガーデンで美味しい菓子の店を見つけたということ。
私もなるべく血生臭い描写を避けつつアフガンでの出来事を伝える。特に往きと帰りに乗った最新の飛行船についてはエリザが聞きたがったので覚えている限りを話し尽した。
学院の周辺ではまだ多かった道沿いの草木もだんだんと少なくなり、やがて、周囲の景色から緑の色彩が完全に消滅する。
代わりに視界を支配する鉄と石材と煉瓦の色で、私達は本格的に倫敦の市内に入ったことを知る。
不揃いの石が敷き詰められた石畳の道路の上を大勢の人が闊歩していく。まだ都市の端の部分に当たるため低所得層が多いが、それでも道行く人々の顔触れはバラエティに富んでいた。職人、メイド、水売りといった昔ながらの職業もいれば工場労働者、機械技師といった最新の職業の従事者もいる。技術革命以降、都市部に流入した農村民は新たな技術が生み出した職種の担い手として活躍している。
通りに並ぶ煉瓦積みの建物の表面には電気ケーブルと蒸気管が蜘蛛の巣のように張り巡らされている。蒸気管とケーブル類は家々を渡り、シティの中心から端までを網の目のように繋いで郊外の供給源にまで続いていた。
配管とケーブルが建物を連結する倫敦。俯瞰してみれば、古くからの町並みに鉄の網が被さっているように見える事だろう。更に再開発が進んだセントラル・ロンドン近辺では首が痛くなるほどに見上げなければ天辺が見えないような高層建築が日々増えている。
中心街より届いてくる蒸気クレーンの音を耳にしながら、私達は雑踏の隙間をすり抜けてゆく。行き交う人々がちらちらといぶかしげな視線を投げてくるが、私達は気にせずに会話を続けた。男装の私に加えて、エリザも丈を短くした改造制服を身に着け脚を露出しているのだ。注目の的になるのも無理はない。
「流石に歩きづらくなってきたな」
「彼らはこれからが稼ぎ時だもの。そりゃあ、人通りも多くなるわよ」
「これでもピカデリーとかの大通りよりはましっていうんだからスゴイもんだ」
「伊達に国中から人が流れ込んでないわね。――それじゃ、どうしましょうね」
「ん? 適当なところで帰るんじゃないのか」
問い返すと、エリザはまるで私が無粋なことを言ったかのようにやれやれと首を振った。
「ここまで来てとんぼ返りってのも味気ないでしょ。折角午前中丸々空いてるんだから、軽くお茶していきましょう」
「えっ。待て、午前中ずっと学院に戻らないつもりか」
「ダメだった?」
「ダメだったって……。午後の講義の予習はどうなるんだ」
「一ヶ月半も遅れてるのよ。そもそも今からやったって午後の講義に間に合う訳ないじゃない。流石の私も一、二時間でそれだけ教え込むのは無理よ。まあ安心しなさい。一週間後くらいには今の授業進度に追いつけるようにしてあげるから」
だからって今日さぼっていいわけでもないが……。「代わりに今は付き合ってね」と笑うエリザに、私はペースを握られていることを自覚しつつも頷き返した。
「それならいいけどさ。お茶ね……、いつものとこでいいか?」
「勿論」
私達の行きつけと言えるカフェはロンドンの東部にある。現在位置は北東寄りの路地なので多少距離があるが、私達はどちらも軍のカリキュラムでしごかれている身だ。少しばかり歩くくらい苦にならない。
ただ、裏道に面しているため、広い通りを使って行こうとすると若干遠回りになってしまう。時間のロスを嫌った私達は近道となる細道に踏み入った。女二人でロンドンの裏通りを散策しようというのは些か危機感に欠けていると言わざるを得ないが、幸い私達はどちらも神理機関を所持した代入者だ。不埒者が現れようと排除することができる。
大通りを外れ一気に薄暗くなった路地は、左右の建物から排出される蒸気が立ち込めてうっすらと煙っていた。
じっとりと水気を含んだ空気を切って、私とエリザは迷路のように入り組んだ細道の奥へ迷うことなく侵入する。途中途中で裏路地をねぐらにする、犯罪の世界に片足を突っ込んでそうな人物らに出くわしたが、何れも腰にぶら下がる鉄の箱を目にすると怯えたような顔をしてそそくさと去っていった。
道のりをショートカットしていき、目的の店まであと一ブロック。
しかし、そこで私達の耳にかすかな異音が飛び込んできた。硬いものが何かにぶつかったような鈍く、それでいて湿ったような音。
「! 聞こえたか、エリザ」
「ええ、どうやら聞き違いじゃなさそうね」
弛んでいた気が瞬時に張り詰める。エリザはともかく、私はその響きにとても馴染みがあった。あれは、頭蓋骨が何かに激突する音だ。
音源は前方の十字路を右折したところ。私とエリザは無言で頷き交わすと、忍び足でその交差点に近寄った。身を低くし、曲がり角から顔だけ出して状況を窺う。
十メートルほど先に小さな人だかりが出来ているのが確認できた。服装からして貧民層だろうか、柄の悪い男たちが一人の人物を壁際に追い詰めて囲んでいる。囲まれているのは私と同年代の少年で、その少年は地面に横たわり、ざっくり切れたこめかみからだらだらと血を流していた。低い声で恫喝する男たちの様子を見るに、先程の音は、少年が彼らに絡まれて壁に頭を叩き付けられた時のものだろう。
(……どうしたものかな)
倒れ伏す少年に詰め寄る集団を眺めながら、私は次に取るべき行動を考えていた。
少年はそれなりに上等な生地の衣服を身に着けており、手には子供一人がすっぽり入りそうなサイズの鞄を抱えている。お世辞にも治安がいいとは言えないロンドンの裏道において、その服装と大荷物は襲ってくださいと宣言しているのに等しい。私達のように自衛が効くならともかく、自分の身も守れないのにのこのこやって来たのなら、それはもう自業自得としか言えない。
見たところ出血量は多いが傷は浅い。苦痛に呻いているあたり意識もはっきりしているようだ。あれなら死ぬことはないだろうし、脳に影響もないだろう。
連中が命に係わる危害を加えようとするのなら流石に制止するが、もしもこのまま身ぐるみ剥がされるだけなら、或いは放っておくべきかもしれない。高い勉強料となるが、その方が少年も危機管理に注意を払うようになるのではないか。
そんな風に考えていると、私の耳元に口を寄せたエリザが無声音で囁いた。
「あの男子を助けなさい」
「え?」断言口調に思わず聞き返した。
「無防備に裏路地に入った一般人なら放っておくべきじゃないかとか考えてたでしょ。馬鹿ね。連中の後ろに立ってる男、それから彼の腰にぶら下がってるものを見なさい」
エリザに指示されるまま私は視線を走らせる。少年が転がって体勢が変わったことで目に入ったもの。そして荒くれ者の集団のやや後方で成り行きを見守る、ただ一人身なりの良い男を見つけ――その外套の一部が膨らんでいると認識した瞬間、
「――――っ!」
エリザの言わんとすることを理解した私は、角で身を隠すのを止めて走り出していた。
同時に腰に手をやり、匣側面のスイッチを切り替える。
容器に封入されていた圧縮蒸気の力を受けて神理機関が作動する。機関を組み上げる部品が私の命素の波長に共振し、生命エネルギーを内部に取り込んだ。吸収された命素は記憶領域に刻まれたプログラムによって術式へと加工され、外部へ放出される。
蒸気が盛大な音を立てて排気筒より噴き出す。パッシブスキルとして設定されている身体強化術式の恩恵を得て、私は一歩目に倍する速度で二歩目を踏み切った。
少年に気を取られていた男らは、物陰から出現した私への反応が遅れた。奇襲は完全に成功し、彼らが私の姿を捉えるよりも先に私は己の手が届く位置に辿り着いていた。
「あ、なんだ…………う、ぎゃあ!?」
最も自分に近かった男の袖と襟に手を伸ばし、掴むや否や右脚の裏を相手の足の外側に炸裂させ刈る。大柄な体があっけなく宙を舞い、男は後頭部から地面に叩き落とされて白目を剥いた。極東にて《柔術》と称される技の一種。一応、手加減したが数時間は目覚めまい。
続く二人目と三人目も投げ飛ばしたところで、やっと残りの者達が臨戦態勢に入った。襲ってきたのが少女であることに驚いた顔をしつつも戦闘準備をする。拳を固める者、ナイフを引き抜く者、懐を探っている者は銃を取り出す気だろうか。
前傾姿勢をとった私はその内のナイフを持った者に素早く接近し、折り畳んだ左手を撃ち出した。低い位置から直上に突き上げられた掌底が柄を握る右手の手首を撃ち抜く。痛みと衝撃で相手がナイフを取り落とす。
落下するそれを私は空中で掴み取った。
「……《Code:Dead flame of Eris》」
短い文字列を舌に乗せる。機関自体は音声を認識しないが、内部に書き込まれた魔術式は人の声と意思を捉える。即座にコードに対応した魔術が出力された。
紫電と業火。魂から引き出された力が具現化する。アフガンの地で刀を包んだ時のように、ナイフの刃身を高密度のエネルギーが被覆した。紅と紫の二色の輝きに包まれたナイフをくるりと手の中で回転させ、ゴロツキ達を見据えた。
「ナイフ燃えたぞ!?」
「コイツまさか、代入者か!?」
突如として起こった発火現象に、連中はいよいよ敵がまともじゃないことを悟ったようだった。ヒュンッと大袈裟にナイフを一振りすると、青ざめた顔で一斉に後退する。
もう彼らの側から手を出してくることはないだろうと判断し、私は更に地を蹴った。戦意の萎えたならず者たちの横を過ぎて、通りの奥に佇む紳士風の男の元へ突撃する。
「――シュッ!」
疾風の速度で距離を詰め、気合とともに斬り上げを放った。燃え盛る刃が右下から左上へ深紅のラインを描く。ゴロツキ共に叩き付けたのとは訳が違う、本気の一撃。直撃すれば怪我では済まないだろう高熱の刃は――しかし、標的の脇腹に届く前に停止した。
キィィンと、フルートの音のような甲高い澄んだ音が路地に響き渡る。
紳士風の男は左手に提げていたステッキを無造作に持ち上げ、その中程でナイフの切っ先を受け止め防いでいた。上質な黒檀の棒に、やけに巨大で厳つい作りの純銀の握り、そしてそれらの表面に無数に走る光の線。高級そうなステッキの総身は命素の輝きで包まれていた。
やはりか、と私は推測が当たっていたことを確信し、眉を顰めた。相手に当たりそうならナイフを止めるつもりだったがそんな心配は無用だった。
元々、上等な衣服は無頼漢共の仲間には見えず、立ち振る舞いも隙が無かった。何よりも、大理石すら容易く断ち切る炎刃を止める防御力と反応速度。間違いない。眼前の男は私の御同業、つまりは代入者だ。恐らく、腰のあたりにあった外套の膨らみ部分の下に神理機関が隠されているのだろう。
ギリギリと押し込まれるナイフの切っ先と、それを押さえるステッキの腹との接触点から火花が弾ける。些か変則的な鍔迫り合いを続けながら、私は愛刀を寄宿舎に置いてきてしまったことを後悔していた。代入者とやり合うのに武装が小型のナイフ一本では心もとないにも程がある。
もっとも、それは敵に戦闘の意思がある場合に限るが。
ナイフに篭める力を緩めないまま、切り結ぶ相手の顔を見上げる。
歳は三十半ばか。性差を考えれば当然であるが私よりも高い位置にある日に焼けた顔。髭の類はなく、剃刀の当てられた顎のラインは角ばっている。高い鼻梁は、目深にかぶった帽子の下の切れ長の鋭い眼と合わさってある種の猛禽を私に思い起こさせた。私の乱入に幾らか驚いた様子こそあれ、その表情に動揺は窺えない。
この男がやる気なら、すぐにでも戦いの火蓋は切られる。個人が所有するには過剰な、完全武装の軍隊すら壊滅させる武力が激突し、巻き起こされる被害はこの路地のみならず表の通りにまで波及することだろう。
やるのか、やらないのか。気の抜けない均衡状態が一秒、二秒と過ぎ、その間私は如何なる予備動作も見逃さぬように神経を張り詰めさせていた。
やがて、紳士風の男が僅かに力を抜く気配があった。合わせて、私も後方に跳躍し大きく距離を取った。私がナイフを構え続ける中、男はおもむろにステッキを下ろした。
「……ここまでだな」
変に耳につく言葉を発すると、細身の紳士モドキは外套を翻して反転し、迷いのない足取りでこの場を去った。裏路地に満ちる霞の奥に長身の姿がゆっくりと溶けていった。
針の落ちる音にすら反応せんばかりに気を張り詰めさせていた私は、敵の後ろ姿が完全に見えなくなってからようやく息を吐き、臨戦状態を解除した。
「ひっ、ひぃ!」
私が回れ右したのを切っ掛けに、茫然と立ち竦んでいたゴロツキ達も夢から覚めたように動きを再開し、引き攣れたように喉を鳴らした。あの男に金で雇われていたのであろう彼らは、未だ昏倒したままの仲間を引き摺りつつ這う這うの体で近くの脇道へ逃げ込んでいく。
奴らを締め上げても碌な情報は得られまい。わざわざ追いかける意味はないと判断した私は、ゴロツキどもは勝手に逃げるに任せ、箱側面のスイッチを切り替えて機関の運転を停止させた。
奪ったナイフを道の端に捨てて、私はうつ伏せで倒れる少年の下に歩み寄った。既に彼の傍には十字路から出て来たエリザが跪き、容体を診ていた。
「命に別状はなさそうよ。血はもう止まりかけてるし、呼吸も安定してる」
「それは良かった。助けようとしたのに死んでしまいましたとかは寝覚めが悪いからな」
「にしても、本格的な戦闘にならなくてよかったわね」
「お前の事だから、そうならないことまで計算してたんだろ」
「さあ、どうかしら。買い被りじゃない?」
謎の代入者と戦いになる確率が低いことは私にも予想はついていた。自分だけでも十分な力があるのにわざわざ荒くれ者を使っていたのは、術式の行使などで目立つことを避けたかったから。そんな奴が派手なドンパチを望むはずがなかった。
「あの男についてアンの見立ては?」
「ブレが無い体幹に、私の初撃を受け止める技量。ほぼ間違いなく軍属で、それも相当な手練れ。騒ぎを嫌った素振りがあったから、もしかしたら極秘の任務中かも。そっちは?」
「おおよそは貴方と同じ。付け加えるなら、この国の人間じゃない可能性が高い」
「ん? 何で分かるんだ」
「最後に彼が一言呟いてたでしょう。その言葉に妙なイントネーションが含まれてた。あれはコックニーやウェールズ訛りじゃないわ。多分海外の訛りよ」
ここまでだな、と言った似非紳士の発言がやけに耳に引っ掛かったことを思い出す。
「海外ね。範囲は特定できるか?」
「そこまでは分からないわ。アメリカ訛りとかではなさそうだったけど。でも、この子が起きれば手掛かりは得られるかもよ」
そう言ってエリザは紺碧の瞳を足元の少年に落とした。
私も地面に膝を着いて、改めてじっくりと少年の顔を眺めた。
髪の毛は燃えるようなという形容詞が似合う見事な赤毛。全体的に線が細く学究の徒といった雰囲気を漂わせているが、意思の強そうな目元がその印象を裏切っている。今は目を瞑っているが、開けばさぞ頑固そうに見える事だろう。
身に着けているのは簡素だが清潔できちんとした仕立ての作業服。抱えているのは何が入っているのか定かではない軽金属製の巨大なトランク。そして腰のベルトには……、一辺十五センチ程度の鋼鉄の箱がぶら下がっていた。この少年もまた代入者なのだ。
それが、私達が彼を助けることにした理由だった。
代入者が人を使って代入者を襲わせている異常事態。敵は初めからこの少年を標的にしていたと考えるのが自然だ。それは、彼が自業自得の考え無しではなく、何らかの事件に巻き込まれた被害者であることの証左であった。
「なあ。あんた、意識は保ってる?」
同い年くらいの少年の耳元に顔を寄せて声を掛ける。私の声に反応して少年が薄眼を開けた。赤銅の眼は数瞬宙を彷徨ってからこちらの姿を捉える。
「君は?」と掠れた声が問うてくる。
「西園アンナ。一応、あんたを助けた者だよ」
「そうか……、ありがとう」
「礼は一先ずいい。まずはあんたを治療しようと思うんだけど、その前に何か要望はあるかな」
「ああ……それなら」
どこか、軍の施設に連れて行ってくれ。そう言い残してガクリと気を失った少年に目線を向けたまま、私は隣のエリザに訊く。
「軍施設ね。何処が都合いいと思う?」
「そりゃまあ、一つしかないでしょ」
「だよなぁ」
私は脱力するように言って、腰に手を回し再び神理機関を作動させた。筋力が上昇するのを確認し、ひょいと少年の身体を担ぎ上げる。細く見えたが意外と体重がある。きっと鍛えているのだろう。蒸気の残量は十分にあるからしばらくは持つだろう。
ただ、今日のところはお茶を諦めることになりそうだった。




